ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

出雲の国譲りの真相、出雲から追われた人々・アラハバキとは 一話

2013年07月20日 07時45分23秒 | みちのく文化研究&歴史
「東北・蝦夷の魂」 高橋克彦著から抜粋して一部御紹介します。

古代東北を探っていくと、世界の龍信仰や日本神話とのつながりが見えてくる。
天照系の神々に出雲を追われた国つ神たちは東北へ移動した。
蝦夷は東北を「ひのもと」と呼び、朝廷は東北を道の奥と呼んだ。
すなわち中央政権の支配が及ばぬ地として「陸奥(みちのく)」と名付けたのである。

東北の民は朝廷軍など中央の権力と何度も戦い、全てに敗北した。
負けた側は歴史を消されてしまう。
勝った側は当然のように自分たちの正当性を主張する。自分たちは正義の戦いをした、あらがった連中は野蛮で文化も無く殺したって構わない奴らだ、と決めつけたのだ。

東北は阿弖流為(アテルイ)、前九年、後三年合戦、平泉滅亡、奥州仕置、戊辰戦争と大きな戦に巻き込まれ、歴史をズタズタに書き換えられ、棄てられてしまったのです。
それでも東北の人々は逞しく生きているのです。

私も勝者による歴史の改ざんや消滅させることについて何度も記事にしてきたが、まぎれもなく色々な歴史が勝者によって書き換えられたのです。


「出雲の国譲り」
遥か昔、出雲には「和」と呼ばれる国の人々が暮らしていた。
やがて大陸から九州に渡ってきた邪馬台国、つまりヤマト族の集団が北上を続け、出雲で「和」の人々と敵対関係になった。
最終的に畿内全域を統一したヤマト族は、出雲王朝である「和」から国を譲られたという神話を広め、大和朝廷を作り上げた。

そもそも何故「大和」と書いて「やまと」と読むのか?
「大」を「や」と読むこともなければ、「和」を「まと」と読むこともない。
私たちは「大和」は「やまと」と読む者と刷り込まれてしまったので、それが当たり前になっている。
 日本の古い言葉(原日本語)には文字はなかった。
そのため中国から伝わった漢字の中から、意味の同じ文字を原日本語に当てはめて使った。
例えば「黄泉の国」(死者の住む国)がそうだ。「黄」を「よ」、「泉」を「み」と読む例はない。
原日本語に「よみ」という言葉があり、それに同じ意味の中国語の漢字「こうせん(黄泉)」を当てたのだ。
中国の字典では「黄泉」の意味は「地底湖」となっている。
古い日本(原日本)における「よみ」のイメージも、鍾乳洞や洞窟の中の地底湖のようなものだった。
それで、「よみ」に、漢字の「黄泉」を使ったのだろう。

ヤマト族は「和」の国を邪馬台国に組み入れた。だが、「和」と交流のあった中国は、それをヤマト族の侵略行為だとして、併合を認めなかったのではないか。
その為ヤマト族は出雲王朝の「和」から正式に国を譲ってもらったことにした。
そして邪馬台国と「和」という二つの国が合体して「大きな和の国つまり大和となりました」と宣言したのだろう。但し、読み方は「だいわ」ではなく、「邪馬台=やまと」とした。


「和」の人々は「出雲の国譲り」のあと、畿内から遠い九州あるいは東北方面に逃れた。
東北に安住した者は蝦夷(えみし)と呼ばれ、九州に安住した人は隼人(はやと)と呼ばれるようになった。
だから東北に暮らす我々は、蝦夷の末裔ということになる。
       ※隼人=古代九州南部の移住民、七~八世紀頃大和朝廷律令支配体制に組み込まれた。     

今でこそ単一国家とされているが、少なくとも鎌倉時代の初め頃までは、明らかに日本には国が二つあった。
人種では無く国だが、大きな意味で二分していた。
大和朝廷が支配する国と、出雲王朝の流れを汲む「和」の人たちの国である。
その対立構造の中に阿弖流為(アテルイ)や安倍貞任(あべのさだとう)の戦いがあった。 

