以前の記事
源義経の墓/宮城県栗原市
高館義経堂(たかだちぎけいどう)/平泉
今回は「偽書が生んだ異端の日本史」からいくつか記事にしたいと思います。
義経は北海道に逃れ、チンギス・ハーンとなった。という話はどうして生まれたのか?
大正時代にベストセラーがあった。それは『成吉思汗ハ源義経成』
「源義経は東北で死なず、蝦夷地に逃れて大陸へ渡り、チンギス・ハーンとなってモンゴルの大帝国を築いた」という説はしばしば陰謀論などの類で噂される源義経=チンギス・ハーン説である。
奥州平泉に兄の頼朝から逃れていたのだが、協力者である藤原秀衡は彼を守っていた。
秀衡は亡くなるとき義経のことを守るように言い残し亡くなったが、泰衡は義経の首を頼朝に渡せば平泉は安泰と思い義経を裏切ったのです。
義経は上記の記事にある「高館」に住んでいましたが、結果衣川で自刃しました。 弁慶の立ち往生もここの衣川付近です。
義経の死は1189年頃とされている。
チンギス・ハーンが歴史の表舞台に登場するのは1190年頃のことで、広大なモンゴル帝国を築くのは1206年頃のことだ。
生まれ年は定かではないのですが、ほぼ義経と同世代と考えられており、義経の死後に、いきなり活躍するとこからこんな説がまことしやかに囁かれきたのでしょう。
しかし、この奇説の出どころはご存じでしょうか?
大正時代の末期に出版された『成吉思汗ハ源義経成』という書物であった。
作者は、日本で初めてアイヌの実業学校を設立したことで知られる牧師・小谷部一郎(おやべいちろう)である。
同書は1924年に刊行されるや否や、たちまちベストセラーとなり再販は10回を越えたという。
しかし、その内容は惨憺(さんたん)たるものだった。
小谷部が源義経とチンギス・ハーンを結びつけたのは、単純な語呂合わせに過ぎなかったのだ。
当時、チンギス・ハーンは日本では「ジンギス・カン」と呼ばれたが、源義経を音読すると「ゲン・ギ・ケイ」であり、よく似ているのだという。
終始、そのような内容が続く同書は、言語学者の金田一京助をはじめ、多くの学者達から厳しい批判を受けることとなった。
源義経とチンギス・ハーン説を改めて調べてみると、その起源は、意外と根深い。
江戸時代初期、義経が大陸に渡ったという説が唱えられた。
厩石と義経北行伝説と義経寺
偽書作りの巨人とも言われた沢田源内が翻訳した「金史別本」という本に、「12世紀に栄えた金の将軍に源義経という人物がいた」とある。
かつて、遼と北宋を滅ぼし、中国の北半分を支配した、女真族の王朝の将軍が、まさかの源義経だったという奇説である。
その後、江戸中期になると国学者の森長見が「国学忘貝」で新設を唱えている。
すなわち清国の6代目皇帝である乾皇帝が、「朕の姓は源で義経の子孫。清和源氏の出身だから国号を清と定めたのだ」と自らのルーツを明かしたことが「図書輯勘録」という書物に記載されている、と述べたのだった。
これを実際に読んで驚いた読者が、江戸城の紅葉山文庫に保管されている「図書輯勘録」を調べたところ、そのような記述は一切なかったという。
しかし、江戸幕府の中にもこの説を知って関心を持った者もいたようで、間宮林蔵が蝦夷地へと探検に行く際に、義経が大陸に渡った痕跡がないかついでに調査するようにと命じていたという。
実際に間宮林蔵は、蝦夷地を越え、樺太伝いに大陸へと渡ったところ、源義経が蝦夷から大陸へ入ったという証拠は確認できなかったが、現地の人々は、当時の中国の皇帝は、日本人の末裔であるという伝説が残っていることを教えてくれたという。
間宮林蔵
その後、源義経=チンギス・ハーン説は、日本人を越えて、外国人から唱えられることになった。
時は江戸時代末期である。 日本にやってきたドイツ人医師シーボルトは、日本の見聞をもとに全7巻に及ぶ「日本」という書物を出版している。
そこには、義経は衣川で死なずに、海を渡り、蝦夷の発見者のひとりとなった。 その後、対岸のアジアへと渡り、チンギス・ハーンとなったと書かれていたのである。
