ニッポン人脈記 語り継ぐ戦場(4)(5)(6)/朝日新聞

2010-11-25 18:52:54 | 社会
ニッポン人脈記 語り継ぐ戦場(4)なお残る埋もれた現実

〈それぞれの戦いし意味つきつめず来し戦後なりいまに問わるる〉
朝日新聞の「歌壇」欄にこの作品が載ったのは、1974年5月26日のことだ。
作者は長崎県佐世保市の主婦長崎田鶴子(82)。
ベトナム戦争のさなか、当時45歳だった長崎は、米海軍基地のある佐世保の街で、仲間と共に反戦ビラを配つた。
黙っていたら戦争に加担することになる。
しかも、日本人は先の戦争の総括も終えていないではないか。
そんな思いを抱いていた。
「この歌を引用させてほしい」と電話がかかってきた。
「インパール」などの作品で軍上層部の責任を問うてきたノンフィクション作家、高木俊朗だった。
高木は自著「陸軍特別攻撃隊」のあとがきに長崎の一首を引き、「深い感慨と共感をそそられた」と書いた。
今年8月、朝日新聞「声」欄(西部および東京本社版)に長崎の投書が載った。
終戦の日の前後、テレビは優れた記念番組を放送したと評価したうえで、こうつづった。
「しかし、戦争の悲惨さを伝え、戦争一般に反対するだけで終わっていいのか。なぜ、どういう経緯で戦争が始められた
のか。……食糧も送れぬ南方へ派兵し、無謀な特攻で多くの若い命を無残に奪う計画をしたのは誰なのか」
長崎は言う。
「戦争の死者たちは、なぜ死なねばならなかったか。私たちは何も考えずにきたのではないでしょうか」
戦記文学の傑作「戦艦大和ノ最期」の著者吉田満は76年、エッセーにこう書いた。
「戦後三十年をへた今、この戦争が日本人にとって何を意味したかという課題は、まだ解かれていない。解かれていない
どころか、正面から問われてさえいないと私は考える」
戦後、アジア・太平洋戦争について移くのことが論じられてきた。
そこにいくつか重大な欠落がありはしなかったか。

「ぼくは日本航空のOBなんだよ」
日本女子大を途中で辞めて日航の客室乗務員になった当時22歳の遠藤美幸(47)は、ニューヨークに向かう機内で、
初老の男性から話しかけられた。
85年のことだ。
男性は小林憲一(故人)といった。家が近くだったこともあり交流が始まった。
遠藤はその後、日本女子大に戻り、結婚後、慶大経済学部の大学院に進学。英国の音楽社会史を研究した。
一次史料にあたるには留学が必要だが、育児や出産で難しかった。
行き詰まっていた2001年8月、小林から段ボール箱が送られてきた。
小林は戦争中、ビルマ(現ミャンマー)北部で飛行機の整備にあたっていた。
1944年9月、ビルマと国境を接する中国・雲南省西部の拉孟で1300人の日本軍が英米中国の連合軍との戦闘で
全滅した。
その実相を語る陣中日記、写真などが箱の中身だった。
拉孟戦の研究は従来ほとんど手がつけられていない。
遠藤は研究テーマを切り替えた。
拉孟戦については防衛庁防衛研修所戦史室が著した公刊戦史「イラワジ会戦ビルマ防衛の破綻」に記述がある。
「壮烈な戦闘」「凄惨な死闘」などの字句が並ぶが、指揮官の目で書かれていて戦闘の現実が見えない、と遠藤は
考えた。
「実際に兵がどう戦ったか、そこに暮らす中国民衆に何をもたらしたか、などについて公刊戦史は何も書いていません」
7年にわたって小林ら20人以上に聞き取りを繰り返し、英米中国の資料を読み込んだ。
証言と資料をつき合わせ、昨年、論文を書き上げた。
題して「戦場の社会史ビルマ戦線と拉孟守備隊1944年6月ー9月」。
「兵士の目線で拉孟戦を再現」「兵士の証言の持つ重要な意義」を浮き彫りにした----
一橋大教授(軍事史)吉田裕(56)の評価だ。
神田外語大学(千葉市)で非常勤講師を務める遠藤は言う。
「戦場の生々しい現実はどれだけ語られてきたでしょうか。それは元兵士への聞き取りで初めて明らかになります。
急がねばなりません」(上丸洋一)
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ニッポン人脈記 語り継ぐ戦場(5)憲兵だった父 重い遺言

