浮嶋神社
三度目の再編集です。
2009年、2012年、そして本日2015年4月19日いずれも例祭の日でした。
実は、この日は陸奥総社の宮・多賀神社も例祭に当たります。
今回は御由緒が新しくなったという事で再編することに・・・
御由緒のところで追記したいと思います。
2009年
偶然、浮島神社のお祭りに出くわしました。
お~御神輿に子供達・・・地元の小さなお宮さんのお祭りですね。
早速、車を降りて神社へ・・・
多賀城は、歌枕の地としても有名ですが、この浮島も古来歌枕で歌われた地でもあります。
新古今和歌集
山口女王:「塩竃の前に浮きたる浮島のうきて思ひのある世なりけり」
平安時代後期になると
橘為仲(陸奥守):「いのりつつなをこそたのめ陸奥にしづめたまふな浮島の神」
軽トラの上に神輿が・・・どうやら賽銭を上げてるようです。
浮島神社
主祭神:奥鹽老翁神(オクシオノオキナノカミ)
奥鹽老女神(オクシオノオウナノカミ)
鎮座地:宮城県多賀城市浮島一丁目一番一号(旧称:宮城郡浮島村赤坂)
社格:村社 (式外社)
御由緒
創建は不明ですが、多賀城創建の頃、またはそれ以前にあったとも考えられますね。
鹽竈神社を調べていると・・・・『朝野郡載』の康和二年(1100)六月二日の「式外の神社御トに合う証文を進む」の条に、近則去延久二年十二月御ト、坐二越後国一春日布河両社、坐二陸奥国一清竈鳥海二社、同六年六月御ト、坐二陸奥国一浮島・鹽竈・鳥海三箇社 とあって、ここに出てくる「浮島」とあるのが、この神社のことである。
小高い丘にあることから、チョット離れると浮島の名にピッタリなのです。
当時は国府官人の信仰を集めて、都にも聞こえた著名な社であった。
佐藤信要の『封内名蹟志』には、「多賀神社在 塩竈村 四座之一、今の鹽竈一の宮也、郷説には浮島の明神(現在の浮島神社)なり」とし、多賀神社を鹽竈神社又は浮島神社とする文献も見られる。
祭神は、鹽竈神社の鹽土老翁神との関係を意味しているのは一目瞭然であると思います。
別名鹽竈明神とも言われる神であるが、ここのは若干違う、記紀には見かけられないのようです。
鹽竈神社の祭神については、左サイドバーより「神社仏閣」にリンクしています。
それでは、どこからこの祭神の名前が出てきたのでしょう。
江戸時代、仙台藩の取調べにおいて村人が「鹽竈明神の伯母に当たる女神を祀っている」と答えた記録がある。としている。
また、新しい記録が発見されましたら更新いたします。
上記は私なりに調べたものです。
それでは、新しく編纂された語由緒を掲載したいと思います。
2015/04/19
御由緒 案内版より転記いたします。
浮嶋神社は正確な創建時期は、不明であるが 神亀元年(皇紀1384年・西暦724年)の多賀城創建の頃より鎮座し 多賀城に陸奥国府が置かれていた頃は栄えていたと伝えられ 鎮座する此の地は古来歌枕に詠まれた浮島に比定される地である
古くは平安時代の朝野群載(ちょうやぐんさい)に鹽竈神社及び鳥海神社と共に御卜(みうら)に預かったと記録にあり 江戸時代の安永風土記では多賀明神 塩松勝譜(えんしょうしょうふ)では多賀府社という名で記されている
明治維新後の近代社格制度に基づき 明治四年(皇紀2531年・西暦1871年)七月 浮島村の総鎮守として村社に列格される
その後明治四十一年(皇紀2568年・西暦1908年)には浮島字高平現城南一丁目に鎮座していた大臣宮神社(おおどのみやじんじゃ)を境内に遷座し その御祭神である源融卿を合祀した
明治時代末期 政府による神社合祀令で存続が危ぶまれたが 氏子崇敬者の運動もあり 古来より由緒ある神社ということで合祀を免れた
村社列格以来 歴代の氏子崇敬者によって境内の整備が進められ 現在も鎮守神として 境内社と共に崇敬を集めている
明治天皇御製
旅衣 あさたつ袖をふきかへす 松風すゞし 浮島が原
※御トとは神職が、奉仕直前に神の御心(みこころ)にかなうかどうかを、おうかがいする行事です。
松尾芭蕉も立ち寄ったようです。
『奥の細道』から・・河合曾良の『曾良旅日記』によれば、元禄2年(1689年)5月8日、仙台から塩竈へ向かった2人は浮島などを見物し、その夜は法蓮寺門前に宿を取ったと記録している。
法蓮寺の関連記事はこちら
いましたいました・・・・・へへへ、最大の目的はこれ!
なんだ・・・頭でっかち
足・・・・細いかも・・・?
