大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書 6章22~33節

2018-08-07 13:03:16 | ヨハネによる福音書

2018年7月29日 大阪東教会主日礼拝説教 神が与えられる食べ物吉浦玲子

 

<しるしをみない>

 

 主イエスからふしぎなやり方でパンと魚をいただいた人々は、主イエスを追い、湖を渡りました。6章の14~15節に「「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」とありますように、人々は主イエスに王になっていただきたかったのです。そのことを知った主イエスはその場からお逃げになりました。しかし、人々はあきらめませんでした。幾人かの人々が小舟に乗り、主イエスを追ってきたのです。おそらく、5000人の群衆の内、特に熱狂的な人々か、リーダー的な人々が渡って来たのでしょう。そして湖の向こう側でイエス様を見つけると「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と声をかけました。ラビというのは聖書に良く出てくる言葉で「先生」という意味ですが、「先生」と、うやうやしく声をかけながら、「いつ、ここにおいでになったのですか」という言葉には少し非難めいた響きがあります。なんで自分たちにことわりもなくここにやってきたのか、そんなニュアンスがあります。「ラビ」と一見敬うような言葉で呼びかけながら、実際は、主イエスに自分の思い通りに動いてほしかったのです。自分たちがあなたを王としようとしているのに、なぜあなたはいなくなったのか。なぜ自分たちのためにその力を使ってくれないのか。そのような非難のニュアンスがあります。

 

 それに対して主イエスは、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」とおっしゃいました。

 

 ヨハネによる福音書では、主イエスのなさった奇跡のことを「しるし」と書かれているということを何回かお話ししました。主イエスが天から来られた方、神の御子であることを知るための「しるし」として、主イエスのなさった奇跡はあります。主イエスのなさったことは、本来、神の業の「しるし」なのです。

 

 5000人の人々に主イエスはパンと魚をお与えになった、それはとりもなおさず、神の業の「しるし」でした。しかし、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と主イエスがおっしゃるように、人々は、そこに奇跡的な出来事を見たにもかかわらず、その出来事の内に神の業である「しるし」は見ませんでした。

 

 しかし、考えますと、私たちも奇跡を見ても、なかなかそれが神の業であるということを理解できません。「しるし」を見ることができないのです。現代においても「しるし」はたくさんあるのです。5000人の人々に奇跡的なやり方でパンと魚が配られる場面に私たちは遭遇することはないかもしれません。しかしやはり、私たちの日々に多くの「しるし」はあるのです。キリスト者の日々は、神の「しるし」である奇跡に満ちているのです。

 

 奇跡を信じない信仰、奇跡と見える出来事の向こうに神の配慮、「しるし」を見ない信仰というのは弱い信仰です。ただ満腹することだけを求める信仰です。神のしるしがあっても、それは偶然であるとか、あるいは別のもっともらしい合理的な理由をつけて、しるしをしるしとして受け取らない、それはとても寂しい貧しい信仰です。しかし、私たちの信仰は往々にしてさびしく貧しい信仰になってしまうのです。しかしまた、寂しい貧しい信仰しか持っていない私たちに、なお、神は愛と憐みをもって、さらなるしるしを見せてくださいます。私たちがまことに神を信じる者になるためです。更に神を信じる者になるためです。神のしるしを見て、私たちの上に注がれる神の奇跡の業を知って、私たちが平安に喜びを持って生きていくためです。

 

 さて、主イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とおっしゃっています。働くという言葉は、仕事をする、という一般的な意味の言葉ですが、「稼ぐ」というニュアンスもあるそうです。つまり、この世の現実的なパンだけでなく、永遠の命にいたる食べ物を稼ぎなさい、と主イエスはおっしゃっているのです。それに対して、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と人々は聞いています。ある方によりますと、この「神の業」という言葉も、さきほどの「働く」「稼ぐ」という言葉が名詞化したものだそうです。つまり「神の業を行う」とは「神のために働く仕事」といってもいいことです。それに対して、主イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」とお答えになります。つまり、神から遣わされた者、すなわち私を信じなさいとおっしゃっています。それに対して人々は、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」と答えます。あなたが信じるに足りる者である証拠を見せよ、信じるに足りることをやってみせよと言っているのです。ここで「どのようなことをしてくださいますか」という言葉の「する」もまた「働く」「稼ぐ」と言う言葉です。私たちのためにどのように稼いでくれるのかと問うているのです。

