魯迅「『フェアプレイ』はまだ早い」打落水狗

2013-05-27 09:43:19 | 社会
もし犬と奮戦して、みずから水中に打ち落としたのであれば、たとい落ちた後から竹竿でめった打ちにしようとも、決して非道ではない。

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話にきくと、勇敢な拳闘士は、すでに地に倒れた敵には決して手を加えぬそうである。
これはまことに吾人の模範とすべきことである。
ただし、それにはもうひとつ条件がいる、と私は思う。
すなわち、敵もまた勇敢な闘士であること、一敗した後は、みずから恥じ悔いて、再び手向かいしないか、あるいは堂々と復讐に立ち向かってくること。
これなら、むろんどちらでも悪くない。
しかるに犬は、この例を当てはめて、対等の敵と見なすことができない。
何となれば、犬は、いかに狂い吠えようとも、実際は「道義」などを絶対に解さぬのだから。
まして、犬は泳ぎができる。
かならず岸へはい上がって、油断していると、まずからだをブルブルッと振って、しずくを人のからだといわず顔といわず一面にはねかけ、しっぽを巻いて逃げ去るにちがいないのである。
しかも、その後になっても、性情は依然として変わらない。
愚直な人は、犬が水へ落ちたのを見て、洗礼を受けたものと認め、きっと懺悔するだろう、もう出てきて人に咬みつくことはあるまいと思うのはとんでもないまちがいである。

要するに、もし人を咬む犬なら、たとい岸にいようとも、あるいは水中にいようとも、すべて打つべき部類だと私は考える

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仁人たちは問うかもしれない。
では結局、われわれには「フェアプレイ」は一切無用なのか、と。
私はただちに答えよう。
もちろん必要だ。
だが時期が早すぎる、と。
これすなわち「言い出しっぺ」論法である。
仁人たちはこの論法を採用したがらないかもしれないが、私のほうが筋が通っている。
というのは、国産型紳士あるいは西洋型紳士たちは、中国には中国の事情があるから、外国の平等や、自由や、等々のものは中国には適用できぬと、口ぐせのように言っているではないか。
この「フェアプレイ」もそのひとつだと私は思う。
そうでないとすると、相手がきみに「フェア」でないのに、きみが相手に「フェア」にふるまう結果、自分だけがバカを見てしまって、これでは「フェア」をのぞんで「フェア」に失敗しただけでなく、かりに不「フェア」をのぞんだとしても不「フェア」に失敗したことになる。
それゆえ「フェア」をのぞむならば、まず相手をよく見て、もし「フェア」を受ける資格のないものであれば、思い切って遠慮せぬほうがよろしい。
相手も「フェア」になってから、はじめて「フェア」を問題にしてもおそくはない。
 これはすこぶる二重道徳を主張するきらいはあるが、やむを得ない。
そうでもしなければ、中国には多少ともましな道がなくなってしまうからだ。
中国には、今でもたくさんの二重道徳がある。主人と奴隷にしても、男と女にしても、道徳がみなちがっていて、統一されてはいない。
もし「水に落ちた犬」と「水に落ちた人」だけを一視同仁にあつかったとしたら、それはあまりに偏した、あまりに早い処置であること、あたかも紳士たちのいわゆる、自由平等は悪いわけではないが、中国では早すぎるというのと同様である。
それゆえ、「フェアプレイ」の精神をあまねく施行したいと思う人は、少なくとも前に述べた「水に落ちた犬」が人間の気を帯びるまで待つべきだと私は考える。
むろん、今でも絶対におこなってならない、というのではない。
要するに、前に述べたように、相手を見きわめる必要があるのだ。
のみならず、区別をつける必要があるのだ。
「フェア」は相手次第で施す。
どうして水に落ちたにしろ、相手が人ならば助けるし、犬なら放っておくし、悪い犬ならば打つ。
一言にしていえば「党同伐異」あるのみだ。
 心はどこまでも「婆理(ボーリー)」、口はどこまでも「公理(コンリー)」の紳士諸君の卓論はここでは問題外として、誠実な人がよく口にする公理についてみても、それは今日の中国で、けっして善人を助けることにならず、かえって悪人を保護する結果になる。
なぜなら、悪人が志を得て、善人を虐待するときは、たとい公理を叫ぶ人があろうとも、彼は絶対に耳に入れない。
叫びはただ叫びにおわって、善人は依然として苦しめられる。
ところが、なにかの拍子に善人が頭をもたげた場合には、悪人は本来なら水に落ちなければならぬのだが、そのとき、誠実な公理論者は「報復するな」とか「仁恕」とか「悪をもって悪に抗する勿れ」とか……をわめき出す。
すると、この時ばかりは単なる叫びでなくて、実際の効果があらわれる。
善人は、なるほどそうだと思い、そのため悪人は救われる。
だが救われた後は、してやったりと思うだけで、悔悟などするものでない。
のみならず、兎のように三つも穴を準備してあるし、人に取り入ることも得意だから、間もなく勢力を盛り返して、前と同様に悪事をはじめる。
そのときになって公理論者はもちろん再び大声疾呼するであろうが、今度は耳を貸すものでない。

