ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

偽書「東日流外三郡誌」の正体8

2014年03月04日 17時24分11秒 | みちのく文化研究&歴史
偽書「東日流外三郡誌」の正体1
偽書「東日流外三郡誌」の正体2
偽書「東日流外三郡誌」の正体3
偽書「東日流外三郡誌」の正体4
偽書「東日流外三郡誌」の正体6
偽書「東日流外三郡誌」の正体7

筆跡鑑定

野村の和田氏に対する訴訟から五ヶ月後のことだ。
1993年3月 青森地裁の記者室にて・・・・
青森古文書研究会会長の鈴木政四郎と副会長の佐々木隆次の大きな声が響いた。
「『外三郡誌』の筆者や内容から見て、偽書としか考えられません。書かれた時期は昭和二十年代以降でしょう。これはまちがいありません」
膨大な資料を片手に、記者団に説明する二人の顔は自信に満ちていた。
肝心なことは、二人が「偽書作成」の具体的な時期まで言及していたことだった。

二人は「『東日流外三郡誌』に登場する記述の時代的整合性と筆跡について、古文書の専門家の立場から細かく調査し、分析しました。その鑑定結果です。」と前置きすると、次のように説明した。

① 『外三郡誌』が成立したのは江戸時代とされるにもかかわらず、明治以降に作られた新語が出てくる。
② 原本から書き写されたのは明治時代とされているが、字体には戦前から戦中にかけて教育を受けた者の特徴が見られる。
③ 『外三郡誌』と筆跡が同じ一連の和田家文書には、戦後に生産された版画用の和紙が使われている。したがって、文書は戦後に作られたものにほかならない。


記者に配布された資料にはこう記されていた。
「つまり、和田喜八郎氏の直筆でなされたものである」 偽書作成者として、和田の名が公の席で明らかにされたのはこれが初めてだった。


資料を手に調査結果を発表する佐々木副会長(左)と鈴木会長(右)


さらに筆跡か文章の専門家の証言がほしかった。そこで浮かんできたのが、産業能率大学教授(当時)の安本美典(心理学・言語学・日本古代史)だった。
彼は、グリコ事件や連続幼女誘拐殺人事件の筆跡鑑定で知られる人物だった。
その一方で邪馬台国論争にも深くかかわっていることを歴史雑誌などを通して知っていた。

古代史と筆跡鑑定に詳しい安本は、まさに偽書追及の急先鋒にうってつけの存在であった。
その安本が『外三郡誌』問題に積極的にかかわり、独自に調査を進めていた・・・
週刊誌の「サンデー毎日」と安本自身が編集責任者を務める古代史専門誌『季刊 邪馬台国』(福岡市・梓書院)にこの件を掲載する直前だ、と安本は語った。

安本は言った。
「いいですか、人間には癖というものがあります。個性とも言いますが、それはその人が書く文字にも反映されます。 その観点から、私は『外三郡誌』で使われている文字と発見者とされる和田さん自身の文字を徹底的に比較しました。 
その結果、いろんなことがわかってきました。
いちばん重要なのは、『外三郡誌』の誤字と和田さんの誤字が共通しているということです。
例えば『於』という字がありますよね。 これが『外三郡誌』と和田さんの文章では『方に令と書いている(PCで文字が見当たらないので)』と誤って書かれています。
また、『末』も同様に、上から二本目の横棒が長くなって『未』となります。
『陽』『湯』にいたっては、もっと顕著です。 右側のつくりの『昜』が一画欠けて『易』となっているのです。
これは代表的な例にすぎません。 細かく言えば、もっとあります。
「つまり・・・・『外三郡誌』は和田さんが書いた可能性が極めて高いということです」

青森古文書研究会と六百キロ以上離れたところでほぼ同時に行われていた調査は、奇しくも同じ答えを導きだしていた。



『外三郡誌』以外に和田さんが発見したとされる一連の和田家文書も、和田さんが書いた可能性が高い。(「東日流六郡誌絵巻」、「源頼朝の『奉寄』、「安東太郎宗季の『安東船商道之事』などの古文書にも同様の誤字などが見られる)




「東奥日報」一九九三年四月六日
審議論争を呼んでいる「東日流外三郡誌」に新たな疑問が投げかけられている。 文章心理学と古代史の専門家が、東日流外三郡誌は「発表者とされる和田喜八郎氏がねつ造した偽書」とする調査結果を五日までにまとめ、根拠として「東日流外三郡誌」の写本と和田氏の誤字の共通点を指摘。
調査結果は近く専門誌や週刊誌を通じて発表する。 
その他の記事内容は上記した内容と同じなので割愛します。


それにしても字は汚いし、絵もけして上手とは言えない。小生の感想ですが、嘘の上塗りで相当苦労したことでしょう。これにだまされ多くの歴史家や出版社、町は多くの損害を受けたはずである。
未だに古田武彦氏などがこの歴史を参考に本を出版している、読んだ人はそれは信じてしまいネット上でも、歴史家はこの本を読んだ方がいい!などとすっかりマインドコントロールされてしまっているようだ。 世の歴史家は、この本について偽書として相手にしていません。 小生ももう少し書きますのでよく読んで判断していただきたい。





五戸弁護士事務所で公開された和田家文書(1993年5月)


名言をパクル?
このブログの偽書「東日流外三郡誌」の正体1でも触れたがあの福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」の『学問のすゝめ』の巻頭に登場する名言です。

もう記事にするのも面倒なのですが、かいつまんで・・・・

つまり福沢諭吉は「東日流外三郡誌」に書いてあった文を引用したという手紙を和田家に送られたということです。

いつもの通りで、手紙の実物は無く写しがあるというのです。毎度の子供だましですね。
これがその手紙のコピーです。いつもの如く、右上がりの癖字で前記した誤字もありました。



真っ向から否定する慶応大学
福沢諭吉研究センター長で教授の西川俊作は・・・・・・割愛
「三千通ある福沢の手紙の中で、一度も使われていない花押が記されていたり、公式記録では六月五日まで東京にいたはずの福沢が、手紙では早くも翌日には大坂から手紙を出したりしています。
そして、自分の著書名を「学文之進め」と間違えるなど、これだけ短い文章の中におかしい点が数多くあります。
”大阪にて飛脚す”と有りますが手紙の三年前の明治五年にはすでに郵便の全国ネットワークができており、書簡が存在するなら郵送していたはずです。
第一、敬語を誤って使ったり、文章の意味がよくわからないなど不自然な個所が多すぎます」




偽書「東日流外三郡誌」の正体9


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« PM2.5 列島覆う | トップ | 偽書「東日流外三郡誌」の正体9 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

みちのく文化研究&歴史」カテゴリの最新記事