日本の政治家で歴史学者でもあった末松謙澄は、留学先のロンドンでシーボルトの「日本」を読み、この驚くべき記述を目にしている。
シーボルトはこの話を間宮林蔵から聞いたとしている。
シーボルト
当時西洋では、日本は未開の小国と思われ、中国の属国とみなされていた。
そこで、末松謙澄、留学先のケンブリッジ大学の卒業論文に「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書いたのである。
その後、同論文は日本語に翻訳され、「義経再興記」として出版された。
この本を読んでさらに看過され、その気になってしまったのが大ベストセラー『成吉思汗ハ源義経成』の著者・小谷部全一郎だったのある。
末松謙澄
偽書流行の裏には、人々の願望と欲望がある。
過去記事の偽書、偽書「東日流外三郡誌」の正体 1
偽書「東日流外三郡誌」の正体 2
偽書「東日流外三郡誌」の正体3
偽書「東日流外三郡誌」の正体4
偽書「東日流外三郡誌」の正体5
現在11話になっていますが、減らしたいと思っています。
源義経の墓/宮城県栗原市
高館義経堂(たかだちぎけいどう)/平泉
今回は「偽書が生んだ異端の日本史」からいくつか記事にしたいと思います。
義経は北海道に逃れ、チンギス・ハーンとなった。という話はどうして生まれたのか?
大正時代にベストセラーがあった。それは『成吉思汗ハ源義経成』
「源義経は東北で死なず、蝦夷地に逃れて大陸へ渡り、チンギス・ハーンとなってモンゴルの大帝国を築いた」という説はしばしば陰謀論などの類で噂される源義経=チンギス・ハーン説である。
奥州平泉に兄の頼朝から逃れていたのだが、協力者である藤原秀衡は彼を守っていた。
秀衡は亡くなるとき義経のことを守るように言い残し亡くなったが、泰衡は義経の首を頼朝に渡せば平泉は安泰と思い義経を裏切ったのです。
義経は上記の記事にある「高館」に住んでいましたが、結果衣川で自刃しました。 弁慶の立ち往生もここの衣川付近です。
義経の死は1189年頃とされている。
チンギス・ハーンが歴史の表舞台に登場するのは1190年頃のことで、広大なモンゴル帝国を築くのは1206年頃のことだ。
生まれ年は定かではないのですが、ほぼ義経と同世代と考えられており、義経の死後に、いきなり活躍するとこからこんな説がまことしやかに囁かれきたのでしょう。
しかし、この奇説の出どころはご存じでしょうか?
大正時代の末期に出版された『成吉思汗ハ源義経成』という書物であった。
作者は、日本で初めてアイヌの実業学校を設立したことで知られる牧師・小谷部一郎(おやべいちろう)である。
同書は1924年に刊行されるや否や、たちまちベストセラーとなり再販は10回を越えたという。
しかし、その内容は惨憺(さんたん)たるものだった。
小谷部が源義経とチンギス・ハーンを結びつけたのは、単純な語呂合わせに過ぎなかったのだ。
当時、チンギス・ハーンは日本では「ジンギス・カン」と呼ばれたが、源義経を音読すると「ゲン・ギ・ケイ」であり、よく似ているのだという。
終始、そのような内容が続く同書は、言語学者の金田一京助をはじめ、多くの学者達から厳しい批判を受けることとなった。
源義経とチンギス・ハーン説を改めて調べてみると、その起源は、意外と根深い。
江戸時代初期、義経が大陸に渡ったという説が唱えられた。
厩石と義経北行伝説と義経寺
偽書作りの巨人とも言われた沢田源内が翻訳した「金史別本」という本に、「12世紀に栄えた金の将軍に源義経という人物がいた」とある。
かつて、遼と北宋を滅ぼし、中国の北半分を支配した、女真族の王朝の将軍が、まさかの源義経だったという奇説である。
その後、江戸中期になると国学者の森長見が「国学忘貝」で新設を唱えている。