聖武天皇が東大寺の大仏に鍍金(メッキ)する黄金を求めていると、たまたま東北で金が産出した。
それまで朝廷にとって東北は戦いをする価値もない土地だった。
多賀城をこしらえたのも、東北を支配するというより、ここまでは我々の領土だぞと蝦夷に示すためだった。
何度か記事にしているが蝦夷とアイヌは別と考えて下さい。アイヌには独自の文化が存在します。
アイヌも一つではありません。ここでは割愛します。

  この金について2009年記事にしています。
  黄金山産金遺跡:日本で初めての金は、宮城県で採れた

※多賀城は蝦夷を滅ぼすための最前線と説明されているが、そうではない。
それまでは利害がぶつからないから協調していた。ところが蝦夷の国に黄金が出現したため、朝廷軍が入り込むようになった。
こうして蝦夷と朝廷との長い戦いが始まる。
古代東北の民・蝦夷は、本来穏やかな暮らしを好む「和」の民だった。
※多賀城についてはこちらをご覧ください。http://sanpomichi114.web.fc2.com/tagajyou.html


東北のストーンサークル



これについても2009年4月に記事にしています。
大湯環状列石(ストーンサークル)と黒又山(クロマンタ)ピラミッド

ここは色々噂され、ピラミッド説、宇宙人の基地、そしてこの辺りでのUFOの目撃談。
私が最初知った頃は野原にストーンサークルが見える程度でしたが、この記事を書いた頃は、資料館ができ、発掘が進み綺麗になっていた。
私も古代史に興味を惹かれる一つになっているが、この本の著者、高橋克彦氏も父親がこの地秋田県鹿角市で病院を始めたことで大学生の頃、休みのたびに帰省していたらしい。
そこでストーンサークルの謎に取り組むことになって行く。


黒又山(クロマンタ)


今は偽書と分かった「東日流外三郡誌」※つがるそとさんぐんし=青森県在住の和田喜八郎が発見したとされる古史古伝の一つ(偽書とされた理由はいずれ記事にします)この本の出現で古代東北への関心が高まったのは事実でしょう。
※記事にしました。長文なのでホームページにまとめています。
この本に騙された町や参考にして本になってしまった書籍類も少なくない。活字になると人は信じてしまう・・・

偽書 東日流外三郡誌の正体

東北には龍伝説が非常に多い。大湯ストーンサークルに近い黒又山の周辺にも竜を祀る神社が残されている。
また、田沢湖や十和田湖の周辺などにも伝説が多い。まだ記事にしていないが、ここを訪れれば観光バスガイドさんが必ず伝説を話してくれる。そうそう秋田の八郎潟も竜伝説で十和田湖と話が繋がります。
十和田湖

田沢湖



世界中の龍伝説を調べてみると、奇妙なことに気がついた。
世界には龍を神として崇拝する民族と、悪魔として恐れる民族の日辰があった。
キリスト教文化圏では竜を悪魔と呼び嫌悪する。
インドの蛇信仰は竜と結びついているため、仏教では竜を神と見ている。


文明発祥地とされるシュメールには、神様だった竜がある時点から悪魔にすり替わったという伝説がある。
エイリアンの中に対立する二大勢力があったことがこの伝説から読み取れる。
対立するエイリアン同士の戦いがシュメールの地で起きたのでこうした伝説が生まれたのでしょう。
『旧約聖書』によるとモーセ(モーゼ)はシナイ山で十戒を授けられた時、偶像を作るなと神から告げられた。ところがモーセが山から下りると、神の不在に怯えた人々はすでに偶像を作っていた。
その姿は牛の姿をしていた。最初に作られた偶像が牛だったことを考えると、キリスト教に影響を及ぼしたエイリアンは牛に似ており、キリスト教に敵対した宗教と係わったエイリアンは竜の姿をしていたのかも知れない。