元社会党衆院議員で、今は札幌で弁護士として活動する伊東(旧姓上坪)秀子(67)は1943年、「満州国」の首都
新京(現長春)の陸軍官舎に生まれた。
父上坪鉄一は四平にあった憲兵隊の隊長だった。
敗戦でシベリアに抑留された鉄一は、次いで中国・撫順の戦犯管理所に収容された。
56年に禁固12年の有罪判決を受けたものの、1年ほどで釈放された。
58年に父が帰国したとき、伊東は14歳になっていた。
突然の父の「出現」に戸惑った。
「晩酌の折などに父は戦犯管理所での経験を私に語ろうとしました。人道的に扱ってくれたことで罪を自覚できた、
感謝していると。けれど私は、また始まったかと逃げ腰でした」
78年、伊東の兄で、RKB毎日放送(福岡)のディレクターを務めていた上坪隆が鉄一ら元戦犯といっしょに旧満州を
訪問。
ドキュメンタリー「戦犯たちの中国再訪の旅」を制作し、翌年、日本民間放送連盟賞の優秀賞を受けた。
鉄一は86年、「日中友好に尽くせ」との遺言を家族に託して亡くなった。
今年6月、伊東は、今は見学施設となっている撫順戦犯管理所を初めて訪ねた。
父の起訴状が展示されていた。
生体実験などをしていたハルビンの731部隊に抗日活動家22人を送り、殺害させた、と書かれていた。
「衝撃でした。中国で何をしたか、父は語りませんでしたから。胸の奥に何があったのか、もっと聞いておけばよかったと
悔やまれます」

埼玉県に住む元中学教員、倉橋綾子(63)の父も元憲兵だった。
86年3月、病床にあった父大沢雄吉から次のように書かれた紙切れをわたされた。
「旧軍隊勤務十二年八ケ月、其間十年、在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)として、天津、北京、山西省、臨汾、
運城、旧満州、東寧、等の憲兵隊に勤務。侵略戦争に参加、中国人民に対し為したる行為は申し訳なく、只管
お詫び申し上げます」
父は「これを墓に彫りつけてくれ」と言った。
それ以上話を聞く機会がないまま、4日後に死去。親類が反対し、謝罪の碑を墓所に建てて約束を果たしたのは
十二年後のことだった。
この間に倉橋は、父の足跡を探求し始める。
ソ連との国境に近い旧満州・東寧憲兵隊の石門子分遣隊で父の上官だった人物を探し出したが、肝心なことは
何も話してくれなかった。
2000年、倉橋は東寧・石門子を訪問。
古老らに集まってもらったが、父を覚えている人はいなかった。
倉橋は謝罪の碑の写真を見せ、人々にわびた。
5年後、東寧・石門子を再訪した。
再会した老人が言った。
「戦争中はコーヒー館のコックをしていたと前に言ったが、あれはうそだ。本当は日本軍の慰安所のお茶くみだった」
倉橋は今、地域の仲間と戦争について語り合う会を毎月開いている。
求められて、大学などで体験を語ることもある。
今年7月末には東京都内で地域の小学生らを前に講演。
手書きのイラストなどを用意してわかりやすく語った。
「父に話を聞いていれば……」という思いは倉橋も伊東も同じだ。2人だけではない。
総じて戦後世代は、祖父や父が戦場で何をしてきたか、耳を傾けてこなかったのではないか。

筆者の父上丸茂(故人)は憲兵に取り調べを受けたことがある。
1928年、岐阜県生まれの茂は、愛知県の内海普通海員養成所を経て、海軍徴用の輸送船「日鵬丸」に乗り組んだ。
44年7月、オホーツク海を航行中、米潜水艦の魚雷を受け船は沈没。
10人ほどの他の船員と漂流中、ソ連船に救助され、カムチャツカ半島へ。
9月ごろ、北洋漁業の日本漁船に乗って帰国したが、軍機保護法違反の疑いか、函館の憲兵隊で調べを受け、
青森県大湊の海軍刑務所に敗戦直前まで入れられていた。
以上は防衛省防衛研究所図書館や外務省外交史料館の一次史料でほぼ確かめられたが、司法関係の資料は
見つかっていない。
「もっと聞いておけば」の思い、やはりやみがたい。
(上丸洋一)
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ニッポン人脈記 語り継ぐ戦場(6)先輩の記憶 学生に重み

