2022年4月17日日大阪東教会復活祭礼拝説教「心は燃えていたではないか」吉浦玲子
肉体をもって復活をされたイエス・キリストはさまざまな形で弟子たちと出会ってくださいました。復活のキリストとの出会い方はマグダラのマリア、トマス、ペトロ、それぞれに違いました。今日、出てくる二人の弟子たちともまた特別な出会い方をされました。復活のキリストは、一人一人と特別に出会ってくださるのです。逆に言いますと、一人一人と特別に出会ってくださるからこそ、私たちは復活のキリストを信じる者とされるのです。
さて、弟子たちはエマオという村に向かっていました。エマオはエルサレムから10キロほどのところにありました。彼らはエルサレムから離れようとしていました。先生として仰いでいた主イエスが捕らえられ十字架におかかりになり死んでしまわれた。その衝撃と悲しみの中で、そしてまた同時に、エルサレムにいては自分たちの身にも危険が迫るかもしれない。いろいろ混乱する思いの中で彼らは、エルサレムの町から去っていきました。
彼らは主イエスの逮捕から十字架までの一連の出来事をどう受け止めていいか、まだ分かっていませんでした。19節を読みますと「行いにも言葉にも力のある預言者」だと彼らは主イエスのことを思っていたことがわかります。彼らは実際多くの素晴らしい主イエスによる奇跡の出来事を見て、この方こそイスラエルを救ってくださる、力強い預言者だと信じていました。そしてそれまで聞いたことのない神の国の話も聞きました。主イエスの言葉は知識や学問によるものではない、権威ある神の言葉だと感じて彼らは聞いたのです。この先生は、ほかの先生とは違う。大きな力を持っておられるお方だ、どこまでもついていこうと彼らは思っていたでしょう。しかし、その主イエスが、死んでしまった。それも英雄のような最期ではなく、みじめな罪人として、もっとも恥ずべき十字架刑を受けて死んでしまわれた。「この一切の出来事について話し合っていた。」とあるように、彼らは互いに論じ合いながら歩いていました。しかしいくら論じ合っても、せんないことでした。
そんな彼らに「イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた」とあります。「しかし、弟子たちの目は遮られていて、イエスとは分からなかった」のです。不思議なことです。ヨハネによる福音書では復活のキリストと出会ったマグダラのマリアもまた最初、相手が主イエスとは分からなかったと記されています。復活のキリストは十字架の前とお姿が変わっておられたわけではありません。しかし、二人の弟子たちもマグダラのマリアも分からなかったのです。
二人の弟子は、イエスから「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と聞かれると「暗い顔をして立ち止まった」とあります。弟子たちは暗い顔をしていたのです。マグダラのマリアも墓の前で途方に暮れて泣いていました。復活のキリストがそばにおられても、目が閉ざされているとき、人間は明るくはなれないのです。暗い顔をしたり、涙を流すのです。これは私たちのキリストとの出会いとも同じです。そもそも二人の弟子たちはエルサレムで婦人たちが「イエスは生きておられる」と言っていることも聞いていたのです。誰かとの別れがあったり不幸に見舞われたとき、それでもその悲しみから心を整理して立ち直ろうとしているところに、その悲しみの根幹に関わる事柄で理解しがたいことを聞くと、当然余計心は混乱します。立ち直ることが難しくなります。彼らにとって復活についての言葉はいっそう、そうだったでしょう。弟子たちも心はさらに混乱し、顔はいっそう暗くなりました。しかしまた復活という神の現実を知らない限り、人は本質的に暗い顔をするのです。私たちもまた、キリストを知る前、暗い顔をしていたのです。
その暗い顔をしていた弟子たちに、主イエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」とあります。聖書についてなんと主イエスご自身から講義していただけたのです。今日の週報の表紙に弟子たちとエマオに向かって歩まれる主イエスの姿を描いたロバート・ズンドの絵画を印刷しています。美しい明るい春の道を三人がいきいきと語り合いながら歩む様子が描かれています。これは画家の想像力によって描かれたもので、実際の、エマオへの道がどのようであったか、三人の様子はどうであったかはわかりません。しかし、今日の聖書個所の最後にあるようにこのとき弟子たちの「心は燃えていた」のです。しかし、主イエスご自身が主イエスご自身について語られる言葉を聞きながら、なお弟子たちは、語っておられるのが復活の主イエスであることが分かりませんでした。復活のキリストを復活のキリストとして知るためには聖書の学びを超えた何かが必要なのです。
彼らは目指す村に近づいたとき、先に行こうとされる主イエスに「一緒にお泊りください」と申し上げます。主イエスから話を聞いていた彼らの中に少し変化が起こりました。暗い顔をしていた彼らは客人として主イエスをもてなそうという気持ちがわいてきたのです。「一緒にお泊りください」主よ、共に宿りませ、そう彼らは言ったのです。
