大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

マルコによる福音書第5章21~34節

2022-05-11 18:12:06 | マルコによる福音書

2022年5月8日日大阪東教会主日礼拝説教「あなたはほんとうに生きていますか」吉浦玲子

【説教】

 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」

 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

【説教】

 今日お読みした聖書個所で、癒された女性に主イエスはこのように語っておられます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 人間は誰でも病気にかからず元気に暮らしたいと願っています。しかし、多くの人は病気にかかるのです。病気にかかりたくてかかる人はほとんどいないと思います。少なくとも重篤で長期間、日常生活に支障をきたす病気にはなりたくないと思います。不摂生が病気の主たる原因であるなら「あなたの生活を整えて、もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」ということは言えるかもしれません。栄養や休養や運動に気を配って生活をして元気に暮らしなさいということは分からないでもありません。しかし人間の体は不思議なもので、持って生まれた体質や様々な条件によって、似たような生活をしていてもある人は元気で、ある人は病気になります。そして今日の聖書個所に出てくる女性は12年も患っていたことが記されています。多くの医者にかかったとありますから、できる限りの手は尽くしたのです。そのうえで病気は治らなかったのです。出血が止まらないということは、律法で汚れた者とみなされることでした。汚れた者は信仰共同体から排除されるのです。ですから、この女性が好き好んでこの病になったわけではありません。病になるような特別な不摂生をしたわけでもないでしょう。そもそもこの病気の原因は分からなかったのです。なのに主イエスは「もうその病気にかからず」とおっしゃるのです。かからないですむ具体的な手立てがあるように思えないのになぜ主イエスはこのような言葉をおっしゃるのでしょうか。

 そのことを心に留めながら、今日の聖書個所を読んでいこうと思います。主イエスは湖を再び舟で北西に進まれ、イスラエルの地に戻ってこられました。湖の南東側の異教の地では、主イエスは悪霊を追い出されたにもかかわらず「この土地から出ていってほしい」と言われました。それに対して、ユダヤの地では主イエスの周りに大勢の群衆が集まってきました。主イエスに癒してもらいた人々、主イエスに悪霊を追い出していただきたい人々、主イエスの話を聞きたい人々、そのような人々が大勢集まってきたのです。その大勢の人々の中で、二人の人が今日の聖書個所では描かれています。会堂長のヤイロという人と、出血の止まらない女性です。この二人は相互には関係のない人です。その二人の物語が並行して進んでいきます。

 最初に登場するのはヤイロで、瀕死の状況にある娘を救ってほしいと願います。主イエスはヤイロと一緒に出掛けます。一刻を争う状況でした。急ぐ主イエスとヤイロに群衆も従ってきて押し迫ってきたとあります。急ぐ主イエスたちにとっては歩きにくい、邪魔な状況です。そのような状況の中で、十二年間出血の止まらない女性が群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れたとあります。さきほど申し上げましたように、律法によれば出血のある女性は汚れているので、本来、このようなことをしてはならないのです。汚れた人間が他の人に触れると、その触れられた人も汚れるからです。汚れた人間は共同体の中に紛れ込んではいけないのです。しかし、主イエスに触れた女性はたちどころに癒されました。

 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と聞かれました。その時、主イエスは歩みをとめておられたでしょう。一緒にいたヤイロは気が気でなかったと思います。娘の命が危うい、一刻を争うときに、「わたしの服に触れたのはだれか」などと悠長なことを主イエスはお聞きになっているのです。そもそも群衆が主イエスに押し迫っている状態で、誰が降れたかなど問うのはナンセンスであり、弟子たちも「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」と驚きます。おそらく主イエスは、誰が触れたかはお分かりだったと思います。しかし、敢えて問われたのです。女は自分の身に起こったことが恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました。ここで分かることはこの話は女性の病気が癒されてよかったで終わる話ではないということです。女性が恐ろしくなったのは、自分に神の業が起こったことを感じたからす。そしてまた自分が律法に違反したことも知っていたので震えながら出てきたのです。

 そして正直にすべてを語った女性に主イエスは冒頭に語った言葉をおっしゃいます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」もちろん女性に信仰がなかったから病気になったわけではありません。しかし、女性は主イエスの福音を聞いたわけでもありません。自分の罪を悔い改めたわけでもありません。ただ主イエスに触れようとした、病気が治りたい一心だったのです。しかしその女性が主イエスに触れた、それを主イエスが「あなたの信仰」とみなしてくださったのです。私たちは自分の信仰が立派とかだめだとかいろいろ考えるかもしれません。祈りが足りない、聖書の学びが足りない、奉仕が足りない、そんなことを考えるかもしれません。しかし、信仰というものは主イエスに触れようとすることなのです。自分の人生の中で、日々の生活の中で、主イエスにほんの少しでも触れようとするとき、それを主イエスが「あなたの信仰」だとご覧になってくださるのです。

