
伏 石
弘安十年(1287)の紀年がある供養碑です。
碑文には、時宗の僧西阿弥陀仏が三十余人の協力のもとにこの碑文を建立したことが刻まれています。
由来は、昔、この石を起こして立てたところ、この地に疫病が流行し、占ってみると、石を起こしたためである
というので、再びもとのように伏せました。
それが今でもそのままの状態で残っているのです。



左の白い道が、総社宮に行く旧塩釜街道、右の多賀城碑や玉川寺ががあるのは後の塩釜街道です。
三叉路には、石碑がありました。左:塩釜旧道 右:塩釜新道 と刻まれています。

PS:6月30日
酔漢さんが時宗について総本山・遊行寺に取材に行って来てくれました。
その記事はこちらです。多賀城と藤沢 時宗のつながり・・・・
そこで、時宗について知り得た情報をまとめたいと思います。
時宗の総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺で正式な名称は「藤沢山 無量光院 清浄光寺」と申します。
通称遊行寺と呼ばれ、開祖は一遍上人です。
室町時代までは「時衆」を用いていました。
この石に刻まれた「西阿弥陀仏」という僧ですが、時宗では略して「西阿」(せいあ)と呼ばれていたようです。
一遍上人は「南無阿弥陀仏」のお札を配りながら日本各地をまわり遊行して踊り念仏をおこないました。
日本各地を回った中に多賀城との関わりもあったのかも知れません。
酔漢さんの記事によれば、一遍上人の祖父が追われる立場となり陸奥まで逃げ、奥州江刺にて絶命。
「踊念仏」は1279年、信濃で初めて行われたとされています。
その後、1280年(弘安三年)奥州・・つまり陸奥国江刺の祖父の墓前へ向かうことになるのです。
その途中に「松島へ立ち寄る」との記録があるそうです。
ここは、塩釜街道ですからこの道を通った可能性があります。
しかしながらこの供養碑の碑文を建立した時宗の三十人の僧の中に一遍が居たかどうかは確認できません。
でも、その弟子達であったことは間違いないでしょう。
松島を訪れたのは弘安4年(1281)でした。
そして、酔漢さんの記事によれば、一編の死が1289年で場所は摂津(現兵庫)です。
やはり、時期的に直接の関わりは無さそうですね。
弘安十年(1287)の紀年がある供養碑です。
碑文には、時宗の僧西阿弥陀仏が三十余人の協力のもとにこの碑文を建立したことが刻まれています。
由来は、昔、この石を起こして立てたところ、この地に疫病が流行し、占ってみると、石を起こしたためである
というので、再びもとのように伏せました。
それが今でもそのままの状態で残っているのです。



左の白い道が、総社宮に行く旧塩釜街道、右の多賀城碑や玉川寺ががあるのは後の塩釜街道です。
三叉路には、石碑がありました。左:塩釜旧道 右:塩釜新道 と刻まれています。

PS:6月30日
酔漢さんが時宗について総本山・遊行寺に取材に行って来てくれました。
その記事はこちらです。多賀城と藤沢 時宗のつながり・・・・
そこで、時宗について知り得た情報をまとめたいと思います。
時宗の総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺で正式な名称は「藤沢山 無量光院 清浄光寺」と申します。
通称遊行寺と呼ばれ、開祖は一遍上人です。
室町時代までは「時衆」を用いていました。
この石に刻まれた「西阿弥陀仏」という僧ですが、時宗では略して「西阿」(せいあ)と呼ばれていたようです。
一遍上人は「南無阿弥陀仏」のお札を配りながら日本各地をまわり遊行して踊り念仏をおこないました。
日本各地を回った中に多賀城との関わりもあったのかも知れません。
酔漢さんの記事によれば、一遍上人の祖父が追われる立場となり陸奥まで逃げ、奥州江刺にて絶命。
「踊念仏」は1279年、信濃で初めて行われたとされています。
その後、1280年(弘安三年)奥州・・つまり陸奥国江刺の祖父の墓前へ向かうことになるのです。
その途中に「松島へ立ち寄る」との記録があるそうです。
ここは、塩釜街道ですからこの道を通った可能性があります。
しかしながらこの供養碑の碑文を建立した時宗の三十人の僧の中に一遍が居たかどうかは確認できません。
でも、その弟子達であったことは間違いないでしょう。
松島を訪れたのは弘安4年(1281)でした。
そして、酔漢さんの記事によれば、一編の死が1289年で場所は摂津(現兵庫)です。
やはり、時期的に直接の関わりは無さそうですね。
むかしは
いまより 自然と密着していたからこそ
からかもしれませんね
昔は、占い師に相談していたことが分かりますね。
今でも、不思議な力を持っている人がいます。
この辺では「拝みや」と云われています。
近くにも居ますよ。当たると評判です。
「なしてねてんだべ」というくらいの認識です。
「時宗」総本山「遊行寺」は家の目と鼻の先です。今度ご紹介いたしますね。
「なにせ踊りながらの念仏・・」ですから。
何度か踊り念仏はTVで見たことがあります。
これが時宗でしたか?
つながりました。
是非ご紹介を・・。
ひーさんの記事へリンク出来るようにしました。事後お許し下さい。
今日も携帯ですが。
今から覗きに行きます。
西阿弥陀仏なる僧は先にもお話いたしましたが、遊行寺には記録はありませんでした。
ですが、奥州へむかった時衆があったとの記録は残されているようです。
一編死後、一度はばらばらになりかけた時宗を他阿弥陀仏(他阿=たあ)という僧が、まとめあげて、現在につながる時宗の祖を築いたとの記録がございます。
結構、全国へ散らばった時衆だったと考えております。
久しぶりに歴史を紐解きましたぁ。