12日の祝日、所用があり昔勤めていた会社の一駅手前の駅まで出向く。
余裕を持ち過ぎて部屋を出たため、予定していた電車よりも早い電車に乗ってしまい、30分早く目的地に着いてしまう。
さて、この半端な時間をどう潰したらよいものか、と目的もなく歩き出し、編集者時代に担当していたライターの部屋まで行ってみる事にする。
幸い目印にしていた幾つかの建物は残っており、難なくライターの部屋まで辿り着く。
と、ライターの部屋自体は現存してはいたのだが、人が住んでいる形跡は無くなっていた。
曇りガラス越しには立て掛けられた大きな机が透けてみえ、ドアの前には廃棄されたらしい掃除機か何かの電化製品が放置されていた。
出版社にもよると思うのだが、小説を書くような作家先生ならともかく、一般的にはライターの部屋まで編集者が赴く事はまずない。
基本的には、電話でのやり取りと、通信による原稿の受け取りぐらいである。
私がそのライターのもとに足繁く通っていたのは、彼が筆が非常に遅く、また仕事を沢山引き受けているがために催促しないと原稿が貰えなかったからだ。
また彼の中で私の会社の仕事の優先順位が低かったのも、原稿がなかなか届かない要因でもあった。
それでも彼に仕事を頼まざるを得なかったのは彼を含めて少数の人間しか知り得ない特別な知識を彼が有していたから。
電話も普通は留守電で彼が直接電話に出る事は殆どなかった。
という訳で、締め切りが近付いてくると仕方無く彼のもとに赴き、原稿の進捗状況の確認や、上がっている原稿だけでも受け取るために部屋まで行っていたのだ。
情が通じないライターとの事だったが、それでも原稿を書いて貰わなきゃいけなかったもので、無駄だとは分かっていても、よく栄養ドリンクや缶コーヒーを差し入れていたものである。
ぺーぺーの編集者の私にはそれくらいしか彼の心を動かす術が思い付かなかった。
初めて彼を担当した時は、締め切りギリギリになっても待てど暮らせど届かない原稿を待ち土曜日の夜に一人会社に残り、ファックスが稼働し始めるのを待ったけか。
深夜3時を過ぎた頃からファックスが届き出し、切りのよい所で止まったので、すかさず彼に電話を掛け、もう少しです頑張って下さい、とやっとやる気になってくれた彼の心が折れないように逐一連絡を入れて励ましたものだった。
そうして、全ての原稿を受け取り、ご苦労様でした、と連絡をし、原稿に指定の赤を入れ、休日の遅い始発電車が動き出すのを待って自室に戻ったけか…。
それは早春の嵐の晩で、朝になってもその激しい雨は止まず、自宅の最寄り駅からびしょ濡れになりながら部屋に帰り着いたのを覚えている。
まぁ、そんな思い出のあるライターである。
出版業界を離れてから、彼に連絡をする事もなく彼が執筆していた雑誌を手にする事もなかったので、その後の消息は不明。
しかし、相変わらず編集者の胃に穴を開けるような事をまだやっているのだと思う。
その会社を辞めたあと、元同僚と会う機会があり、彼が私のその後の事を話題にしていた、と耳にした時は嬉しかったものだ。
あの時は○○君(私の事)に迷惑を掛けてねぇ…、とも言っていたとの事。
およそそういう発言をするようなキャラクターではないので、よほど彼の脳裏ににも私の事が焼き付いていたのだろう。
おそらくもう忘れているとは思うが…。
まぁ、そんな昔の自分が歩いていた場所を訪ねてみた祝日だった。
不思議な事に、駅から結構な距離があるように感じていたその遅筆のライターの仕事場まで、改めて歩いてみると意外にもそう遠い場所ではなかった事が分かった。
余裕を持ち過ぎて部屋を出たため、予定していた電車よりも早い電車に乗ってしまい、30分早く目的地に着いてしまう。
さて、この半端な時間をどう潰したらよいものか、と目的もなく歩き出し、編集者時代に担当していたライターの部屋まで行ってみる事にする。
幸い目印にしていた幾つかの建物は残っており、難なくライターの部屋まで辿り着く。
と、ライターの部屋自体は現存してはいたのだが、人が住んでいる形跡は無くなっていた。
曇りガラス越しには立て掛けられた大きな机が透けてみえ、ドアの前には廃棄されたらしい掃除機か何かの電化製品が放置されていた。
出版社にもよると思うのだが、小説を書くような作家先生ならともかく、一般的にはライターの部屋まで編集者が赴く事はまずない。
基本的には、電話でのやり取りと、通信による原稿の受け取りぐらいである。
私がそのライターのもとに足繁く通っていたのは、彼が筆が非常に遅く、また仕事を沢山引き受けているがために催促しないと原稿が貰えなかったからだ。
また彼の中で私の会社の仕事の優先順位が低かったのも、原稿がなかなか届かない要因でもあった。
それでも彼に仕事を頼まざるを得なかったのは彼を含めて少数の人間しか知り得ない特別な知識を彼が有していたから。
電話も普通は留守電で彼が直接電話に出る事は殆どなかった。
という訳で、締め切りが近付いてくると仕方無く彼のもとに赴き、原稿の進捗状況の確認や、上がっている原稿だけでも受け取るために部屋まで行っていたのだ。
情が通じないライターとの事だったが、それでも原稿を書いて貰わなきゃいけなかったもので、無駄だとは分かっていても、よく栄養ドリンクや缶コーヒーを差し入れていたものである。
ぺーぺーの編集者の私にはそれくらいしか彼の心を動かす術が思い付かなかった。
初めて彼を担当した時は、締め切りギリギリになっても待てど暮らせど届かない原稿を待ち土曜日の夜に一人会社に残り、ファックスが稼働し始めるのを待ったけか。
深夜3時を過ぎた頃からファックスが届き出し、切りのよい所で止まったので、すかさず彼に電話を掛け、もう少しです頑張って下さい、とやっとやる気になってくれた彼の心が折れないように逐一連絡を入れて励ましたものだった。
そうして、全ての原稿を受け取り、ご苦労様でした、と連絡をし、原稿に指定の赤を入れ、休日の遅い始発電車が動き出すのを待って自室に戻ったけか…。
それは早春の嵐の晩で、朝になってもその激しい雨は止まず、自宅の最寄り駅からびしょ濡れになりながら部屋に帰り着いたのを覚えている。
まぁ、そんな思い出のあるライターである。
出版業界を離れてから、彼に連絡をする事もなく彼が執筆していた雑誌を手にする事もなかったので、その後の消息は不明。
しかし、相変わらず編集者の胃に穴を開けるような事をまだやっているのだと思う。
その会社を辞めたあと、元同僚と会う機会があり、彼が私のその後の事を話題にしていた、と耳にした時は嬉しかったものだ。
あの時は○○君(私の事)に迷惑を掛けてねぇ…、とも言っていたとの事。
およそそういう発言をするようなキャラクターではないので、よほど彼の脳裏ににも私の事が焼き付いていたのだろう。
おそらくもう忘れているとは思うが…。
まぁ、そんな昔の自分が歩いていた場所を訪ねてみた祝日だった。
不思議な事に、駅から結構な距離があるように感じていたその遅筆のライターの仕事場まで、改めて歩いてみると意外にもそう遠い場所ではなかった事が分かった。