昭和19年ですね。結構風化してますね。
扁額には浮嶋の文字が使われています。
境内社
八幡神社
昭和初期に出征兵の武運を祈って祀られたもののようです。
大臣宮神社(おとどのみやじんじゃ):陸奥国按察使として同地に赴任した源融を祀る。 2014.4.19
上記の通り、御祭神は「源朝臣融卿」で浮嶋神社に合祀され旧社地から遷されたものです。
旧社地は下の地図の通りです。
現在は、このように石碑が祀られています。2014.4.19
地図の「国府多賀城駅」の上に「館前遺跡」がありますが、ここは発掘調査の結果、堀立柱建物跡六棟、溝跡、整地層、小規模の建物跡等が発見されており、堀立柱建物跡は九世紀前半に作られた陸奥国国司の館跡と考えられている。
ここの城主は陸奥国司、浮島太夫となっています。
源 融(みなもとのとおる)弘仁13年(822年)~ 寛平7年8月25日(895年9月21日)は、嵯峨天皇の十二男。
以前源融に関する記事をUPしております。
お隣は稲荷神社です。
氏子である蜂谷家の敷地にあった稲荷を遷したものです。
私事ですが、同級生に蜂谷君がいます。ここ一帯の蜂谷一族ですね。
本殿の様式は流造です。
2014年4月15日・19日撮影
明治天皇の歌碑のようです。
この石灯籠に刻まれた、年号は・・
慶応四年の文字が・・・慶応4年は明治元年の年ですね。9月8日から明治なので3月は慶応四年になるのは当然ですね。
三度目の再編集です。
2009年、2012年、そして本日2015年4月19日いずれも例祭の日でした。
実は、この日は陸奥総社の宮・多賀神社も例祭に当たります。
今回は御由緒が新しくなったという事で再編することに・・・
御由緒のところで追記したいと思います。
2009年
偶然、浮島神社のお祭りに出くわしました。
お~御神輿に子供達・・・地元の小さなお宮さんのお祭りですね。
早速、車を降りて神社へ・・・
多賀城は、歌枕の地としても有名ですが、この浮島も古来歌枕で歌われた地でもあります。
新古今和歌集
山口女王:「塩竃の前に浮きたる浮島のうきて思ひのある世なりけり」
平安時代後期になると
橘為仲(陸奥守):「いのりつつなをこそたのめ陸奥にしづめたまふな浮島の神」
軽トラの上に神輿が・・・どうやら賽銭を上げてるようです。
浮島神社
主祭神:奥鹽老翁神(オクシオノオキナノカミ)
奥鹽老女神(オクシオノオウナノカミ)
鎮座地:宮城県多賀城市浮島一丁目一番一号(旧称:宮城郡浮島村赤坂)
社格:村社 (式外社)
御由緒
創建は不明ですが、多賀城創建の頃、またはそれ以前にあったとも考えられますね。
鹽竈神社を調べていると・・・・『朝野郡載』の康和二年(1100)六月二日の「式外の神社御トに合う証文を進む」の条に、近則去延久二年十二月御ト、坐二越後国一春日布河両社、坐二陸奥国一清竈鳥海二社、同六年六月御ト、坐二陸奥国一浮島・鹽竈・鳥海三箇社 とあって、ここに出てくる「浮島」とあるのが、この神社のことである。
小高い丘にあることから、チョット離れると浮島の名にピッタリなのです。
当時は国府官人の信仰を集めて、都にも聞こえた著名な社であった。
佐藤信要の『封内名蹟志』には、「多賀神社在 塩竈村 四座之一、今の鹽竈一の宮也、郷説には浮島の明神(現在の浮島神社)なり」とし、多賀神社を鹽竈神社又は浮島神社とする文献も見られる。
祭神は、鹽竈神社の鹽土老翁神との関係を意味しているのは一目瞭然であると思います。
別名鹽竈明神とも言われる神であるが、ここのは若干違う、記紀には見かけられないのようです。
鹽竈神社の祭神については、左サイドバーより「神社仏閣」にリンクしています。
それでは、どこからこの祭神の名前が出てきたのでしょう。
江戸時代、仙台藩の取調べにおいて村人が「鹽竈明神の伯母に当たる女神を祀っている」と答えた記録がある。としている。
また、新しい記録が発見されましたら更新いたします。
上記は私なりに調べたものです。
それでは、新しく編纂された語由緒を掲載したいと思います。
2015/04/19
御由緒 案内版より転記いたします。
浮嶋神社は正確な創建時期は、不明であるが 神亀元年(皇紀1384年・西暦724年)の多賀城創建の頃より鎮座し 多賀城に陸奥国府が置かれていた頃は栄えていたと伝えられ 鎮座する此の地は古来歌枕に詠まれた浮島に比定される地である