「俘虜記」「野火」「レイテ戦記」ー-アジア・太平洋戦争末期、一歩兵としてフィリピン戦線にあった作家大岡昇平の
代表作だ。
「俘虜記」「野火」では、戦場の兵の行動と心理を、自身の体験に即して冷徹に見すえた。
「レイテ戦記」では内外の資料を駆使して、レイテ戦の「大きな動きの原因」を客観的に追求した。
その終わり近く、大岡はこうつづる。
「戦いの結果、一番ひどい目に会ったのはレイテ島の住民だった」
こうした認識に立つ戦記はまれだ。
ただ、これらの作品で大岡は、フィリピンの個々の民衆がどんな目にあったか、具体的にはほとんど描いていない。
フィリピン戦の死者は、日米の将兵だけではなかった。

神直子(32)が初めてフィリピンを訪れたのは、2000年の2月だった。
当時、青山学院大4年生。戦争の傷跡を学ぶゼミの体験ツアーに参加し、3週間、同地を歩いた。
70人ほどの集会で、1人の女性が立ち上がった。
「日本人なんか見たくなかったのに、何であんたたちはフィリピンに来たんだい!」
結婚してまだまもないころ、夫が日本軍に連行されて殺された、遺体はまだ見つかっていないー。
泣きながら女性は訴えた。
名はバーバラ・ベダッドといった。
03年、神は新潟県で、ある住職からこんな話を聞いた。
戦中の残虐行為を悔い、老人ホームで亡くなる直前までうわごとのように嘆き続けた人がいた、と。
フィリピンで日本で、戦争の傷に苦しみ続ける人がいることを神は知った。
日本の元兵士の声をフィリピンに、被害者の声を日本に伝えよう。
「ブリッジ・フォー・ピース」(BFP)の活動が04年から始まった。
会員は現在約60人。
これまでに元日本兵90人とフィリピンの戦争被害者70人から体験を聞き取り、その映像を日本とフィリピンで上映して
きた。
今年1月、NPO法人になった。
10月13日、神は聖心女子大(東京)で1年生四百数十人を前に講演した。
持参の証言ビデオが映し出された。
元日本兵「強盗、強姦、殺人、放火、全部自分が犯した。罪の意識はある。しかし、謝罪のすべを知らない」。
フィリピン男性「母は2人の娘と夫を殺された。戦争は人間を狂わせる」。
そうした証言が繰り返し登場する画面を、学生たちは真剣な表情で見つめた。
「心がいたかった」
学生の一人は感想文にそう書いた。
神は今秋、カナダ・トロントを訪れ、歴史認識問題に取り組む各国のNGOなどと交流してきた。
神は言う。
「日本人は戦争を反省していないという見方が海外には根強くあります。戦争中、日本軍が何をしたか、常識として
知っているようにならないと、日本人はこれからの国際社会で生きていけないのではないでしょうか」

神と同様に、中央大教授、松野良一(54)のゼミ生も在学中に「戦争」にふれた。
大学の先輩に戦争体験を聞こうと、ゼミ生が古い卒業生名簿などを繰り始めたのは07年のこと。
200人に手紙を出し、消息を尋ねた。
122人が特攻で戦死していることがわかった。
自分たちと同じような年格好だった。
その後、昨年までに3期約50人の学生がOBからの聞き取りにあたった。
大学の後輩なら……と応じてくれたOBが大勢いた。
家族に知られたくない、と自宅で会うのを嫌がったOBもいた。
喫茶店で会うと、80代の老人が、語るほどに感極まり、人目もはばからず、泣いた。
OBら33人の証言が8、10月、2冊の単行本にまとまった。
題して「戦争を生きた先輩たち」(Ⅰ、Ⅱ。中央大学出版部)。
松野は語る。
「聞き取りをするまで戦争は学生たちに関係のないものでした。ところが、先輩が涙を流して体験を語るのを目の
当たりにして、正面から戦争に向き合わざるを得なくなった。みんな一段、成長しました」
(上丸洋一)

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