因みにエイリアンは宇宙人じゃありませんよ(笑) 
ここでいうエイリアンは異国人ですね。まぁ、宇宙人が居たのかも知れませんが・・・・

東北のストーンサークルを造った人たちは竜信仰を持っていたようだ。
日本の竜信仰の始まりは出雲からである。
出雲の斐伊川(ひいかわ)の上流に八岐大蛇伝説(やまたのおろちでんせつ)がある。その地で八岐大蛇は神として崇敬されていた。ところが出雲王朝を滅ぼしたヤマト族=天照系の神話では、八岐大蛇は邪悪とされ須佐之男命(スサノオノミコト)が退治してしまう。
土地を支配する竜を退治することから建国が始まるという構図は、世界各地の神話とも一致する。


天照系の須佐之男命は午頭天王。須佐之男命は、竜と敵対する牛の姿をした神を崇める一派だったのだろう。

竜を追いかけるうちに、津軽が東北の竜信仰の寄り集まっている場所であり、そのルーツはどうやら出雲だとわかってきた。
出雲を追われた国つ神(くにつかみ=天孫族が来る以前から土着していた神)たちが、竜信仰を持ったまま東北に来たのだ。


大社龍舵神札
島根県立古代出雲歴史博物館 江戸末期~明治時代 
旧暦の十月は出雲に全国の神々が集まるので、出雲ではご存じのように神在月といいますね。
その時期には出雲大社近くの稲佐浜にウミヘビが漂着することがあります。
このウミヘビは、御祭神のお使いで、全国の神々が出雲に来る時に先導される神だと信じ、龍神様と呼んで信仰してきました。この御札には、龍神様は「水火風難を除く」と記されています。

これは、多賀城の歴史博物館に来た時実物を見ました。
 


出雲を支配していたのは大国主命たちである。
東北には大国主命を祀る神社が多いのに、本家本元の出雲には大国主命を祀る神社は出雲大社しかない。
もっと奇妙なのは、出雲大社での大国主命の祀られ方だ。
拝殿の中に大国主命がいて、それを取り囲む形で天照の神々が配置されている。まるで大国主命を逃がさぬよう見張っているかのようだ。


神話によれば天孫族たち、つまり天照系の一派が日本にやって来た時、出雲を治めていた大国主命たちは、快く国譲りをしたとされる。

「この国はあなたたちにお任せしましょう。私たちには高い塔を造ってくれれば、そこで国の繁栄を見つめ続けましょう」と国譲りが平和的に行われたかのほとく「古事記」や「日本書紀」には書いている。
だが、出雲大社の成り立ちは、天照一派が大国主命一派を服従させたことを示すものだったのだ。


新しい支配者が古い支配者を塔に幽閉するのは世界共通だ。
古い支配者に国土を眺めさせるためにではない。
かつての支配者が決して救出出来ないところにいるのを、民に見せつけるためだ。
だから大国主命も天孫族によって高い場所に幽閉された。

伝承によれば出雲大社の本殿は130mを超す高さだったとされる。
それは見せしめとして造られたのであって、決して大国主命への尊敬からではなかった



中世では高さ十六丈(45m)であったという伝承もあり。それを元にこの模型が復元されています。


私も、こんなやさしい国譲りは、あり得ないと思います。
他人が我が家に来て、ここを下さいと言われて、はいどうぞと云う者はいないでしょう。


では、大国主命に従っていた国つ神たち、つまり日本の先住民はの首領たちは、出雲を追われてどこに行ったのか?
長野の諏訪神社の御神体は蛇=竜だ。
諏訪大社に祀られている建御名方神(たけみなかたのかみ)は大国主の子で、国譲りを迫る天照の使者建御雷(たけみかずち)と力競べをして敗れ諏訪へ逃げた。 のちに様々な祟りをなしたので、朝廷は大和に三輪神社{大神神社)を建立する。
主祭神の大物主大神は蛇神である。三輪神社の縁起は、大国主命が自らの幸御魂(さちみたま)・奇御魂(くしみたま)を三輪山に祀ったのがそもそもの始まりという。このことからも日本の国つ神は龍の系列であったと考えられる。