古くは平安時代の朝野群載(ちょうやぐんさい)に鹽竈神社及び鳥海神社と共に御卜(みうら)に預かったと記録にあり 江戸時代の安永風土記では多賀明神 塩松勝譜(えんしょうしょうふ)では多賀府社という名で記されている
明治維新後の近代社格制度に基づき 明治四年(皇紀2531年・西暦1871年)七月 浮島村の総鎮守として村社に列格される
その後明治四十一年(皇紀2568年・西暦1908年)には浮島字高平現城南一丁目に鎮座していた大臣宮神社(おおどのみやじんじゃ)を境内に遷座し その御祭神である源融卿を合祀した
明治時代末期 政府による神社合祀令で存続が危ぶまれたが 氏子崇敬者の運動もあり 古来より由緒ある神社ということで合祀を免れた
村社列格以来 歴代の氏子崇敬者によって境内の整備が進められ 現在も鎮守神として 境内社と共に崇敬を集めている
明治天皇御製
旅衣 あさたつ袖をふきかへす 松風すゞし 浮島が原
※御トとは神職が、奉仕直前に神の御心(みこころ)にかなうかどうかを、おうかがいする行事です。
松尾芭蕉も立ち寄ったようです。
『奥の細道』から・・河合曾良の『曾良旅日記』によれば、元禄2年(1689年)5月8日、仙台から塩竈へ向かった2人は浮島などを見物し、その夜は法蓮寺門前に宿を取ったと記録している。
法蓮寺の関連記事はこちら
いましたいました・・・・・へへへ、最大の目的はこれ!
なんだ・・・頭でっかち
足・・・・細いかも・・・?
昭和19年ですね。結構風化してますね。
扁額には浮嶋の文字が使われています。
境内社
八幡神社
昭和初期に出征兵の武運を祈って祀られたもののようです。
大臣宮神社(おとどのみやじんじゃ):陸奥国按察使として同地に赴任した源融を祀る。 2014.4.19
上記の通り、御祭神は「源朝臣融卿」で浮嶋神社に合祀され旧社地から遷されたものです。
旧社地は下の地図の通りです。
現在は、このように石碑が祀られています。2014.4.19
地図の「国府多賀城駅」の上に「館前遺跡」がありますが、ここは発掘調査の結果、堀立柱建物跡六棟、溝跡、整地層、小規模の建物跡等が発見されており、堀立柱建物跡は九世紀前半に作られた陸奥国国司の館跡と考えられている。
ここの城主は陸奥国司、浮島太夫となっています。
源 融(みなもとのとおる)弘仁13年(822年)~ 寛平7年8月25日(895年9月21日)は、嵯峨天皇の十二男。
以前源融に関する記事をUPしております。
お隣は稲荷神社です。
氏子である蜂谷家の敷地にあった稲荷を遷したものです。
私事ですが、同級生に蜂谷君がいます。ここ一帯の蜂谷一族ですね。
本殿の様式は流造です。
2014年4月15日・19日撮影
明治天皇の歌碑のようです。
この石灯籠に刻まれた、年号は・・
慶応四年の文字が・・・慶応4年は明治元年の年ですね。9月8日から明治なので3月は慶応四年になるのは当然ですね。
歴史博物館あるんですね
いつまでも~
こういう祭り守って欲しいですね
それにしても
この時期の祭り~祈穀祭ですか?
ココにもちゃ~んと狛様が見張っているのですね!頼もしい表情です。
狛様、ちょっと独特なお顔。
足が本当に細くて、折れないかと心配してしまいます。
昭和の物にしては風化してますね。
江戸時代の物と言っても信じる人がいるかもしれません。
子供達が歩いて行列可愛いですねぇ~
小さくても何となく雰囲気が伝わりますう
初めて見たけど、ずいぶん立派なんだっちゃ ♪
んでも、ここの狛チャン、御年65歳にしちゃ老けてんなぁ~
なんか赤塚富士夫の鬼の面がハイドンのカツラかぶったみたいだけど・・・
平安の時代からあったと思われます。
きっと五穀豊穣を願ってのことでしょうね。
昔からこの神社は知っていましたが、やっとキッカケをもらえましたよ。
地図を見ると沢山神社がありこりゃもうお手上げです。
うちの近くにもちっちゃい神社がありますが、こんなに立派じゃないです
お神輿もないし、狛ちゃんもいません
ちょっとつまらん
大昔、鼻に白い筋を入れてもらい、
豆絞りで、おみこ担いだ私の写真があるのですが
なんだかそのときのことを思い出しました。
それと狛犬さん
誰かに似てない!?
もしかして・・・・あーさん
おっと失礼あーさんごめんなさい
神社は子どもとつながってこそ
地域に生きているって気がします(^-^)
昭和19年生まれにしては
狛ちゃん 老け込んでますね~
敗戦直前なので石も材質が悪い?
その時期の 狛ちゃん奉納 何か
特別な思いがあったのかもですね?