大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第3章20~30

2022-03-13 14:08:10 | マルコによる福音書

2022年3月13日大阪東教会主日礼拝説教「赦されない罪」吉浦玲子 

 主イエスが家に戻られると、また群衆が集まって来たとあります。この家とはカファルナウムにある家で、おそらく1章29節に出て来たペトロのしゅうとめがいる家ではないかと考えられます。主イエスは、このカファルナウムから伝道を開始されました。そして主イエスはガリラヤ中を回り伝道をなさいました。宣教の合間にこのカファルナウムの家に戻ってこられ休養を取ろうとされたのでしょう。主イエスの宣教において、家に集まって来た群衆のような人々もいれば、けっして主イエスを受け入れない人々もいました。主イエスを受け入れない人々は、主イエスに対して、憎しみを持ち、殺意すら持つようになってきたことが、ここまでの福音書の流れの中に記されていました。人々の主イエスに対する思いはさまざまでありました。さらに今日の聖書箇所では、身内の者が主イエスを取り押さえに来たとも書かれています。この身内の者とは31節以下にある母と兄弟たちではないかと考えられます。つまり主イエスの身内だから主イエスの良き理解者であるとは限らなかったのです。理解はしていなかったですが、身内の人々は主イエスを心配してきたと考えらえます。「あの男は気が変になっている」という言葉を聞き、驚き、どうにかしないといけないと思ってきたのでしょう。 

 そもそも、聖書には主イエスの子供時代の話は描かれていません。赤ん坊のころ、あるいは幼子のころ、羊飼いたちがやってきたとか、占星術の博士たちがやってきたということは描かれていますが、主イエス自身が赤ん坊や幼子の時、特別なことをなさったとは描かれていません。外伝とか偽書といわれるものには、子供時代のイエス様がすごい業をなさったという不思議な物語が描かれていたりしますが、それらは極めて信ぴょう性の低いものです。唯一、ルカによる福音書に少年時代の主イエスがエルサレムの神殿で学者たちと対等に語り合われる場面が描かれています。だからといって、主イエスが特別な神童として成長されたとは福音書には描かれていません。あくまでも洗礼者ヨハネに洗礼をお受けになって、聖霊の力を注がれてその活動を開始されたところから描かれています。まさに神の国が近づいた、その時からのことが福音書には語られています。主イエスの誕生前から主イエスが特別な存在であることを聖霊によって知らされていた両親は、不思議なことがあるとそれを自分の胸に留めて見守っていたのです。しかし、主イエスは基本的にはナザレの村で、貧しい庶民としてごく普通に成長されました。主イエスは大工の仕事をしていたと言われます。特別な学問を修められたわけでもありません。それが、病を癒したり、悪霊を追い出したり、さらには皆が尊敬しているファリサイ派や律法学者と対立しているなどと知ったら、「気が変になっている」という言葉も真に受けてしまうと思います。ごく平凡に普通に生活していた家族がいきなり、新興宗教の教祖になってしまったようなものです。 

 しかし、ここで問題になるのは、主イエスの出自とか背景ではありません。主イエスが公の活動を始められてから、なさったこと、おっしゃっていることを聞いて、さまざまな受け取り方をする人がいるということです。人間の感じ方、考え方は多様です。同じことを見ても、同じ体験をしても、まったく違う思いや考えを持ちます。先週お読みした聖書箇所で12名の弟子が使徒として選ばれましたが、先週もお話ししましたように、その12名はまったく異なる人々でした。政治的にも右から左までいて、通常なら一緒にはいられない人々で互いに敵対しても不思議ではない人々でした。教会もまたそうです。一人一人の抱えている背景や考え方は違います。思想信条も違います。しかし、私たちはキリストにおいて一つとされています。しかし、そのキリストにおいてひとつとされているというとき、そのキリストとはどなたなのか?というところが重要になります。キリストとはどういうお方なのか?イエスという男は何ものなのか?ここの認識が異なっている時、一つにはなれないのです。 

 今日の聖書箇所において、主イエスが家におられると聞いて集まって来た群衆は主イエスをすごい人だと思っています。奇跡を為す人だと思っています。一方で、主イエスの身内は「気が変になった」と思っています。さらには、エルサレムから下って来た律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言ったとあります。ベルゼブルとは悪魔の頭であってサタンと同じように使われる言葉でもあります。エルサレムから下ってきたというのは、当時の最高権威者であるということです。その学者が、主イエスがたしかに悪霊を追い出していることは認めたのです。それは認めながら、その業は、神の力ではなくベルゼブル、悪霊の頭の力で行っていると言ったのです。皆が皆、主イエスに対して勝手な見方をしているのです。主イエスは人間の罪を贖うために十字架にかかるために人間となってこの世界に来られた救い主キリストであり、キリストとは十字架におかかりになって復活なさったお方なのです。医者でも社会福祉家でも、さらにいえば、一般的な意味での宗教家でもありませんでした。 