出雲を征服した天照らは、畿内へと攻め込む戦闘準備をして待ち構えていたのが、現在の奈良県一帯を支配する豪族・長髄彦(ながすねひこ)だった。
天照一派の遠征軍を率いる五瀬命は、長髄彦の弓に当たって死ぬ。五瀬命の弟、磐余彦尊(いわれびこのみこと)は一旦退却し、八咫烏(やたがらす)に導かれて熊野から吉野川を遡り奈良へと至る。

『古事記』は、その後の長髄彦と天照軍の攻防に触れていないが、饒速日命(にぎはやひのみこと)の神が磐余彦尊に帰順の意向を示したことで、天照軍は畿内を制圧したことになっている。
饒速日命は長髄彦の妹と結婚していた。

『日本書紀』は天照軍に服従しない長髄彦を饒速日命が殺したとしている。
磐余彦尊とは、後の神武天皇だ。

長髄彦ゆかりの神社が、青森県十三湊(とさみなと)の近くに今もある。
戦前の調査によって二メートル程の身長の人骨が発見され、長髄彦の骨ではないかと騒がれた。
長髄彦神社の周辺には、やはり龍の伝承が残っている。

龍の伝承はシュメールからシルクロードを経てインド、中国、最後には日本へ渡ってきた。
もともと、日本にあった信仰ではなく、シュメールから伝播してきたものだったのだ。
だからインドや中国の伝説と日本の竜伝説はとても似ている。

アラハバキとは何か

津軽の民が古代から信仰していた神がアラハバキがある。
御神体は黒光りする鉄の塊という謎めいた神で、未だに正体は解明されていない。
亀ヶ岡遺跡や大湯ストーンサークルからは、変わった形の壺や笛に用いたとされる菱形の土器がよく出土する。
それらはトルコの辺りにかつて存在したヒッタイトの土器と非常に似ている。

ヒッタイトは世界で初めて製鉄を行った古代帝国である。
ヒッタイトのどこで土器が作られていたかを追い求めると、製鉄施設を含むアラジャ・ホユックの遺跡にたどり着く。
ヒッタイトでは鉄製品をハバルキと呼んでいた。
アラジャ・ホユックのハバルキが転じてアラハバキになったのではないか?

土器の類似性から相当古い時代に竜を崇める民が日本に渡って津軽辺りに住みつき、縄文時代を作り上げた可能性があると考えている。

幼い頃より馴染みの深い神ではあるが、なぜ拝まなければならないのか、実はよく知らない。
「蝦夷とて拝んでおるじゃろうに」
二風は面白そうに笑ったあと、「須佐之男命の名を存じておるか?」
真面目な顔で訊ねた。阿弖流為は首を傾けた。母礼も知らないらしかった。
「陸奥とはあまり縁のなき神。むしろ蝦夷にとっては敵に当たる。
出雲に暮らしていた蝦夷の祖先を滅ぼした神じゃ。
その須佐之男命が出雲の民より神剣を奪った。 草薙の剣と申してな・・・別名をアメノハバキリの剣と言う」
「ハバリキの剣」
阿弖流為と母礼は顔を見合わせた。
「鉄で作った刀のことじゃ。それまで朝廷の祖先らは鉄の刀を拵える技を持たなかった。出雲の民を滅ぼして、ようやく手に入れた」
「するとアラハバキとは?」
「鉄の山を支配する神じゃよ。この神の鎮座ましますところ、必ず鉄がある。アラハバキの神は鉄床を磐座となされる。我ら物部はその磐座を目印にして鉄を掘りだし、刀や道具を代々生み出して参ったアラハバキの神こそ物部を繁栄に導く守り神」
「・・・・・・」
「そればかりではない。アラハバキは少彦名神とも申して、出雲を支配していた大国主命のお手助けまでなされた。それで蝦夷も大国主命とともにアラハバキを大事にしておる」
なるほど、と二人は頷いた。物部は鉄の在処を知らせてくれる神として、蝦夷の祖先の地である出雲の神として敬っていたのである。

                       (「火怨 北の燿星アテルイ」高橋克彦著より)