すなわち清国の6代目皇帝である乾皇帝が、「朕の姓は源で義経の子孫。清和源氏の出身だから国号を清と定めたのだ」と自らのルーツを明かしたことが「図書輯勘録」という書物に記載されている、と述べたのだった。
これを実際に読んで驚いた読者が、江戸城の紅葉山文庫に保管されている「図書輯勘録」を調べたところ、そのような記述は一切なかったという。
しかし、江戸幕府の中にもこの説を知って関心を持った者もいたようで、間宮林蔵が蝦夷地へと探検に行く際に、義経が大陸に渡った痕跡がないかついでに調査するようにと命じていたという。
実際に間宮林蔵は、蝦夷地を越え、樺太伝いに大陸へと渡ったところ、源義経が蝦夷から大陸へ入ったという証拠は確認できなかったが、現地の人々は、当時の中国の皇帝は、日本人の末裔であるという伝説が残っていることを教えてくれたという。
間宮林蔵
その後、源義経=チンギス・ハーン説は、日本人を越えて、外国人から唱えられることになった。
時は江戸時代末期である。 日本にやってきたドイツ人医師シーボルトは、日本の見聞をもとに全7巻に及ぶ「日本」という書物を出版している。
そこには、義経は衣川で死なずに、海を渡り、蝦夷の発見者のひとりとなった。 その後、対岸のアジアへと渡り、チンギス・ハーンとなったと書かれていたのである。
日本の政治家で歴史学者でもあった末松謙澄は、留学先のロンドンでシーボルトの「日本」を読み、この驚くべき記述を目にしている。
シーボルトはこの話を間宮林蔵から聞いたとしている。
シーボルト
当時西洋では、日本は未開の小国と思われ、中国の属国とみなされていた。
そこで、末松謙澄、留学先のケンブリッジ大学の卒業論文に「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書いたのである。
その後、同論文は日本語に翻訳され、「義経再興記」として出版された。
この本を読んでさらに看過され、その気になってしまったのが大ベストセラー『成吉思汗ハ源義経成』の著者・小谷部全一郎だったのある。
末松謙澄
偽書流行の裏には、人々の願望と欲望がある。
過去記事の偽書、偽書「東日流外三郡誌」の正体 1
偽書「東日流外三郡誌」の正体 2
偽書「東日流外三郡誌」の正体3
偽書「東日流外三郡誌」の正体4
偽書「東日流外三郡誌」の正体5
現在11話になっていますが、減らしたいと思っています。
わりと最近のマンガに瀬下猛の「ハーン/草と鉄と羊」ってのがあって、義経が大陸に渡ってテムジンになり、ボルジギン氏だのキャト氏だのタイチュート部がどうしたこうしたで、ついに高原を統一してチンギス・ハーンを名乗りましたって話だけど、主人公が実は義経だってことを置いといても結構面白かったよ。(単行本全12巻)
まあ、東日流外三郡誌の胡散臭さよりはしっくりくる感じかな。
人の想いがあったのは確かですし、その想いが連鎖してつながっていたら面白い展開は実は物語よりも現実の方がありそうですからワクワクしちゃいます。間宮さんがってのもなんか嬉しいですね、当時未開の地の更に先がどう繋がってるのかも分からない時代だったのなら現地の方のお話がまた一番信憑性が高いわけですけど私もそうですがそうであって欲しいって思って聞くわけでどっちにもなってしまいますね。歌とか昔話とかのように存在があるなら何かの伝承も出てくると個人的にはいいなあと思います。それもこれもお互いの地域交流や関係性が出てこないならばあり得ない事ですから今後もっと世界が仲良くなってくると出てきちゃうって嬉しいですよね。日本に不信感あればもちろんそんな話はこちらにも伝わる前に障害が出てくるはず。ある意味色んな過去の伝承と文化交流の軌跡もこの先のお互いの人種や国家への理解が進んでこないと現れない物なのでしょうね。
フビライさんが元寇で日本にやって来た理由も、私の時代の歴史と今の歴史も若干違うんで義経系が当時の北条と闘うのもあまり納得出来ないので神風で争う必要無かったとうまく自然が介助してくれたと理解もしたいなあと妄想では思います。