 もっとも「悪を疾(にく)むこと太(はなは)だ厳」にして「之を操(と)ること急に過ぐ」るのこそ、漢の清流と明の東林とが失敗した原因だといって、批評家はよく非難を浴びせるが、そのくせ、相手のほうが「善人を疾むこと仇のごと」くであったことを忘れているのだ。
もしこれからも光明と暗黒とが徹底的にたたかうことをせず、実直な人が、悪を見のがすのを寛容と思い誤って、いい加減な態度をつづけてゆくならば、今日のような混沌状態は永久につづくだろう。

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誠実な人がよく口にする公理についてみても、それは今日の中国で、けっして善人を助けることにならず、かえって悪人を保護する結果になる。
なぜなら、悪人が志を得て、善人を虐待するときは、たとい公理を叫ぶ人があろうとも、彼は絶対に耳に入れない。
叫びはただ叫びにおわって、善人は依然として苦しめられる。
ところが、なにかの拍子に善人が頭をもたげた場合には、悪人は本来なら水に落ちなければならぬのだが、そのとき、誠実な公理論者は「報復するな」とか「仁恕」とか「悪をもって悪に抗する勿れ」とか……をわめき出す。
すると、この時ばかりは単なる叫びでなくて、実際の効果があらわれる。
善人は、なるほどそうだと思い、そのため悪人は救われる。
だが救われた後は、してやったりと思うだけで、悔悟などするものでない。
のみならず、兎のように三つも穴を準備してあるし、人に取り入ることも得意だから、間もなく勢力を盛り返して、前と同様に悪事をはじめる。
そのときになって公理論者はもちろん再び大声疾呼するであろうが、今度は耳を貸すものでない。


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それゆえ「フェア」をのぞむならば、まず相手をよく見て、もし「フェア」を受ける資格のないものであれば、思い切って遠慮せぬほうがよろしい。
相手も「フェア」になってから、はじめて「フェア」を問題にしてもおそくはない

    魯迅(竹内好訳)「『フェアプレイ』はまだ早い」

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東京新聞・筆洗
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2013052602000137.html

ありえない比喩による論理のすり替え、相手に考える間を与えないテクニック…。『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術』という本に書かれている駆け引きの実践例だ
▼日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長が十年前に書いたこの本を読むと、弁護士として磨いた交渉術を今も活用していることが分かる。古書店では元値の倍以上の値がつく人気だ
▼自分の発言のおかしさや矛盾に気付いた時は「無益で感情的な論争」をわざと吹っ掛けるとあった。その場を荒らして決めぜりふ。「こんな無益な議論はもうやめましょうよ。こんなことやってても先に進みませんから」
▼橋下さんはきのう出演したテレビ番組で、在日米軍に風俗業の活用を求めた発言について、米軍と米国民に謝罪、発言を撤回する意向を示した。発言撤回に言及したのは初めてだ
▼言い負かせば勝ち、という価値観も国内外からの批判に揺らいだとみえる。「(従軍慰安婦が)必要だったのは誰だって分かる」との発言を「その時代の人たちが必要と思っていたと述べた」とすり替え「日本人の読解力」やメディアに責任転嫁した。これらの発言も撤回すべきだろう
▼弁護士時代のように、感情的な議論を吹っ掛け、「無益な議論はやめましょう」とはごまかせない。すべて自らがまいた種だ。頼みにする「ふわっとした民意」が逃げてゆく。

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東京新聞にも言っておこう
『フェアプレイ』はまだ早い


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