長文になりましたの2話に続けます。・・・・・その2


「アラハバキ」










                                                                                                                                                                                                                                                      

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13 コメント

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文字 (abbey)
2014-05-23 10:51:07
古代の日本語には文字が無かったと書いておられますが、漢字が入ってくる何千年も前に「神代文字」や
「カタカムナ」といった日本の古代文字があったことが発見されているそうです。
奇妙な文字なので宇宙語ではないかと言われていますね。
縄文時代は宇宙人がたくさん来ていた時代だったのではないでしょうか。
縄文時代の神がアラハバキ?なのかなと。
返信する
abbeyさんへ (ひー)
2014-05-23 12:02:30
コメントありがとうございます。
「神代文字」については、私のHPに紹介しています。
「あらはばきと謎の古代史」
http://sanpomichi114.web.fc2.com/arahabaki3.html
最後に紹介しています。

自分も縄文時代の神はあらはばきだと思っています。ブログの方は、断片的ですので、HPご覧いただければ嬉しいです。
それと「東日流外三郡誌」などの偽書の影響を受けた古代史に関する本も多く、私の以前の記事にも影響しています。
いずれ加筆訂正しなければと考えています。
「神代文字」についてもまだ確信が持てる資料を読んでいません。
ヘブライ語との関連も否定できません。
一部の部族での文字とも思われます。
蝦夷とアイヌは、別に考えるのがいいと学者も考えているようです。
残念なのが、アイヌは文字を持たない文化でした。 もうひとつ縄文土器はアメリカ大陸でも発見されています。そのルートの検証は二種類あります。それはいずれ・・・
日本列島にはDNAからみると北方からも南方からも渡来してきたことはわかっています。そして外に出ているようです。
余りにも深い歴史で資料が乏しいのは事実でしょう。 古代史は考古学の他には想像を駆使するしかないようですね。




返信する
Unknown ()
2015-03-30 21:21:36
国譲りによって大和が成立しましたが大国主が支配する以前は一体どのような部族が存在していたのでしょうか?今、ここに生きているという事実がある以上あなたも私も皆支配者(少数部族を蹂躙した側)の末裔なのです。
返信する
「あ」さんへ (ひー)
2015-03-30 21:35:01
全くその通りですね。
小部族の原住民または移動して狩りをしている縄文人ですかね?
大国主の記事の原文はこの本からです。自分のページですが http://sanpomichi114.web.fc2.com/izumo.html 
これは出雲神族の話です。
結論から言うと、この一族は氷の張る真っ白な世界から何千年もかけて移動してきたと、末裔が話しています。

古代史はほぼ想像でしかありませんね。
証拠が無いからです。ですから考古学しかたよりにならないのが現実でしょう。
返信する
Unknown (通りすがり)
2015-12-02 05:35:07
前ページで気になったことについて記載

 「日本書紀」では崇神天皇が宮廷に祀っていたアマテラスと倭大国魂の神を宮廷外に祀ることにした。
この神社が 延喜式式内社 阿波國美馬郡 倭大國玉神大國敷神社二座 (論社) 倭大國魂神社です。
倭大國魂神を祀る神社は日本で唯一ここのみ。

すなわち、崇神天皇が祀らせた倭大国魂の神の社がここです。
他にも、この物語に関連してくる、ミマ・ミノ・オオタ・ミシマ 等、すべて当社周辺の地名。

本当の皇祖は他にいるのではと思うのが筋!
  「記紀」は明らかにすることができない天皇家の出自の秘密を隠蔽するために、敢えてアマテラスを皇祖に仕立てて
  日本統治の正当性を「記紀」で表したかったのではないだろうか?

