海辺の記憶 女川・五部浦 原発誘致、集落にしこり/河北新報

2013-09-04 22:20:18 | 社会
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/09/20130904t13035.htm

<船で電柱を運ぶ>
 宮城県女川町の中心部から東北電力女川原発に通じる県道女川-牡鹿線を、震災復旧の工事車両が忙しく行き交う。
 県道沿いに連なる五つの集落「五部浦」は、原発が住民の生活に大きく影響した地域だ。五部浦を構成する横浦、大石原浜、野々浜、飯子浜、塚浜はカキや銀ザケなどの養殖業、それに原発の作業関係者らが相手の民宿経営で支えられてきた。
 震災前は約30戸が立ち並んでいた横浦の神主木村信二さん(89)が、昭和の中頃までの暮らしぶりを語る。「建網漁に海藻採り、農業、炭焼きまで何でもやった。兄が戦死して家を継いだが、生活は楽ではなかった」
 電話が全通したのも町内で最も遅かった。中心部と結ぶルートは当時山道しかなく、船で電柱を運んだ。「集落の住民が岸辺から担ぎ、開通作業を手伝った」と木村さん。

<反対運動起こる>
 藩制期は横浦が五部浦の中心だった。19世紀中頃には女川浜の丹野家に代わり、横浦の木村五郎右衛門が牡鹿郡女川組の大肝入に座る。初代女川村長も木村家が担った。
 鉄道敷設などを背景に大正以降に成長を遂げた中心部に対し、周辺部の五部浦に恩恵は行き渡らなかった。明治初頭から1955年までの間に女川町全体の世帯数は6倍以上に増えた。一方、大型漁船の入港もない五部浦に変化はなかった。
 67年、県が塚浜集落の小屋取地区を原発の立地適地と発表した。当初は誘致が一挙に進むかに見えたが、反対の火の手が旧雄勝町から上がった。
 水質への影響などを危ぶんだ漁民が主導し、反対運動は旧牡鹿町、女川町へと波及した。70代の元漁師は「集落内、あるいは親子の間でも賛否は割れ、町内にしこりを残した」と言う。

<「夢を見ていた」>
 東北電力は漁業補償などの支払いに加え、建設工事が地域経済を刺激すると訴え、反対運動の沈静化に努めた。町も先細りする水産業に代わる「大産業」に原発を位置付け、誘致を推し進めた。
 塚浜の漁師阿部彰喜さん(63)は「原発建設によって、五部浦が人口3000~4000人の大きな地域になると町に説明された。われわれも夢を見ていた」と振り返る。
 16年後の83年、1号機が稼働する。きれいに舗装された道路が集落間を結び、塚浜を中心に民宿が立ち並んだ。町財政も潤った。だが五部浦は中心部から原発への通り道でしかなく、人口はほとんど増えなかった。
 震災に伴う福島第1原発事故を経た今、町内は女川原発再稼働の是非に揺れる。安全性への不安も高まり、再稼働反対派は昨年、町民の3分の1近い署名を集めた。
 阿部さんは「安全性が大事なのは言うまでもないが、震災前からの過疎に津波被害が重なり、女川は原発抜きに自立可能なのか」ともどかしさを口にした。(亀山貴裕)

<メモ>五部浦には太平洋戦争末期、海軍第14突撃隊(嵐部隊)の本部が置かれた。女川港への米軍上陸を阻止するのが目的。体当たり攻撃用の特殊潜航艇を隠すため各所に掘った洞穴が現存する。潜航艇が五部浦に届く前に終戦を迎え、作戦は実行されなかった。1945年8月に女川港は空襲を受け、海軍関係者ら200人以上が死傷した。

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