大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第3章7~19節

2022-03-08 11:16:54 | マルコによる福音書

2022年3月6日大阪東教会主日礼拝説教「なぜ裏切者をそばに置くのか」吉浦玲子 

 「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」とあります。この前の聖書箇所では安息日の会堂で主イエスは手の萎えた人を癒され、そのことで、ファリサイ派を始め権力者たちから憎しみを買い、危険な状況になられました。「立ち去られた」という言葉は「退く」、「リタイアする」という意味があります。会堂で教えることができなくなって、退かれたのです。権力者からは憎まれましたが、一方で、主イエスのまわりにおびただしい数の人々が集まってきました。主イエスの出身地であり宣教を開始された場所であるイスラエル北部のガリラヤの人々のみならず、南部のエルサレムや、さらにはイスラエル外のフェニキアと言われているティルスやシドン、またヨルダン川の東側からも人々がやってきました。病を癒し、悪霊を追い出された主イエスの話を聞き知って、人々はわれもわれもとやってきました。自分や家族の病を癒してほしいと願ってきたのです。それはとても切実な願いでした。長年苦しんできた人々、医者からも匙を投げられた人々にとって、主イエスは唯一の希望、チャンスでした。人々は癒していただこうと、主イエスに触れようとしました。たくさんの人が押すな押すなの状況で、それぞれに必死の思いで、主イエスに迫って来たのです。 

 病気に限らず、何か人生の試練とか行き詰まりが契機となって神の方へ心が向くというのも、神の恵みです。今日の聖書箇所では、病気を治してもらいたい人々が主イエスのもとに殺到しましたが、主イエスはそれを拒まれませんでした。主イエスはもちろん神の国の到来、福音について宣教をしたいとお考えでした。スーパードクターやエクソシストして名をはせたいとは微塵も思っておられませんでした。が、病気を治してもらいたい一心の人々も受け入れられました。癒しの奇跡は、癒された人を神の方へと導くためのしるしとしてなされましたが、実際のところ、病気が癒されたら大部分の人は主イエスのもとを去っていくであろうということは主イエスもご存知の上でした。 

 病の癒しや悪霊を追い出すことは、一人一人の心の窓を神に向かって開くことでありました。私たちも一人一人、神によって窓を開かれた者です。そこからキリストの光が入ってきました。心地の良い聖霊の風が吹き渡りました。神に造られた人間で、神を必要としない人間は実際のところ、一人もいないのです。ですから、どのような理由であろうとも、神のそばに近づく人間を主イエスは受け入れてくださいます。私たちの最初の目的が何であろうとも、そしてまた私たちが立派な信仰者であろうと、怠惰な信仰者であろうと、主は「来なさい」と言ってくださる方です。 

 しかしまた、一方で、主イエスは「舟を用意してほしい」とおっしゃいました。これは主イエスが群衆に押しつぶされないためでありましたが、ここには主イエスの一つの姿勢も見えるのです。たとえばマルコによる福音書の4章にも舟に乗って主イエスが岸辺にいる群衆に語りかけられる場面があります。ここには主イエスと群衆の間に明確な距離があります。最初のところで申し上げましたように主イエスは病を癒してほしいと願う群衆を拒まれませんでしたが、彼らに伝えたかったのは福音でした。ですから、主イエスは、病を癒してほしいと主イエスに触れようとされる群衆と距離を置かれたのです。距離を置いて、御言葉を語られました。これは今日の教会においても同じです。教会に来る理由は何でもいいのです。何らかの求めがあって教会に来た人を教会は拒みません。しかしまた、教会は第一に御言葉を語るべきところなのです。様々な求めのある人を拒みませんが、その求めに応えることだけが教会の役割ではありません。教会は御言葉を語り、教会に来る人は御言葉を聞くのです。御言葉以外の求めに対しては、一定の対応をしたり、相談には乗っても、主イエスが舟に乗って距離を取られたように、距離を置くのです。これは教会にとってきわめて大事な姿勢です。教会は病院でもなければ、社会福祉施設でもありません。ましてや娯楽施設でもありません。一人一人の切実な願いに耳を傾けながら、必要であれば、病院や専門のところと連携をすることもあります。しかし何より御言葉を語るのが教会です。 

 さて、また一方で主イエスは、今日の聖書箇所で、12人の弟子たちを特別に使徒として選ばれました。この使徒と呼ばれる人々は、使徒言行録の時代においても教会の中心となる人々でした。これは、弟子のなかに階級があるということではありませんが、キリストに従うことにおいて濃淡があるということです。ちょっと話を聞いてみたいだけの、言ってみれば一見さんのような人もあれば、ペトロのように漁師であった職業を投げ打って従う者もありました。主イエスに積極的に従った者たちの中から、さらに使徒が選ばれました。使徒とは「遣わされる者」という意味です。「これと思う人」を呼び寄せたとあります。これは主イエスが特に目をかけていた、将来有望と思われた弟子たちだったのでしょうか。そうではありません。主イエスが使徒を任命されたのは「山」だと書かれています。湖のほとりからわざわざ山に登られたのです。山に登られたのは祈るためです。他の福音書には使徒を選ぶために主イエスは一晩祈られたと書かれているものもあります。主イエスは祈りのうちに12人を選ばれました。そこには彼らの資質とか能力といったことではなく、ただただ主の祈りの内の選びがあったのです。そしてまた、「任命し」という言葉には「造り出した」という意味があります。使徒たちは主イエスの祈りの中で、使徒として造り出されたのです。使徒にふさわしかったから使徒とされたのではなく、新しく使徒として主イエスによって造り出された人々でした。 