今日は歌いませんが1954年の讃美歌39番に「日暮れて四方はくらく」という讃美歌があります。「日暮れて四方はくらく/わがたまはいとさびし/よるべなき身のたよる/主よともにやどりませ」という詞になっています。この讃美歌は静かなメロディーとあいまって、情感的に歌われることが多いと思います。この世をよるべなく生きる私たちと共に、神様、ともにいてくださいと切々と響いてくる讃美歌です。ちなみに豪華客船タイタニック号が海に沈んでいくとき、甲板で音楽家たちが最後まで演奏を続けた逸話は有名です。その時、演奏されたとされる曲の一曲は「主よ、みもとに近づかん」という讃美歌だと言われます。しかし、この「日暮れて四方はくらく」も演奏されていたという生存者の証言もあるそうでうす。たとえ暗い冷たい海に放り出されようとも、なお共にいてくださる神がおられる、パニックと恐怖の中で、この曲を人々がどのように聞いたのか想像もできません。しかしなお、絶望的な状況の中で神がおられる、命と死を超えて共に宿ってくださる神がおられる、それは私たちの希望です。その希望に揺るぎはありません。しかしまた私たちはこの讃美歌をあまり情緒的に聞いたり歌うことには注意をせねばなりません。主が共に宿ってくださる、ということは復活のキリストが共に宿ってくださるということです。二人の弟子たちのようにみ言葉を聞く者と共に宿ってくださるということです。人生の荒波の中、神が共にいてほしいということ以上に、復活のキリストがはっきりと見えるように、共に宿ってくださいと願うのです。まだしっかりと復活のキリストを見ることはできない、あるいは頭での理解でしかないかもしれない、しかし、少しずつみ言葉によって変えられて行っていく、確信はもてない、ちょうど夕暮れ時のくらい景色がはっきりしないような心のうちに、復活のキリストに「共に宿ってください」「一緒にお泊りください」と願うとき、主は共に宿ってくださるのです。そして復活という神の現実、肉体をもって復活してくださったキリストの現実を教えてくださるのです。復活のキリストにどうぞ私の内側にお入りくださいと扉を開ける時、その最初は洗礼の時とも言えますが、肉体をもって復活をされた主イエスは私たちと共に宿ってくださいます。
さて弟子たちと家に入られた主イエスは不思議なことにその食卓において、客人ではなく、主人のようにふるまわれます。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」と食卓の主導権を握っておられます。そしてまさに主イエスがパンを裂かれたその瞬間、二人の弟子たちの目は開かれました。ここで分かることは人間の目が開かれること、復活のキリストを理解することは、キリストの側の働きかけによることなのだということです。どれほど勉強して聖書の知識を積み上げても、復活のキリストを自分の内にお招きし、そこでキリストご自身が働いてくださらなければ復活のキリストを知ることはできません。
一方、復活のキリストを知ることは肉眼でキリストを見ることとは関係のないことが、二人の弟子たちがイエスだとわかったとたん、その姿が見えなくなったことからわかります。実際、復活のキリストと共に道を長い時間歩いたのに、彼らはそれが復活のキリストだとは分からなかったのです。しかし、キリストによって目が開かれました。そして彼らはエルサレムへと引き返しました。復活のキリストの弟子として生きることを選択したのです。彼らはもう暗い顔をしていませんでした。肉眼でキリストを見ることなくても、復活のキリストが共に宿ってくださり、これからも共にいてくださることを知ったからです。私たちもまた復活のキリストを肉眼で見ることはできませんが、復活のキリストの弟子となることを選択した者たちです。
「道で聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」そう彼らは喜びの声をあげます。まさに傍らで主イエスの声をきいていたとき、すでに心は燃やされていたのです。自分自身が洗礼前、母教会に通っていた時、今思えば、確かにあの時、私の心は燃えていました。阪急電車の岡町駅を降りて母教会までの10分弱の道のりでした。まだ洗礼を決意していなかった時ですら、すでに今思えばキリストによって心を燃やされていました。あの阪急の駅から母教会までの道が私にとってのエマオへの道でした。みなさんにもそれぞれに心を燃やされたエマオへの道があったと思います。週報の表紙の絵のように生き生きと語り合っているそんなエマオへの道があり、今もその道が続いています。
心が燃えていた、という言葉は、口語訳や文語訳では「心の内が燃えていた」と心の内側という言葉になっています。実際、ギリシャ語の原文でもそのようになっています。心の内側ですから、外からぼうぼうと燃えているような燃やされ方ではないのです。炭火が静かに赤く燃えるように、あるいは小さなともし火がともされているように燃やされるのです。燃えていない信仰などはありません。燃えていないひんやりとした信仰などはありません。形式的には厳粛だけど、内側は燃やされていない、そんな信仰はありません。ただ静かにお行儀よく学んだり祈ったり奉仕をするのが信仰ではありません。復活のキリストに内側で燃やされ、共に宿っていただく。そこに救いがやってきます。十字架の前のキリストの言動を知っていた弟子たちは目は開かれなかった。人の言動によって人間が変えられることもありますが、それは救いには至らないのです。復活のキリストによって心の内側を燃やされない限り、まことの救いには至らないのです。まことに救われた弟子たちがすぐさまエルサレムに戻ったようにそこにはダイナミックな動き、豊かな感情の働きが伴います。復活のキリストと出会うことはそのあなたの心が内側で燃やされることです。そしてキリストによって変えられることです。一人一人のエルサレムに向かうことです。私たちは今日も復活のキリストと出会い、心を燃やされます。
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