通常、遣欧使節の大使と言えば、どの本にも支倉常長または六右衛門常長で記載している。
それはそれでいいと思います。私のHPでも当然「支倉常長」で通しています。
しかし、資料の中には、あれ「長経」とサインしている。?と気づくこともあります。
資料の中に現れる大使支倉の名前は以下のようである。
「五郎佐衛門尉」・「五郎佐衛門」・「六右衛門尉」・「六右衛門」・「六衛門」・「与市」・
「長経」・「常長」
海外になると
マドリードのレルマ公宛の二通の書状には、「支倉六右衛門長経」・「支倉六右衛門尉長経」
ヴェネツィア総督宛てのソテロとの連署書簡には、「はせくら六右衛門どんひりへい長経」
これは、洗礼を受けた後でしょうね。
ルソンから息子に出した書状では、「六衛門」・「長経」の名を使っている。
現存する支倉家の家譜や系図では全て同一人物で扱っている。
常長は生涯の中で時期に合わせ名を改名し使い分けていたのでしょう。
支倉家の家系図が記す「1622年(元和八年)に五十二歳没」を根拠にすると、1570年頃(元亀元年)頃に出羽国置賜郡立石郷で生まれた。
承応三年二月常長は八十四歳の天寿を全うした。という説もある。
これについては下記の記事に記しています。
支倉常長/三つの像と三つの謎&メモリアルパーク
ホームページの「支倉常長」にも少々書いていますが、常長の出自を見てみよう。
父常成は伊達輝宗と政宗に仕えた紀伊時政を家督にする支倉家の次男で、新六郎、飛騨守称し、置賜郡長井の五十町を采地として同立石郷に住む。
葛西・大崎一揆の領地替えの後は黒川郡に同じ五十町の采地を得て同郡大森に住みその後富谷に移ったという。
父常成の兄、時政は正五郎、紀伊と称し、信夫郡山口巴、伊達郡柳川巴、柴田郡支倉巴などのおよそ千二百石を継ぐ支倉家の当主だが、跡継ぎができなく常成の子六右衛門を養子に迎えたが、後に実子が得られたため六百石を分地している。
二人の父を持つ常長は、藩全体の領地替えが行われた1608年(慶長十三年)の十月二十二日付「知行割目録」では、下伊沢之内小山村の五十二貫余を本知行に加美郡一関村の七貫七百文余を合わせた計六十貫二百四十三文(六百石余)を与えられている。
慶長使節の出航はこれから六年後のことである。
支倉常長の大使抜擢の理由
実父、飛騨守常成の切腹事件
支倉飛騨事、去年以来召籠分に而指置候、然者(しからば)、比内 弥 以(いささかをもって)不届義候条、唯今甲付候て、腹を切らせ可申候、奉行二四竃新介、中村備前可申付候、早々無油断可申付候、子二候六右衛門尉事も、親子之義二候間、命ハたすけ、追失可申候、勤言
八月十二日 政宗(花押)
茂石見殿
子細之儀者、直ニ可申聞候、子二候者もけっしょに可仕候、但め(女)子ハ無子細追はなし可申候、以上
書状は半分に折って記されているため、逆さまにもしてみました。
伊達政宗書状(常長追放文書)実父飛騨常成の切腹と常長の追放を命じた
【現代語訳】
支倉飛騨については去年以来拘禁・謹慎の身に処置しておいたところを最近不届きな行いが明らかになったため、ただ今切腹の指示を出した。これを執り行う奉行に四竃新介、中村備前の二人を充て、また、早々に油断なく実行するように命じる。飛騨の子である六右衛門も親子の間柄にあるため、命は助けるが追放の処分を申し付ける。 子細な点は石見に直接伝えることにする。 飛騨の子に当たる者は決所(知行地没収)の罪とし、女子については追放だけにとどめること。
これは、政宗から藩の刑事を取り仕切る茂庭石見にだされた指令の書状である。
常長に湧きあがった重大な事件である。養子に行った2とはいえ実子には違いない。
後年イエズス会総会長補佐へ宛てた宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスの報告書によると
「その者(常長)は父が政宗の資産に関して数々の詐欺を働いた罪によって、斬首になるところだった。
しかし政宗は彼が外国の旅の途中で死んでしまい、二度と日本に帰ることはないだろうと考え、死罪の代わりに大使役に任じたのだ」と知らせれてもいる。
八月十二日という日付は記されているものの、年代が示されていないこの書状については、「支倉家系図」の一つに「慶長五年八月十二日卒」と書いているのだが直ちに特定はできず、慶長使節派遣にまつわる多様な状況や、政宗がこの書状に用いた花押の使用時期の研究の結果から、派遣計画推進時に近い年代、すなわち1612年の(慶長十七年)頃を充てるのが妥当とみなされるに至っている。
このような事情から、支倉常長の大使抜擢の理由は、非常に複雑な模様を呈していることになる。
昨年、慶長使節四百年を迎えた・・・
「政宗の夢常長の現」河北新報出版センター 濱田直嗣 著 から
支倉常長
コリア・デル・リオ
