大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

エフェソの信徒への手紙5章6~20節

2020-01-27 09:03:09 | エフェソの信徒への手紙

大阪東教会終日礼拝説教 2020年1月12日 エフェソの信徒への手紙5章6~20節光によって明かされる

<二つの世界>

 人間の思いは実現するといわれます。昔々の人々が、人間が空を飛ぶという思いを持ちました。レオナル・ド・ダビンチも人間が空を飛ぶイメージ図を残しました。まだ現実には現れていない、目には見えていないものを、人々は思い描き、やがてその思い描いていたものが現実に目に見えてくる、実現する、そういうことがあります。ある牧師がおっしゃっていました。クリスチャンは二つの現実の中で生きている、と。ひとつは目に見える現実の世界、そしてもうひとつが霊の世界であると。その二つの世界、二つの現実に、信仰者は生きているのです。現実の世界と霊的な世界は対立していたり、別々のものではありません。むしろ現実の世界は、肉眼には見えない霊の世界によって動かされているのです。見えない霊の世界は神の現実の世界であるとも言えます。神の現実の世界は霊的な目で見なければ見えません。レオナル・ド・ダビンチが思い描いた空を飛ぶことが、数百年後に当たり前になっているように、見えない霊的な世界、神の現実が、今見える現実の世界を動かすのです。人間の思いでも飛行機やヘリコプターやドローンを作り出すことができます。しかし、人間の思いを越えた神のご計画がなる霊の世界はさらに決定的な力を持っています。人間の肉体の目や常識的な認識ではどうしようもないように見える世界が、霊的な目で見るとき、まったく違って見えます。どうしようもなく絶望的で先の見通しが見えないと思える現実が、むしろ神がすでに新しいことを始められているいきいきとしたフロンティアであったりします。逆に豊かに栄えて華やかに見えるところがサタンの巣窟で人間を疲弊させ破滅に導く場所であったりします。

旧約聖書時代の預言者のエリシャの住む町が大国のアラム軍に包囲されました。朝、エリシャの召使がアラム軍のおびただしい数の戦車や軍馬を見て怯え怖れていたら、エリシャが召使の霊的な目を開きました。神の現実の世界を見せたのです。するとそこではアラム軍よりももっと多くの神の軍勢が満ちていたのです。火の馬と戦車が自分たちを囲んでいたのです。

 私たちは信仰をもって生きている時、このような二つの世界を実際に体験するのです。そしての信仰者の最も大きな罪は、神の現実を見ずに、目に見える現実だけを見るということです。目に見える現実しか見ないとき、この世の価値観に支配され、世俗化していきます。人間中心の考えになっていきます。

この大阪東教会は来月で創立138周年を迎えます。138年前、教会を大阪の地に建てようと考えた人々は、今日でいうところのマーケティングリサーチをして、ここに教会を建てたら、教勢が伸びるだろうとか、資産計画を立てて何年で投資を回収しようと考えて建てたわけではありません。まだ現実には目に見えていないけれど、神が描かれる現実が、ヘール宣教師をはじめ草創期の信仰者には見えていたのです。

  「光の子として歩みなさい」と今日の聖書箇所では語られています。それは目に見えない神の現実を歩むということです。神の現実を歩んでいる時、私たちは光の子なのです。それに対して、目に見える現実だけにとらわれているとき、私たちは「むなしい言葉」に惑わされるのです。むなしい言葉といっても、それはことさらに馬鹿げた言葉であるとか、不品行で悪徳に満ちた言葉というわけではありません。神の現実を見ない言葉なのです。でも、神の現実、神の現実と言うけれど、この世の現実は厳しいではないか?エリシャのところに神の軍勢がやってきたようには、私の現実の生活には助けが来ないではないかと感じることもあります。私自身、振り返ってみても、住宅ローンや子供の教育費はたいへんでした。たしかに、日々の労苦は現実にあります。その現実から逃避することはできません。しかし、光の子には神が指し示してくださるものがあるのです。まだキリシタン禁制の高札がとられたばかりのころ、キリスト教は恐ろしいものだと思っていた人々は、宣教者がやってくると逃げ去っていき、宣教は困難を極めました。しかしその草創期の宣教者に教会のビジョンが与えられました。神の現実を見せられたのです。現実の苦しさの中でも、私たちには確かに神の現実、神の未来を指し示されるのです。

その神の現実は、祈りによって示されます。つまり現実の世界から、神の世界へアクセスするのが祈りです。そして祈りを導くものが御言葉です。日々、御言葉に聞かず祈らない者には神の現実は示されませんし、光の子としての歩みを与えられません。ただ生まれたままの闇の子供として、この世の現実の中で生きていくしかないのです。

<光の子として生きる>

 光の子として生きるということは、神の現実、霊の世界に祈りによってアクセスしながら生きていくということです。それは現実世界の中で、必ずしも光り輝くような脚光を浴びて生きることではありません。むしろ暗いところ寂しいところに生きるのです。そういうはなんだかいやだと感じられるかもしれません。しかし、光の子はキリストの光のなかを生きています。ですから、この世的な華やかさやにぎやかさは不要なのです。

