ニッポン人脈記 語り継ぐ戦場(7)(8)(9)(10)/朝日新聞

2010-11-30 12:48:37 | 社会
語り継ぐ戦場(7)元捕虜へ終わらぬ謝罪

10月初め、神奈川県藤沢市の喫茶店で、英国から来日したシヤーウィン裕子(74)は、97歳の
元陸軍軍曹、絵鳩毅と向き合った。
絵鳩は戦後6年間を中国・撫順の戦犯管理所ですごし、帰国後は中国帰還者連絡会の会員と
して証言活動をしてきた。
1945年6月、絵鳩は山東省の村で、初年兵30人の訓練にあたった。
生きた捕虜を標的にする刺突訓練だ。
中国人捕虜4人が部隊に割り当てられた。
「私はただの農民です。殺さないで下さい」
捕虜は口々に言った。なかに1人、15~16歳の少年がいた。
「家族は母親だけです。私の帰りを待っています」
少年は絵鳩の足にすがりつき泣いて訴えた。
絵鳩は心が痛んだ。しかし……。
4人は柱に縛られた。
絵鳩は、4列縦隊の先頭4人に「出発!」と号令をかけた。
兵たちが匍匐前進で捕虜に近づく。
絵鳩の上官の「突っ込め!」の号令で兵は短剣を抜き、半狂乱となって突進した。
「恐ろしい光景でした。上官の命令だと言い訳しても、捕虜からみれば僕は命令者です。過ちを
繰り返さぬため、自分の犯した罪を語り続けるのは、戦場から帰った者の義務です」
シャーウィンは2時間以上にわたって絵鳩の話に耳を傾けた。
9月下旬から2週間余りの日本滞在で、元特攻隊員ら16人に話を聞いた。
「欧米人は、日本人が一人ひとり違うことがよくわかっていません。日本にも戦争で苦しんだ人が
いることを本に書いて、欧米に伝えたいのです」

シヤーウィンは名古屋出身。
東京女子大を卒業後、60年に渡米、ハーバード大などで文学、歴史学を学んだ。
米国で結婚。91年にスイスに移り、99年から英国南部バース近郊に住む。
「英国に来て、日本人に対する人々の態度が、どこか冷ややかなことに気づきました」
その背景に、戦中、日本軍の捕虜となった6万人近くの英兵が、激しい虐待を受け、ときに死に追い
やられた歴史の記憶があった。
元捕虜の父をもつ近所の家族と知り合ってわかった。
その後、シャーウィンは英国各地に元捕虜を訪ね歩く。
その1人にエリック・ロマックス(91)がいた。
42~43年、日本軍はタイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬鉄道を建設した。
過酷な労働、栄養失調、病気などで連合軍捕虜と、アジア各地から動員された労働者が多数
死亡した。
タイ西部の現場で働いたロマックスは、同僚がラジオを作るのを手伝ったことなどが発覚、日本軍から
拷問を受けた。
仲間2人が殴られて死んだ。

そのロマックスに会うため、盛岡市に住む駒井修(73)が英国を訪れたのは2007年6月だった。
駒井の父光男は1943年、陸軍少尉としてタイに渡り、捕虜収容所の副所長を務めた。
戦後46年3月、駒井は母に部屋に呼ばれた。
自分と姉を前に、母の兄が何事か告げようとしたとき、「やめて!」と母が泣きながら止めた。
父が戦犯として処刑されたことは高校卒業後、教師に教えられた。
しかし、父が何をしたのかは分からなかった。
父の戦友会に何度か出た。
「みなさんは、知っていることを私に教える義務があるのではないですか」
戦友たちは黙った。
99年、英国の戦犯裁判資料を目にした。
父がロマックスらを虐待して重傷を負わせ、捕虜2人を殴打し死なせた、と判決にあった。
謝罪に訪れた駒井に向かってロマックスが語った。
「私は裁判であなたの父親を指して『こいつにやられた、死刑にしろ』と言ったんだ。その息子が
わびに来るなんて……」
ロマックスも苦しんでいたことを駒井は知った。
「父に代わって心から謝罪いたします」
駒井の言葉をロマックスは黙って受けとめた。
やがて緊張が和らぎ、ロマックスが言った。
「ホテルにもう1泊、していかないか」
(上丸洋一)