 息子が小学校の低学年くらいのころ、一緒に近所に買い物に行くとき、道で手をつないで歩いていました。ところが、ある時、息子がぱっと手を離すのです。あれ?と思ったら、向こうから友達がやってくるのです。ははあ、友達にお母さんと手をつないでいる姿は見られたくないのだなと思いました。そういうのが恥ずかしい年ごろになったんだなと感じました。その後、その友達がいなくなったら、また、手をつないでくるのです。かわいいようなおもしろいような気持でした。もっと小さいときであれば、どこでも誰の前でも親と手をつないでいたのです。そして当然ながら、もっと大きくなると親とは手などつながなくなります。陳腐なたとえかもしれませんが、神の子供とされている私たちは幼子のように神と手をつなぐのです。心置きなく主イエスに触れるのです。人の目を気にするとき、私たちは神から手を離してしまうのです。神から手を離し、自分一人で立派な信仰者としてふるまうのです。そこには本当の信仰がありません。

 一方で、神に触れるということは畏れ多いことのように感じられるかもしれません。実際、旧約聖書を読みますと、神とは聖なる方であり触れることはおろか、顔を見ることもできないお方と考えられていたことが分かります。<神の顔を見たら死ぬ>そう考えられていました。実際、神は聖なるお方です。罪ある人間がそもそもは触れてはならない存在なのです。しかし、主イエスが来られ、神と人間の間を隔てていた罪を主イエスご自身が引き受けてくださいました。ですから、主イエスのゆえに私たちは神と触れることができのです。そしてまた主イエスに触れることを通して私たちは神を知ります。主イエスに触れることのないものは神を知ることができません。 人生の歩みの中、主イエスから手を離して自分の足で歩いているつもりになっている、それは愚かなことです。人の顔ばかり見て主イエスに触れることのない信仰生活、それもむなしいことです。さきほども申し上げましたように、この出血の止まらなかった女性は、何か信仰的なことをしたわけではありません。福音を聞いて信じたからでも、悔い改めたからでもありません。ただただ主イエスに触れたのです。そこに癒しと救いが訪れました。

 触れる触れるというと、じゃあどうやって触れるのだ、自分は主イエスに触れてるのかどうか分からないと思われるかもしれません。でも考えてみてください。これまで神に守られたこと、神に助けられたことは数多くあったのではないでしょうか?人間の顔や自分の行いばかり見ていたら、神の助けや恵みは分かりません。日本人にありがちなことですが、神に助けられているのに「皆さんのおかげです」と周囲に気遣ってばかりいるとき、神の助けが分からなくなってしまいます。でもほんとうに神に助けられている、そのことを知る時、すでに神の方から、主イエスの方からあなたに触れてくださっていたことが分かります。信仰がないにもかかわらず、悔い改めが不十分であるにもかかわらず、自分の罪ゆえ自業自得のように苦しんでいるにもかかわらず、主イエスがすでにあなたに触れてくださって救ってくださっていることに気付くのです。繰り返しますけど人間ばかり見ていたら、どれほど信仰的行為を行っていても生涯あなたに主イエスが触れてくださっていることを気づくことはありません。神がすでに触れてくださっていることに気づかない、それが罪であり、人間の病です。

 「もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と主イエスがおっしゃった「その病気」という言葉は「あなたの病」「あなたの苦しみ」ということです。つまり神と離れていることからくる病、苦しみのことです。主イエスを知る前の人間の根源的な病のことです。その根源的な病から解放されて、まったく新しい人間として健やかに暮らしなさいと主イエスはおっしゃっているのです。この女性は病が癒される、いってみればご利益を求めました。しかし、主イエスが与えられたのはそれ以上のことでした。まったく新しくされて、根源的な健やかさをいただくことでした。体の病であれば、ふたたびかかることもあるでしょう。どれほど体が健康であっても、最後には人間は肉体的には死ぬのです。

 しかし、その死を打ち破ってくださった復活の主イエスが触れてくださった。だから私たちは新しく生きていくことができるのです。そのとてつもない恵みに感謝するとき、私たちはおのずとみずからもまた主イエスへと触れる存在になるのです。神がしてくださったことを素直に喜ぶ心、自分の業でも誰かほかの人の業でもない、神の業を喜び祝うとき、私たちはすでに神に触れているのです。

 「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」



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