 去年まで大阪東教会を会場としてコンサートが開かれていました。そのコンサートに吉村美穂さんというソプラノ歌手が良く出演されました。素人にもその歌は、本格的なクラシックの歌手なのだなあと感じさせる歌声でした。未信徒の友人が何人かコンサートに来てくださいましたが、大きなインパクトを受けられたのが彼女の歌声でした。その吉村さんがかつてウィーンで音楽活動をなさっていたのは存じ上げていたのですが、詳細を聞くと、想像以上にすごい実績のある方だったのだということが分かりました。世界でも屈指のオーケストラであるウィーンフィルの専属の合唱団員だったそうです。新年に毎年、ウィーンの楽友協会という歴史的な建築物でもあるホールでウィーンフィルのニューイヤーコンサートが開かれ、それは全世界で放映されますが、その楽友協会が吉村美穂さんの合唱団の活動拠点だったそうです。ウィーンフィルと共に、日本を含めた海外公演もなさったそうです。音楽の都ウィーンにおいて、学友協会所属の声楽家の身分は保証されていて、生涯年金ももらえる待遇だったそうです。でも、吉村さんは、その待遇を捨てて福音を伝えるゴスペルシンガーになろうと10年ほど前に帰国されました。楽友協会の大ホールで活動していたのに、小さな教会や、町の商店街のイベントやらで歌うようになられました。音楽家のキャリアという点で言えば、脚光を浴びるところから、暗いところ寂しいところに来られたともいえます。しかし、吉村さんにとって、神を賛美し、キリストの福音を伝えることこそが、光の子として歩む道だったのです。

そもそも、光の子として生きるということは、自分自身の内には光がないということを知らされて生きるということでもあります。逆に、自力で光ろうと努力する必要はないということでもあります。「インスタ映え」という言葉も、もう、少し古いのかもしれませんが、他の人の前で、自分を良く見せようとする必要はないのです。ありのままの自分で生きるのです。「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」ありのままで生きていく中で、私たちの内なる闇、罪も明らかにされます。キリストの光にさらされなければ、私たちの闇は明らかにはされません。キリストの光にさらされるとき、闇は消え去ります。朝の光で、夜の闇が掻き消えるように、私たちの内なる闇がキリストの光によって明らかにされたとき、その闇は掻き消えます。キリスト者として生きるということは、洗礼によってまずキリストの光を与えられ、それまでの罪が打ち砕かれます。しかし、それで終わりではありません。生きている限り、私たちは、少しずつ内なる闇をキリストによって明らかにされながら、砕かれていくのです。

今日の聖書箇所の前の箇所で「聖なる者」という言葉が出てきました。神から取り分けられた者ということでしたが、キリストの光に照らされながら、私たちはますます聖なる者へと変えられていくのです。「眠りについている者、起きよ。/死者の中から立ち上がれ。/そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」私たちは闇の子供でありながら、キリストの十字架と復活によってその闇の中から立ち上がる者とされました。罪による死に向かわざるをえない人間が、いまやキリストによって照らされているのです。

<実を結ぶ生き方>

 そして私たちはこの現実の世界で実を結びます。豊かな実を結ぶのです。祝福されるのです。実を結ぶ花は必ずしも華やかであるとは限りません。華やかで豊かなように見えた者が、結局、なにも残さない、実を結ばないということがあります。ひとときのあだばなのように咲いて、後に残るのは混乱とむなしさだけであることがあります。

 光の子として実を結ぶために私たちは無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟る者として歩みます。「今は悪い時代なのです」と言われていますが、「悪い時代」とは誘惑の多い時代ということです。人間のこざかしい知恵が満ち、傲慢が満ち、自分では分別がある者のように勘違いして、神の御心から離れていく者が多い時代だということです。それはパウロの時代だけではありません。キリストの到来によって、照らされてて明らかになる「時代の悪」があるからです。

 酒に酔いしれてはなりませんとありますが、これは禁酒せよといっているのではありません。酒に酔うということと、神の霊に満たされるということが対比されているのです。酒に酔っているとき、ひととき満たされたように感じるけれど、そのような満たされ方ではなく、むしろ神の霊によって満たされるべきだということです。「詩編と賛歌と霊的な歌」によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさいとあります。

かつて、人工呼吸器を装着されたり、かなり痛みをともなう治療をうける必要のある苦しい闘病の時を耐えていた婦人をしっています。その婦人は、ことに痛みを伴う治療を受けるとき、絶えず主の祈りを心の中で祈っていたそうです。詩編と賛歌と霊的な歌は私たちを守るものです。この世の絶望から守り、この世のむなしい言葉から守るのです。その婦人は単に苦痛から心をそらすために、主の祈りを唱えていたわけではなく、苦しい現実の中で、なお神の現実にとどまっていたのです。

 私たちも光の子として、神の現実を生きるために、詩編と賛歌と霊的な歌をこの世を戦うための武具として身につけます。私たちの祈りは、ときとして、だんだんと習慣化、形式化してくるようなところがあります。しかし、旧約の時代の詩人たちが残した詩編は、もともとは礼拝において声に出して歌われていたものです。賛美も信仰者が神を賛美したものです。私たちは密室で一人で祈っているときも、なお、詩編や賛歌に心を合わせるとき、それらを最初に歌った人の信仰や祈りに自分を合わせることになります。私たちの小さな祈りが、かつての先人の信仰に共鳴していくのです。そこに交わりの霊である聖霊が働き、私たちの小さな祈りが、ゆたかに神の現実の世界にへ届きます。さきほど、主の祈りを唱えていたご婦人の話をしましたが、彼女も主の祈りを通して、主の祈りを教えてくださった主イエスの心に自分の心を合わせていたのです。祈りの言葉が響き渡るとき、そこにむなしい言葉は入って来ないのです。私たちは守られます。闇は砕かれ、私たちはまことに光の子として守られて歩みます。

 



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