 そして使徒たちに主イエスは特別な権能を与えられました。使徒を選ばれる前、湖の場面で汚れた霊が主イエスが「神の子」であると叫びましたが、主イエスは自分のことを言いふらさないように戒められました。ご自分が神の子であることを伝える者は汚れた霊ではなく、ご自身が祈りのなかで造り出された使徒たちであると考えておられたからです。彼らが遣わされ、ご自身のことを伝えていくことを願っておられました。しかし、いきなり遣わすのではなく「そばに置」かれました。それは先ず主イエスの御言葉を聞き、主イエスのなさることを身て学ぶためです。 

 この使徒と言われた弟子たちが、特に十字架の前においては、はなはだ何もわかっていない人々であったことは福音書を読めばすぐにわかります。そして最終的には、皆、主イエスを置いて逃げてしまった人々でした。この使徒たちの顔ぶれは多彩でした。政治的なところでいうと熱心党のような武力をもってローマを打ち破ろうという右派もいれば、ローマに協力してる徴税人のような左派もいました。性格的に温厚な宗教者らしい人々ばかりというわけでもけっしてなくて、雷の子と主イエスに名付けられたヤコブとヨハネの兄弟もいました。実際、彼らは「ルカによる福音書」を見ると、主イエスを受けれ入れない村に対して「彼らを焼き滅ぼしましょうか」などと言って、主イエスから諫められているのです。あまり宗教者らしくない血気盛んな兄弟だったようです。 

 そして、その12人の中に、イスカリオテのユダもいたと記されています。これは不思議なところです。主イエスはなぜご自分を裏切る者をその12人の中に入れておられたのでしょうか。主イエスが間違って選ばれた、主イエスの見込み違いだったということではないでしょう。実際のところ、ユダが裏切ったゆえに、主イエスは逮捕され、十字架にかかられることになりました。十字架という救いの業の実現のために、イスカリオテのユダは裏切りという役目を果たしたとも言えます。しかしそのためにあらかじめ選ばれていたとするならば、それはユダにとって残酷なことであるとも言えます。一方で、十字架は神の業ですから、ユダがいようがいまいが、実現されたとも考えられます。その中で、なぜわざわざユダが選ばれたのでしょうか。 

 一方で、イスカリオテのユダすら選ばれた主を思う時、私たちは不思議な慰めも感じます。権力者たちは主イエスを殺そうとし、群衆は自分の願いが叶えられることを願いました。結局は誰も彼も自分中心の考えなのです。それが罪の姿です。もちろん人間の苦しみ痛みは切実ではあります。しかし、実際のところ、神に対して、人間は自分に従えと言っているのです。権力者のみならず、主イエスのもとに押し寄せていた群衆もやがて主イエスが自分たちの願いを聞いてくださらないことが分かったら、手のひらを返し十字架につけろと叫びます。イスカリオテのユダ以外の弟子たちも、結局のところ、十字架の時、逃げてしまいました。主イエスを取り巻く人間たちは皆、主イエスに対して、裏切者でした。 

 私たちを振り返る時、ファリサイ派のように教理を振り回して愛のない行為を行っていないと胸をはることができるでしょうか?群衆のように自分の願いばかりを要求して聞かれなければ、神なんて知らないとつぶやいたり、愛のない教会につまずきました、とうそぶかないでしょうか?実際に神の業の為される時、私たちはそれを心から喜ぶ者でしょうか?神の業が為されるということは、人間にとって、いつもいつも心地の良いことではないのです。それを越えて神を信頼し、従っていくことがキリストの弟子のあり方です。しかし、私たちの信仰はとても弱く、いつだって神を裏切り、主イエスを悲しませる者です。今日は教会総会が予定されていますが、私たちはキリストの体なる教会をも自分の好きにしたいのです。 

 しかしなお、そんな私たちに「来なさい」と主はおっしゃってくださるのです。私たちの弱さ、卑怯さ、身勝手さ、そのすべてを主イエスが十字架において担ってくださいました。十字架の上で私たちのために祈ってくださいました。その救いの業は成就しました。だから、今、私たちは弱い自分のままで、神を裏切る卑怯な者のままで、自分中心の愛のない者のままで、主イエスのそばに行くことができます。いえ、私たちが行くのではありません。主イエスが呼んでくださり、今も祈ってくださり、新しくキリストの弟子として造り出されていくのです。今日、私たちはキリストのそばに置かれ、キリストの弟子とされて、新しく愛をかかげて、この世へと遣わされていきます。 

 

 



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