2011年11月11日、ニューヨークを中心に世界で活躍するダンサー、演出家である上野隆博さんのダンスパフォーマンスとお話を拝聴する機会がありました。
Showtime at the APOLLO TAKAHIRO DANCE
僕はダンスのことは全く分かりませんが、素人目に見ても観客の度肝を抜く、素晴らしいパフォーマンスでした。胸骨や肩甲骨周りの驚くべき柔軟な動きもさることながら、全身を躍動させつつ、それでいて体軸はまるで宇宙から地球の中心に向かって一本の線が通っているのではないかと思われるほど、真っ直ぐにキープされています。シアトルマリナーズのイチロー選手のバッティングや、中国拳法の一派である太気拳の動きに似たものを感じました。もし、上野さんが空手か剣術をされていたら、恐らく相手は打っても上野さんがいない、あるいは気づかないうちに間合いに入られているというようなことになるでしょう。
さて、ご講演ではダンサーになったきっかけから、世界の第一線で活躍するようになるまでの経緯、そしてこれからの展望についてお話いただきました。全く知らない分野のことでも、本物のお話は、聴く者の魂を揺さぶります。本当に時間を経つのを忘れるほど、のめり込んでしまいました。以下では、自分なりにまとめたメモを頼りに、ご講演の内容についてご紹介したいと思います。
1.ダンスを始めたきっかけと渡米まで
上野さんは1981年生まれ。ダンスを始められたのは18歳と意外にも遅く、その動機は学校でも目立たない存在であるというコンプレックスの克服と、自分の力で何かを創造したいという強い思いにあったそうです。その結果、選択したのがたまたま当時「格好いい」と思ったダンスだったとのこと。大学在学中の4年間はダンスにあけくれ、自分なりにオリジナルのスタイルを確立していました。大学卒業を迎え、周囲のダンス仲間が次々と就職を選択していく中、上野さんは打ち込んだダンスを何の結果を残すこともなく手放すことに抵抗を感じ、ダンスの本場であるアメリカへ渡ることを決意されました。
2.アメリカの壁から学んだこと
2004年、ニューヨークに渡られた上野さんは、マイケル・ジャクソンやジェームス・ブラウンを生んだエンターテイメントの殿堂、アポロシアターのオーディションに挑戦します。1,000人中、合格できるのは300人程度、しかも本場の黒人達に混じり、唯一言葉も文化も違うアジア人としての挑戦でした。自分のオリジナリティにはある程度自信をもたれていた上野さんでしたが、初めて受けたオーディションの結果は惨めなもので、4人いた審査委任のうち3人から「君のダンスはHIPHOPではない」と酷評されたそうです。ただ一人の審査員だけが「HIPHOPではないかもしれないが、彼のダンスは面白い」と評価してくれ、ギリギリの選出であったようです。
しかし、この結果を「3人の審査員から否定された」ととらず、「少なくとも1人の審査員は分かってくれた」と受け止めたところが、上野さんの常人ならざるところ。本場で壁に突き当たり学んだことは、「自分のダンスは自分の思いを伝えようとするばかりで、相手を見ていなかった」ということでした。そのことを悟った上野さんは、ニューヨークのハーレムに居を移し、彼らのHIPHOPを吸収しようと努力されました。しかし、それでも自分は彼らと同じにはなれないということに気づいたそうです。
3.エンターテイメントは心のやりとり
黒人ダンサーの真似をしたところで、所詮それは真似に過ぎません。かといって、オリジナルだけでも駄目。上野さんが導き出した結論は、「同じにはなれないかもしれないが、共通項はあるはず。大切なのは、どうすれば相手に想いを伝えられるか、オリジナルを受け入れてもらうことができるか。それには表面的なテクニックだけでなく、相手の心理面も考慮しなければならない」ということでした。
具体的には、テクニックを見せるだけでなく、相手の心をつかむ仕掛けをパフォーマンスの中に織り込んでいくということです。例えば、冒頭の動画の例でご説明します。まず前提としてあるのは、アポロシアターにおいて上野さんは知名度の低い日本人、要するに「よそ者」であるということです。冒頭、日本人らしく空手のような動きから入ります(かつてシンクロナイズドスイミングでもイントロを平安二段という空手の型から入ったパターンがありました)。しかし、今時オリエンタリズムだけでウケるほど甘くはありません。そこで、最初は観客の好きなHIPHOPの曲を使い、かつムーンウォークなど、観客が慣れ親しんだダンスで一体感を演出します。それでいながら、ムーンウォークも多少アレンジして退屈させないようになっています。そして徐々にオリジナルの要素を増やし、自分らしさ、日本人らしさをアピールしていきます。