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語り継ぐ戦場(8)平頂山の傷 胸に刻んで

「写真を撮るから集まれ。日本軍にそう言われて、たくさんの村人が、がけの下の現場に
集まりました。黒い布が取り払われて、下から出てきたのはカメラではなく、機関銃でした」
85歳の中国人女性、楊玉芬が10月2日、東京・月島のホールで「平頂山事件」について
証言した。
1932年9月16日午前、旧満州(中国東北部)・撫順の平頂山地区で、日本軍は、3千人とも
いわれる多数の住民を虐殺した。
日本が管理する撫順炭鉱が抗日ゲリラに襲撃されたことに対する報復だった。
火を噴く機関銃。人々は悲鳴をあげながら逃げまどい、折り重なって倒れた。
楊の家族は父母と妹の4人だった。楊は父の、妹は母の体の下に隠れて無事だった。
父も幸いけがですんだが、母は二度と立ち上がらなかった。

230人を集めたホールの客席に、平頂山事件を研究してきた高尾翠(73)の姿があった。
高尾は、日中戦争が全面化した37年、満州の吉林省に生まれた。
父は南満州鉄道(満鉄)の職員で撫順駅に勤務。39年に山東省の済南に移った。
高尾が6歳のころだった。
自分と同じ年格好の女の子が、生まれたての赤ん坊を抱いて道端で物ごいをしていた。
高尾の母が何か話しかけると、女の子が言った。
「この子が死にそうだ。何かくれ」
母が小銭を渡した。
なぜ日本人は豊かで、中国人は貧しいのか。疑問に思って高尾は父に尋ねた。
父が言った。「日本は一等国、中国は四等国だからだ」
同じころ、こんなこともあった。大通りに面してごま油をしぼる作業所があった。
自分と同じ年頃の女の子が、ひどくせき込みながら背中を丸めて作業をしていた。
その顔を高尾は2、3メートル離れたところからのぞき込むように見た。
その瞬間、近くにいた女が険しい顔つきで高尾にツバをはきかけた。
母親らしかった。
こっちを見るな!そう言いたいようだった。
監督の男が女をむち打った。
いま、高尾は言う。
「あの母親は、私のような小さい子どもが娘をばかにしたと思って腹を立てたのでしょう。
確かに私を含めて日本人は中国人をばかにしていました。私はあの女性の刺すようなまなざしが
忘れられません。この記憶を大切にしたいと思っています」
戦後46年に日本に帰った高尾は、中学を卒業した後、福岡県久留米市にある久留米大学
病院に勤務する。
看護師の仕事をしながら定時制高校を卒業。
93年に慶大文学部の通信課程に入った。
自分が生まれた満州とは何だったのか。働きながら学び、論文にまとめたいと考えた。
2000年、中国を旅行し、平頂山事件の記念館を見た。
現場跡に横たわるおびただしい数の人骨。
家族なのだろう、子どもの骨に覆いかぶさるように母の骨、父の骨があった。
平頂山事件を卒論のテーマに決めた。
しかし、資料も先行研究もほとんどなかった。

東京地裁では96年から、平頂山事件の被害者3人が日本政府に損害賠償を求めて起こした
裁判が続いていた。
それを知った高尾は、年に4、5回開かれる口頭弁論を、2000年秋から毎回、傍聴した。
朝一番の飛行機に乗ると、開廷に間に合った。
被害者本人の証言などが研究上の何よりの資料となった。
05年、高尾は論文を書き上げた。
さらに加筆、再構成した論文が「天皇の軍隊と平頂山事件」(新日本出版社)のタイトルで公刊された。
一方、裁判は東京地裁、高裁とも敗訴。最高裁は06年、上告を棄却した。
しかし、弁護団はその後も日本政府の謝罪を求めて証言集会などを続けている。
10月の集会で体験を語った楊は、元中国帰還者連絡会事務局長の高橋哲郎(89)と握手した。
降壇した楊が筆者に言った。
「夜、眠れないときなど、あの日の光景が鮮明に蘇ってきます」
事件から78年。傷はなお癒えない。
(上丸洋一)
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語り継ぐ戦場(9)「わだつみ」 若者に届け