 エルサレムからきた学者が主イエスがベルゼブルに取りつかれていて、その力で悪霊を追い出していることに関して、ここで横浜指路教会の牧師が面白い譬えをされていました。悪霊の力で悪霊を追い出すとは、やくざの親分が、自分の組のチンピラが町の人に迷惑をかけているのに対して「堅気の人に迷惑をかけるな」と叱りつけているようなものだと。 

 一方、ご自分のことをベルゼブルに取りつかれているという人に対して、主イエスは面白い譬えを話して反論なさっています。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう」。家を襲う強盗が、強盗同士で争っていてはその家の略奪はできない、まずその家の一番強い人を縛り上げて略奪をするものだとおっしゃるのです。サタンがサタンを追い出しても、意味はない、人の家に侵入してきたサタンは人間の自由を奪ってその家のものを支配する者なのだ。さきほどの牧師のたとえ話で言えば、親分に叱られたチンピラは去ったとしても、親分がいるかぎり、みかじめ料を取られたり、やくざの支配は続いていて、そこには本当の平和はないのです。本当に人間を自由に平和にするためには親分を取り押さえなければだめなのです。サタンの力でサタンを追い出してもそこには本当のサタンからの解放はないのです。そして、主イエスはご自分を強盗の頭に例えておっしゃっています。その家を支配しようと思ったらまずその家の一番強い者を取り押さえるのだと。主イエスは悪しき者に支配されている人間を解放するために、人間を支配しているもっとも悪しき力を縛り上げるのだとおっしゃっているのです。 

 これは面白い話ではありますが、切実な話でもあります。ものの本質を見ないといけないということです。私たちは教会に来て、神から救いを得て罪の奴隷の立場から解放されました。そこには喜びとか平安があるべきです。しかし、往々にして、私たちはふたたび自分を不自由な方向に持っていく時があるのです。立派な信仰者になるために、こうあるべき、こんなことはしてはいけないという自己規制を課したりします。クリスチャンであることに息苦しい思いを持ったり、教会での人間関係に悩んだりします。そこには大事な本質が抜け落ちているのです。私たちはキリストをベルゼブルに取りつかれているなどとは言いませんが、本質から離れたところで、キリストを見ているのです。キリストは、私たちのために戦ってくださったのです。まさに悪しき霊に縛られていた私たちの家に入って来られ、罪を縛り上げてくださいました。キリストはすでに勝利をしてくださっているのです。 

 いま、ウクライナにおける悲惨な争いについてさまざまな情報が流れています。つい二週間前まではごく普通に生活をしていた人々が家を失い日常を失って、命の危険にさらされている、そのニュース映像には胸がふさがれる思いがします。しかしまた一方で、さまざまなフェイクニュースが流れ、憶測の情報が流れます。事実であることもフェイクだ捏造だと拡散されてしまっているところがあります。戦争という状況では、昔から、敵も味方もさまざまな情報を流し、自分に有利な方向へと導く情報戦がありました。しかしことにネット社会においてはそれが加速され混沌としています。何が真実で、何がフェイクなのかわからなくなるのです。まさに情報の網の目のなかに、ベルゼブルが跋扈しているような状態です。世界中で、あいつがベルゼブルだ、いやこいつがベルゼブルだと言いあっているような時代です。 

 しかし、主イエスはおっしゃるのです。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」これは怖い言葉です。私たちは主イエスを信じて罪を赦されたと思っています。しかし、赦されない罪があると主イエスはおっしゃるのです。聖霊を冒涜するとはどういうことでしょうか?主イエスの働きは聖霊の働きでありました。聖霊を冒涜するとは、主イエスの働きを汚れた霊の働きとみなすということです。 

 神が人間を愛し、御子を遣わし、人間の罪を赦し、慈しまれる、そのことを汚れた霊の仕業だとみなすということが聖霊を冒涜することです。神の愛を否定するということです。聖霊を冒涜するということは神の働きを否定し、救いを否定するということです。愛し、赦し、慈しんでくださるその神の働きをすべてを否定する時、たしかに人間は神の愛から離れ、赦しを受けず、慈しみから切り離されます。しかし、それは神が断罪されるということではないのです。ほとんどの罪は赦されるけど赦されない罪があるということではないのです。主イエスが戦ってくださり、勝利してくださったことを信じないということです。信じなければ、たしかにその人は救われないのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」主イエスの宣教の初めの言葉は、主イエスが聖霊の力で、私たちを縛る悪しき力に打ち勝ってくださることを信じなさいということでした。ただその一点に立つ時、私たちはベルゼブルが跋扈しているようなこの時代にあっても、守られます。キリストはすでに最も強い悪の頭に勝利されています。私たちはただこのお方だけを見上げて歩みます。それは現実逃避でも、無力なことでもありません。錯綜するさまざまな情報や、人々の思いを越えて、神の真理を知り、まことのただ一つ、私たちの武器をいただいて歩んでいくのです。  



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