 

 奇跡を信じない、奇跡を見てもそれを、神のしるしであると思えない人は、奇跡を実際は見ながら、奇跡を見せろ、というのです。30節で「どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」といった人々は、すでに主イエスから満腹するほどのパンと魚をいただいた人々なのです。人々はとんでもない奇跡を見ました。どこかにうずたかく積まれているパンや魚はないのに、次から次にパンや魚が与えらえるのです。しかし、その奇跡に、人々は神の働きを見なかったのです。ただ、なにかすごい力を持った人間が奇跡的なことをした、この人間を自分たちの王にしよう、そう人々は考えました。さらに人々は言います。「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」つまりモーセはすごいことをした、あなたにもモーセと同じことができるか?と問うているのです。それに対して、主イエスはマンナはモーセが与えたのではなく、天の父が与えられたのだと答えられました。

 

 これは興味深いやり取りです。主イエスを王にしたいと考えている人々はけっして聖書のことを知らないわけではないのです。イスラエルの人々ですから幼いころから聖書を学んできた人々です。モーセの物語も、マンナのことも知っているのです。しかし、モーセの物語を知っていても、それはモーセという自分たちの偉大な祖先の物語としか理解していないのです。マンナは、まさに荒れ野で飢えた民に、神のしるしとして与えらえた食べ物でした。毎日、決まった量が与えられました。それは翌日まで取っておくことはできませんでした。毎日毎日、必要量が与えられたのです。まさに「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という主の祈りの言葉そのままに、日用の糧、今日の分が与えられたのです。一か月分とか一生分ではなく、日々、主の恵みによって生かされていることの「しるし」としてマンナは与えられました。マンナは神の働き、神の稼ぎによって生かされていることを知るための「しるし」でした。しかし、マンナを与えられた出エジプトの民も神に反抗しました。そして主イエスの時代の人々もマンナの話を知りながら、そこに神の「しるし」を見ませんでした。そして主イエスに対して、「あなたにも同じことができるか」と問うたのです。どれほど聖書や神に関する知識があっても、神の「しるし」が見えない限り、そこには本当の信仰はないのです。聖書学者や牧師や神学や聖書に詳しい信徒が必ずしも深い信仰を持っているわけではないという皮肉があるように、信仰とは神の働きを見ることができること、そのために、神から遣わされたお方、主イエスを信じることなのです。

 

 ヨハネによる福音書4章にサマリアの女の話がありました。この女性は、主イエスが自分のプライベートな秘密を言い当てたことに驚きます。しかしそこではまだ主イエスを神から遣わされた方だとは信じていませんでした。主イエスのなさったことに「しるし」を見ていませんでした。そして主イエスと「礼拝をすべきはエルサレムかゲリジム山か」というような神学議論をしようとしました。この女性もまた、ある意味、知識が邪魔をしたのです。しかし、この女性はやがて主イエスを救い主だと信じました。今日の聖書箇所の人々と主イエスを救い主と信じたサマリアの女性は何が違ったのでしょうか?主イエスに見せていただいた奇跡としては、今日の聖書箇所に出てくる人々の方が大きなものであったにも関わらず、今日の聖書箇所に出てくる人々は、やがて決定的に主イエスと対立していくのです。

 

 いろいろな理由が考えられますが、一つには悔い改めの有無があろうかと思います。サマリアの女性は自分自身の男性遍歴を主イエスから指摘されました。それはけっして叱責されたわけではありませんが、サマリアの女性は、自分の中の欠けたところ、問題点をはっきりと認識したのです。悔い改めと同時に、それを解決してくださるのは神から来られた方だけであると理解したのです。「しるし」に気づくことと悔い改めはコインの裏表のようなものです。それは同時に起こるのです。