中学生の部0▽高校・予備校生の部1▽大学・大学院・専門学校生の部2▽一般の部17
戦没学生の遺稿集「きけわだつみのこえ」を編集した日本戦没学生記念会(わだつみ会)は昨年、
刊行60周年を記念して感想文を募集した。
その応募数が上の数字だ。
若い世代の応募は3編にとどまった。
「きけー」は初め、東大協同組合出版部から1949年に刊行された。
朝鮮戦争や再軍備に揺れた50年代には高校生、大学生がわだつみ会の活動を担った。
しかし、戦没学生をしのぶ立命館大のわだつみ像が69年、全共闘学生によって壊されたのを機に、
戦中派会員と学生会員の断絶が顕在化。
学生は会を離れていった。
その後、「きけー」は82年に岩波文庫に入り、88年には「第2集」も同文庫で読めるようになった。
発行部数は、第1集46万、第2集16万(岩波書店調べ)。
戦没学生の遺書、遺品の現物を展示するわだつみのこえ記念館も4年前、東京・本郷にオープンして
いる。
記念館の常務理事渡辺総子(74)は言う。
「『きけー』をどう若者に伝えていくかが課題です。中学、高校の先生とのつながりを強めていきたい」

〈明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で
一杯です〉
「きけー」の巻頭におかれた遺書の一節だ。
書いたのは上原良司。43年に慶大経済学部に進んだが、学徒出陣で陸軍へ。
45年5月11日、沖縄・嘉手納湾上の米機動部隊に搭乗機もろとも突っ込み、戦死した。22歳だった。
自宅の机の引き出しに羽仁五郎著「クロォチェ」が残されていた。
上原が○印をつけた文字をたどると、恋する女性への手紙が浮かび上がった。
〈きょうこちゃんさような ら僕はきみがすきだった〉
上原は、長野県松本市の旧制松本中学出身。今の松本深志高校だ。
11月4日、同校で1年生360人を対象に、人権教育の一環として、上原と特攻隊などをテーマとする
講演会が開かれた。
人生を無残に断ち切る戦争は、最大の人権侵害だという考えに立っての授業だ。
講師は、各地の戦跡を撮り歩いてきたカメラマン安島太佳由(51)。
聴講する生徒は94年、95年の生まれだ。
車いすに座った上原の妹、上原清子(84)が最前列で話を聴いた。

「私は、95年から各地の戦跡を取材してきました。鹿児島県知覧などの特攻基地跡を訪ねる中で、
特攻隊に関心をもつようになったのです」
パワーポイントで上原良司の若き日の写真などを紹介しながら、安島が語った。
安島が最初に戦跡にふれたのは94年、鹿児島県トカラ列島の悪石島に渡ったときだ。
戦争中、米潜水艦に沈められた学童疎開船「対馬丸」の慰霊碑があった。
この離島にも戦争の跡が……と驚いた。
10年かけて全都道府県の戦跡を回った。
その後、安島はガダルカナル、ニューギニア、マリアナ諸島、フィリピンなど激戦のあった太平洋の島々を
歩き、戦場体験者から話を聞いてきた。
今後は韓国、中国などアジアの戦跡取材を予定している。
講演で安島は太平洋の島々の戦跡も紹介した。
黒くさびた戦車の残骸。弾丸に射抜かれた水筒、そして元兵士の遺骨。
「現場を見ると、戦争の恐ろしさがよくわかる。南の島にはたくさんの日本兵の遺骨が眠っています。
戦争から何を学ぶか、よく考えてみて下さい」
安島の講演のあと、上原清子が生徒たちに語った。
「みなさんに平和の尊さを考えてもらえたら、こんなにうれしいことはありません」

仏文学者の渡辺一夫は最初の「きけわだつみのこえ」に寄せた序文に、詩人ジャン・タルデューの詩を
訳出した。
なかに次の一節がある。
かえ
〈死んだ人々は、還ってこない以上、生き残った人々は、何が判ればいい?〉