  「延喜式」によれば、大嘗祭の斎場の神々の中心は「タカミムスビノ神」(高皇産霊神)なのです。この神こそ本来の祖神としての扱いになっていることに注目したい。

私からすれば当たり前です。なぜなら高皇産霊神の6世孫が天日鷲命であり阿波忌部の祖。
現在でも大嘗祭において阿波忌部の直系である三木家によって、あらたえが寄進されていることは有名ですね。
ほかにも延喜式に記載される三種御前があります。

.「天都御膳(あまつみけ)」:阿波国忌部が貢進する高天原の産物の山幸
(1)鮎喰川の鮎。
(2)木綿麻山(ゆうまやま)の木綿(ゆう) (現在、この木綿麻山は高越山と呼ばれています。)
(3)乾羊蹄:かもしかの肉
(4)橘子(たちばなのみ)

2.「長乃御膳(なかのみけ)」:勝浦川流域、佐那県園瀬川流域、鮎喰川流域を古代から「阿波三渓(あわみたに)」と呼びますが、この東側の那賀郡から奉供されます。
(1)鰒:あわび
(2)鰒鮨
(3)細螺(したたみ):さざえ?
(4)雲丹:うに
(5)石華(いしのはな)辰砂 等

3.「遠つ御膳(とおつみけ)」:淡路島(阿波へ行くための通り道)と紀州那賀郡(名前からわかるように阿波から同族が移住して住み着いた場所)よりの奉供

1の「天都御膳(あまつみけ)」は、基本的に阿波の中でも場所指定。2は那賀郡とやはり場所指定。3は阿波にゆかりの深い淡路島(阿波へ行くための中継地点)と阿波国対岸の同族移住地。

つまり、三種の御膳とは、全て阿波とその関連地で独占して奉供されているということです。

海部氏系図は、京都府宮津市の天の橋立の付け根にある古社で丹後国一ノ宮、籠神社(このじんじゃ)に秘蔵されて きた門外不出の秘書だった。
 籠神社は「延喜式」の「神名帳」に名神大社として記載されている。
海部氏系図は、京都府宮津市の天の橋立の付け根にある古社で丹後国一ノ宮、籠神社(このじんじゃ)に秘蔵されて きた門外不出の秘書だった。
 籠神社は「延喜式」の「神名帳」に名神大社として記載されている。

私が直接、籠神社の海部宮司に聞いた話ですが、ここだけの話としたうえで海部氏は阿波忌部の配下であったと言っていた。

また宮内庁の三木氏が日本人と麻フォーラムでの講演で海部氏は忌部の配下であって今でも海部宮司と親しいと暴露した。

伊勢神宮について
徳島県板野郡吉野町字五条にも古代より忌部族の本流と称する高志家があって伊勢神宮の本家であると
云伝え伊勢の御祓いを受けなかった一族が在する。又上板町熊庄神社とその氏子には、京家と称する、玉田・和田・梅田・前田・前須賀・の五氏は熊野源氏即ち南朝系の
元祖で古来三種の神器を伝承し公家又は京家と呼んで明治初年に朝貢したと伝えられています。
これは度会氏の出自を語ったもので、自分たちが忌部であることを語っているものですね。

伊勢神道(度会神道)の根本経典として伝わるのが「神道五部書」。
鎌倉時代に度会行忠ら外宮祀官が、伊勢神宮に伝わる古伝を加味しつつ執筆したものとされており、奥付には奈良時代以前の記載であるとの記述があるそうですが、確認はできておりません。一般的には14世紀頃の成立であるようですが、その神道五部書によりますと
天村雲命伊勢大神主上祖也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也

これだけで、詳しい説明は不要かなとも思いますが...
阿波國に座す二社が皇祖皇統の正統なる末裔であると記してあるのです。
阿波忌部が伊勢神宮の正統なる祭祀者、あるいは...
とにかく内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実です。