それはそれでいいと思います。私のHPでも当然「支倉常長」で通しています。
しかし、資料の中には、あれ「長経」とサインしている。?と気づくこともあります。
資料の中に現れる大使支倉の名前は以下のようである。
「五郎佐衛門尉」・「五郎佐衛門」・「六右衛門尉」・「六右衛門」・「六衛門」・「与市」・
「長経」・「常長」
海外になると
マドリードのレルマ公宛の二通の書状には、「支倉六右衛門長経」・「支倉六右衛門尉長経」
ヴェネツィア総督宛てのソテロとの連署書簡には、「はせくら六右衛門どんひりへい長経」
これは、洗礼を受けた後でしょうね。
ルソンから息子に出した書状では、「六衛門」・「長経」の名を使っている。
現存する支倉家の家譜や系図では全て同一人物で扱っている。
常長は生涯の中で時期に合わせ名を改名し使い分けていたのでしょう。
支倉家の家系図が記す「1622年(元和八年)に五十二歳没」を根拠にすると、1570年頃(元亀元年)頃に出羽国置賜郡立石郷で生まれた。
承応三年二月常長は八十四歳の天寿を全うした。という説もある。
これについては下記の記事に記しています。
支倉常長/三つの像と三つの謎&メモリアルパーク
ホームページの「支倉常長」にも少々書いていますが、常長の出自を見てみよう。
父常成は伊達輝宗と政宗に仕えた紀伊時政を家督にする支倉家の次男で、新六郎、飛騨守称し、置賜郡長井の五十町を采地として同立石郷に住む。
葛西・大崎一揆の領地替えの後は黒川郡に同じ五十町の采地を得て同郡大森に住みその後富谷に移ったという。
父常成の兄、時政は正五郎、紀伊と称し、信夫郡山口巴、伊達郡柳川巴、柴田郡支倉巴などのおよそ千二百石を継ぐ支倉家の当主だが、跡継ぎができなく常成の子六右衛門を養子に迎えたが、後に実子が得られたため六百石を分地している。
二人の父を持つ常長は、藩全体の領地替えが行われた1608年(慶長十三年)の十月二十二日付「知行割目録」では、下伊沢之内小山村の五十二貫余を本知行に加美郡一関村の七貫七百文余を合わせた計六十貫二百四十三文(六百石余)を与えられている。
慶長使節の出航はこれから六年後のことである。
支倉常長の大使抜擢の理由
実父、飛騨守常成の切腹事件
支倉飛騨事、去年以来召籠分に而指置候、然者(しからば)、比内 弥 以(いささかをもって)不届義候条、唯今甲付候て、腹を切らせ可申候、奉行二四竃新介、中村備前可申付候、早々無油断可申付候、子二候六右衛門尉事も、親子之義二候間、命ハたすけ、追失可申候、勤言
八月十二日 政宗(花押)
茂石見殿
子細之儀者、直ニ可申聞候、子二候者もけっしょに可仕候、但め(女)子ハ無子細追はなし可申候、以上
書状は半分に折って記されているため、逆さまにもしてみました。
伊達政宗書状(常長追放文書)実父飛騨常成の切腹と常長の追放を命じた
【現代語訳】
支倉飛騨については去年以来拘禁・謹慎の身に処置しておいたところを最近不届きな行いが明らかになったため、ただ今切腹の指示を出した。これを執り行う奉行に四竃新介、中村備前の二人を充て、また、早々に油断なく実行するように命じる。飛騨の子である六右衛門も親子の間柄にあるため、命は助けるが追放の処分を申し付ける。 子細な点は石見に直接伝えることにする。 飛騨の子に当たる者は決所(知行地没収)の罪とし、女子については追放だけにとどめること。
これは、政宗から藩の刑事を取り仕切る茂庭石見にだされた指令の書状である。
常長に湧きあがった重大な事件である。養子に行った2とはいえ実子には違いない。
後年イエズス会総会長補佐へ宛てた宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスの報告書によると
「その者(常長)は父が政宗の資産に関して数々の詐欺を働いた罪によって、斬首になるところだった。
しかし政宗は彼が外国の旅の途中で死んでしまい、二度と日本に帰ることはないだろうと考え、死罪の代わりに大使役に任じたのだ」と知らせれてもいる。
八月十二日という日付は記されているものの、年代が示されていないこの書状については、「支倉家系図」の一つに「慶長五年八月十二日卒」と書いているのだが直ちに特定はできず、慶長使節派遣にまつわる多様な状況や、政宗がこの書状に用いた花押の使用時期の研究の結果から、派遣計画推進時に近い年代、すなわち1612年の(慶長十七年)頃を充てるのが妥当とみなされるに至っている。
このような事情から、支倉常長の大使抜擢の理由は、非常に複雑な模様を呈していることになる。
昨年、慶長使節四百年を迎えた・・・
「政宗の夢常長の現」河北新報出版センター 濱田直嗣 著 から
支倉常長
コリア・デル・リオ
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