戦場を知る世代は、やがていなくなる。問いの意味はいよいよ重い。
(上丸洋一)

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語り継ぐ戦場(10)無言の声、未来へつなぐ

詩人石川逸子(77)と東京の千鳥ケ淵戦没者墓苑を歩いた。
靖国神社にほど近いこの墓苑には、政府が海外で収拾したアジア・太平洋戦争の戦没者の遺骨のうち、
引き取り手のない約36万柱が納められている。
石川がぽつりと言った。
「語れない者たちの言葉が、いちばん強い言葉なのかもしれませんね」
都内の中学教師をしていた石川は1976年、修学旅行の引率で広島を訪れ、原爆で子を亡くした遺族らの話を聞いた。自分と同じ年頃の女生徒が大勢死んでいた。
被爆証言を集めて82年にミニ通信「ヒロシマナガサキを考える」を発刊した。
翌年、石川は、広島在住の朝鮮人被爆者がこう語るのを聞いた。
原爆の被害を言うなら、よその国の人間が日本軍に殺された痛みをなぜ知らないのか。
その言葉が侵略の歴史に目を向ける契機となった。
ミニ通信で紹介するため、石川が初めて千鳥ケ淵の墓苑を訪れたのは85年2月だった。
石川は思った。
ここに眠る32万1632柱(当時)の遺骨が、死んだときのボロボロの姿のまま、地上によみがえって行進すれば、そして、
そのあとを日本軍の犠牲となったアジアの人々が続けば、人々はもう二度と戦争などしなくなるだろうに。

その年の8月15日、首相中曽根康弘(92)は靖国神社を初めて公式参拝した。
石川は、日本の、アジアの戦争の死者たちの無言の声を詩の言葉に紡いで、詩集「定本千鳥ケ淵へ行きましたか」
(影書房)などに結実させてきた。
「これからの世代に戦争が伝わるかどうかはわかりません。けれど、伝える材料は残しておきたいのです」
石川が「息をこらして読んだ」歌集がある。
渡部良三の「小さな抵抗」だ。
渡部は44年、中国・河北省の戦線で、生きている捕虜5人を銃剣で刺し殺す訓練を拒否した。
歌集はその折の心境や戦場の現実を鋭くえぐり出す。

〈纏足の女(おみな)は捕虜のいのち乞えり
母こなるらし地にひれふして〉
〈鳴りとよむ大いなる者の声きこゆ
「虐殺こばめ生命を賭けよ」〉

キリスト者の渡部は「大いなる者の声」を聞き、命令を拒んだ。
すさまじいリンチ。

〈血を吐くも呑むもならざり
殴られて口に溜るを耐えて直立不動〉

渡部はこれらの短歌をありあわせの紙片に記し、軍服に縫い込めて46年に持ち帰った。
歌集が出たのは94年。渡部は2001年に書いたエッセー「砂礫の記憶」(「神奈川大学評論」39号)で、こう述べた。
「あの時……銃剣を大地に叩きつけ、ましぐらに走り、刑台に縛されている捕虜の前に双手を広げて殺すなと叫び、
立ち塞がるべきであったのだ」
虐殺命令を拒否してなお、渡部は、心に深い悔恨を刻んでいた。
渡部に会いたいと思い、10月に手紙を出した。
ほどなく届いた返事には「年齢も満88才と8か月」であり、一昨年秋に「胆のう炎をわずらい全摘オペ(手術)」を受けた、
「御容赦を」と書かれていた。

先の戦争の記憶は、いつまで語り継がれるだろうか。
取材しながら、考えた。
それはおそらく、次の戦争が始まるまでだろう。
次の戦争が始まれば、昔の戦争はたちまち忘却される。
次の戦争を始めないために、私たちは記憶を未来に生き延びさせねばならない。

石川は「1995・千鳥ケ淵で」と題する詩に、こうつづる。

〈半世紀前に殺されものいわない白骨となった/数えきれないほどの人々のなかから/せめて/一人の少女の/
一人の少年の/面影を/そっと胸のなかに蔵(しま)いましょう〉

(このシリーズは編集委員・上丸洋一が担当しました)


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