 

 一方で、今日の聖書箇所に出てくる人々は、主イエスを自分たちの王としようとしていました。 私が子供のころはあまり聞かなかった言い回しで「あの人は使える」「この人は使えない」という言い方があります。「使う」というのは「利用できる」という意味です。あの人は有能だ、無能だというニュアンスでしょうか。人間を道具のように扱って「使える」「使えない」という言い方はあまり好きな言い回しではありません。しかし、今日の聖書箇所で言えば、イエス様からパンと魚をいただいた人々は、まさにイエス様のことを「イスラエルのために<使える人間>だ」と感じたのです。もっとも第一に救われなければいけないのはイスラエルという国や民族ではなく、自分自身であるのに、その自分の問題には意識がいっていないのです。パンを食べさせてくれる、生活を良くしてくる、そのために使える人間として主イエスのことを見ていたのです。そこにはまことの信仰はありません。

 

<しるしを見る者になるために>

 

 ところで、マタイ、マルコ、ルカの福音書には「種をまく人」のたとえ話が出て来ます。道端に落ちた種、石の上に落ちた種、いばらの中に落ちた種、良い土地に落ちた種の話が出て来ます。せっかく種がまかれても土地が悪いと芽が出ても途中で枯れてしまうというたとえ話です。よい土地にまかれた種は何十倍もの収穫をあげるという話でした。この話は信仰のたとえ話でした。たとえば、いばらの生えた土地というのは、せっかく福音を聞いて信仰を持っても、この世の誘惑に取り込まれてしまうという例えでした。このたとえ話を聞くと、私たちは良い土地にならないといけないと思うのです。信仰がすくすく育っていく良い土地にならないといけないと思うのです。それは間違っていませんが、しかし、信仰の種をまき、育ててくださるのは神です。私たちの心がいばらだらけでも石ころだらけでも神は種を蒔き続けてくださるのです。

 

 ヨハネによる福音書の6章は、主イエスと群衆の間に決定的な分裂が起こることが記されている聖書箇所です。今日の聖書箇所はその分裂の入り口となる出来事です。実際、今日の聖書箇所でも主イエスはきびしいことをおっしゃいます。それは人々に「しるし」を信じる者になって欲しいからです。神の業を見る者になって欲しいからです。しかし、6章の終わりでは人々と主イエスの対立は明確となります。多くの人々は主イエスから去っていくのです。6章では、主イエスと人々の間の溝は埋まりません。では、主イエスは人々のことをあきらめられたのでしょうか?自分のことを<使えない奴>だと判断して去って行った人々を放り出されたでしょうか。ご自分のもとに残った弟子たちだけのことを思われたのでしょうか?そうではありません。ここからヨハネによる福音書の内容は徐々に十字架へとむかっていくのです。主イエスは「しるし」を信じない人々が信じる者になることをあきらめられませんでした。そして十字架という決定的な「しるし」へと歩んでいかれるのです。かたくなな人間の心、いばらが生えていたり、石ころだらけの人間の心、まったく悔い改めのない心、けっしてしるしを見ようとしない人間の心を、良い土地に変えるために、あきらめることなく、十字架へと向かわれます。

 

 私たちのさびしく貧しい信仰を豊かなものに変えるため、主イエスは十字架という「しるし」を与えられました。私たちは十字架を仰ぎ見る時、そこに自分自身の罪を見ます。そのとき、私たちには、はっきりと「しるし」が見えるようになります。本当の悔い改めを与えられます。同時に神が蒔き続けてくださった愛の種を見ることができます。いばらだらけの石ころだらけの心に、倦むことなく種を豊かにまき続けてくださった神の愛の業を見ます。その愛のゆえに、私たちは、永遠の命に至る食べ物のために働くものとされます。喜びのために働くのです。喜びを稼ぐ者とされます。

 


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