私も私個人が苦手な神さんがいるので昨日悩んでいたら文献でも名前が違うようでアレ?って思った所です。偽書とは言わずともそれぞれの作者がいてそれぞれの想いがあるならって事はあるんだろうなあ?と。またそれを結構研究していたのが江戸時代で外からの刺激がないので内の自分の国の歴史にも興味が出て古墳発掘しりその地ごとの産物の良さを感じたりといい効果もあるはずで、コロナの今にも似ているように思いますよね。
自国にないと思って外国依存でそっちにばかり目を向け自国の優れている所とか実は凄い技術や風習などを気付く時期なように感じます。東京も今外には行けない時期ですがその中で徒歩で飲食なしの散歩でこんな所にって事もあるはず、見ようしないと見えてないし当たり前だから外から来た方にしか気付かないような物もあるでしょう。宮城よりももっと北の義経の形跡がこの間に見つかるとちょっと面白いとは思いますよ。義経ダイレクトではなくその周りの方や一族等での縁を岩手青森でも探してます。なんせ漆器だかでも近畿との接点はお寺間ではあったはずなので鎌倉ならばもちろんあったはず。大陸渡らないにしても青森までは形跡探したいと判官贔屓しちゃってます。
大好きなんですけど。 この本から抜粋していろいろ書いてみます。
北行伝説には、義経を風呂に入れたという家では苗字を「風呂」と名乗って・・・・岩手から青森にかけてそんな話がいくつもあります。
また、外国人の女性は北海道のアイヌの集落をたずね、義経の痕跡を探して本にしているようです。
それは職場の同僚に聞いたのですがね。
片や栗原の人々は義経の墓守を代々やってきたから間違いないと言います。
蒙古襲来は海が荒れて助かったようですね。
どの時代にも話題作りをする奇想天外な発想をする人がいたのですね。
まだ遠いとは思うんですが琉球を若干目指しているようにも自分の中の何かが誘導しているようにも。
まあ変な者もあるかと思うので逆に反抗して避けてみて義経弁慶の所きっかけがあればですね。そうそう鳥羽から伊良湖あたりもでそこから足柄まで行くとちょっと面白いんですよね。義経一人ではなくとも幅広く時代も広げて妄想します。
京都で義経に逢うわけですが、確か比叡山の僧侶でしたね。平泉には弁慶の墓と言われるところや弁慶のお堂があったと思います。原寸大の弁慶は意外と大きかったと記憶しています。
義経絡みの話は本当に多いですからね。
鳥羽・伊良湖・足柄・・・何があるんだろう?
お父様の説が熊野関係の方と産湯もちょっと個人的に探求キーワードでして、お母さんも知りたいのですが気になる一族との関係も説ではあるみたいなんで義経とも出会うべきして出会ってそうにも思いましたよ。
鎌倉と源氏はとにかく表面的では理解出来ないし名前も似ていたりややこしいので一旦忘れちゃおうとは思ってます。東京の熊野はこの前やっと行けた所があり夕陽が境内に当たってました。そんなんで栗原の熊野神社の場所だけ確認しておきます。
自粛していなかったら緑茶はほとんど飲んでいなかったですが、今ではお湯沸かして飲むようになりました。
日本風の物でコロナに負けない身体にしたいですね。
旅行会社の時代、各地で義経に触れます。
それが面白いとも思いましたが。
そうそう、お茶の殺菌作用はすごいです。
極力摂取した方がいいですね。
永井神社に祀られていると記憶していたのですが、実際は天栄村の御鍋神社。御鍋なのですが、ご神体は何故か大釜。よく分からないです。
永井平九郎は平将門公の家来・息子の説があり、御鍋神社には将門公と桔梗姫も祀られているのですが、その近くに何故か義経伝説が伝わっています。静御前のお産の産湯に使った泉まである。
源の九郎と平の九郎。もしかしたら永井平九郎のモデルは義経なのかも知れません。
どちらにして将門公と源義朝を殺した家系になる私は、因果を感じます。
同じ九郎もその可能性を秘めていますね。
とにかく義経の名は、至ところにでてきますから。