返信する
東北大事ですね。 (りひと)
2016-01-23 12:19:17
もっともっと土の下にはたくさんの痕跡が埋まっているはずです。大昔には考古学者が悪いことしていたのがありましたが正しい目で見て自分の考えや主張があっても正しく報告する職人さえいればおのずと正しい歴史は出てくるはずです。
お金や地位や権力にならないけども自然を相手に黙々とやっている方にスポットライト当てて欲しいですね。それが品格のある権力者の努め、日本はどう進むのかゆっくりと見守りたいですね。
奈良では外国人のためのか?ホテルを作るため遺跡は封印されてしまいそう、どうなるのか?で日本の行く末も見えてくるかもしれませんね。5049
返信する
りひとさんへ (ひー)
2016-01-24 11:36:05
これは私の研究課題です。
まぁ、そんな大きなタイトルではないのですが、解らないことが多い神様です。縄文から伝わる神で日本人の原点に繋がる話題です。左のサイドバーに自分のHPをリンクしています。そちらには詳しく書いていますが、修正しながらの記事です。
返信する
旧出雲王国の2王家(富王家 、神門臣王家)サイドの情報について (アマゾン大元出版ファン)
2017-05-10 07:13:44
出雲の絡みとかでネット検索すると、必ずと言っていいほど目にしたこちらのブログ。(ひーさん・・・ひーさん・・・、焼き付いています。)

私は2015年春頃から新情報を得ることになり、それ以前に考えていた事が、かなりずれていた事に気が付いたような次第です。

新情報とは、大元出版という出版社から出ている著書の事で、旧出雲王国(~紀元250年頃)の東西2王家側の史実情報が記されたものです。

複数冊出版されていますが、これらの本をお読みになった事はありますでしょうか?

こちらのブログがネット検索で表示されたものを、かいつまんで読んだ事があるだけですので、事情はよく分かっていないのですが・・・。

もし大元出版の事を知らなかった・・・、読んだ事が無い・・・、などありましたら、ぜひ一度読んでみて頂きたいなと思っております。

(大元出版)
出雲と大和のあけぼの 、出雲と蘇我王国 、古事記の編集室 、親魏和王の都 、サルタ彦大神と竜(幸の神と竜) 、・・・などなどです。

出雲神話ねつ造の関連は、古事記の編集室が詳しいと思います。(大げさ・・・、突拍子もない・・・、大体ホヒの子孫 出雲国造が絡んでいますね。)

出雲国譲りのエピソードは親子血縁関係を含め、基本ウソです。

旧出雲王家側の伝える史実では、
オオクニヌシは8代目西出雲王(主王)、コトシロヌシは8代目東出雲王(副王)、2王家とも大祖先クナトノ大神の子孫の家で、親子ではない。タケミナカタはコトシロヌシの息子で、母は沼川姫。沼川姫はオオクニヌシ・・・ではなく 、コトシロヌシのお后。(オオクニヌシ:八千矛王のこと 、コトシロヌシ:八重波津身王のこと。)

これらの方々が生きたのは、紀元前220年前後で、譲るも何も、広域出雲王国は17代目出雲王の時代まで続きました。(四百年以上経ってから敗戦した。)

出雲大社(杵築大社)は、奈良時代716年正月創建。
ホヒ国造家から旧出雲王家に申し入れた話だった。

創建当初は、旧出雲王家が目を光らせていたので、本殿の八雲之図は8つの雲が描かれていた。・・・・・、時は流れ、ホヒ国造家の先祖の力が増してからは、7つの雲に変えてしまった。(信仰上の聖なる数の違い。)

大元出版の本、ぜひ御検討くださいね。

(関連検索ワードメモ)
亀太夫神事 カバちゃん 、神魂神社 穴 、熊野大社 56 、熊野大社 うんせき 、出雲大社 うんせき



返信する
アマゾン大元出版ファンさんへ (ひー)
2017-05-10 08:22:07
コメントありがとうございます。
記事のベースになっているのは、数名の著者ですが、ここは偽書による影響だ!と思ったところは、外していますが、外しきれない部分もまだあります。
提供された本については、読んでみたいと思います。
ただどの位修正できるかは、あまりにも点在してしまった記事を探すのが大変かも?
情報ありがとうございます。
返信する
おもしろいです (ちい)
2017-09-27 01:08:13
先日大國魂神社へ
行った際に坪宮を偶然見つけまして
何を祭ってるんだろうとぐぐって
このブログへたどり着きました!
すごく解説が分かりやくて
読んでいて楽しかったです
ありがとうございますU^ェ^U
返信する

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