やがて、スーパー・マリオ・ブラザーズの曲になりますが、これにも意味があります。ニンテンドーは彼らにとっても馴染みのあるもの。しかしそれは、日本のオリジナルであり、あくまで日本のイニシアチブによってアメリカ人と共有できるものであるということを示しているのです。
マリオによって観客を自分のペースに巻き込む。そうした下地を作った上で、最後は自分の好きなように演技し、ラストを一礼で終わります。礼で終えたことの意味は、もうお気づきと思いますが、日本人であるということが第一、それに礼を入れることによって、観客が拍手し盛り上がる余韻の間を入れるという意図がありました。この「間」の呼吸というのも日本人らしいところでありますが…
以上のように、オリジナリティに磨きをかけつつ、観客に阿ね、同化しようというのではなく、異質であることを受け入れてもらう工夫をすること、相手にいかに喜んでもらうかというエンターテイメントの原点に立ち返ることによって、上野さんは2005年、「Showtime at the APOLLO」で1位を獲得、その後9週連続1位という金字塔を打ち立てました。
4.当たり前を当たり前にはできないほど徹底する
アポロシアターで実績をつくり、上野さんはプロ・ダンサーとしての道を歩み始めますが、ここでまた壁にぶつかります。それは英語がまだ十分には話せなかったこともありますが、ダンスが我流であったため、個人の枠を超えて活動するようになった時、オリジナルだけでは通用しなかったためです。そこで上野さんは、3年間、バレエやダンスを基礎から学び直しました。日本では能の世界の言葉に「守・破・離」というものがありますが、同じように真にオリジナルを輝かせるには、やはり強固な基礎を持っていなければならないということなのでしょう。
そうした困難の克服を経て、2009年、上野さんはマドンナのバックダンサーとして世界ツアーに参加します。上野さんがマドンナから学んだことは、「ベスト・パフォーマンス=ベスト・リハーサル」、つまり完璧な結果を残すために、当たり前と思える準備を誰にもできないほど徹底してやり抜くということだそうです。そして、世界に活躍の場が広がれば広がるほど、自分が日本人であることを意識し、周囲とは違う存在であることを意識せざるを得なかったといいます。これはイチロー選手も同じ事をいっていました。しかし、違うことを意識するからこそ、日本人として、また一個人としてのアイデンティティにこだわり、それを受け入れてもらえるように努力ができる。また、違うことを認識するというは、それゆえに相手に対する敬意も払えるということでもあります。
5.これからの夢
強烈な個性で世界と対峙し、Newsweek誌で「世界が尊敬する日本人」にも選ばれた上野さんですが、30歳を迎えられた今、ダンスを通じてさらに世界を広げて行きたい、そしてやがては後に続く後輩達が自分を超えていけるよう、常に退路を絶って先鞭をつけて行きたいとおっしゃっていました。経済産業省の「Cool Japan Project」にも参加されている上野さんですが、こちらから日本のエンターテイメントやアイデンティティを発信するだけでなく、世界の目をこちらに向けさせたいと夢を語っておられました。
ご講演が終わり、魂を揺さぶられた聴衆の拍手は感動の波動となって会場を包み込んだように感じました。終了後、皆さんが「会場が暑い」と口々に言っておられましたが、この高揚感がその原因だったのではないかと思います。
翻って、日々の生活の中で、自分が自分であることにどこまで徹底できているでしょうか?
「もっとやれるはずである」、そう決意を新たにした次第です。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
ブログをご覧いただいたすべての皆様に感謝を込めて。
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Showtime at the APOLLO TAKAHIRO DANCE
僕はダンスのことは全く分かりませんが、素人目に見ても観客の度肝を抜く、素晴らしいパフォーマンスでした。胸骨や肩甲骨周りの驚くべき柔軟な動きもさることながら、全身を躍動させつつ、それでいて体軸はまるで宇宙から地球の中心に向かって一本の線が通っているのではないかと思われるほど、真っ直ぐにキープされています。シアトルマリナーズのイチロー選手のバッティングや、中国拳法の一派である太気拳の動きに似たものを感じました。もし、上野さんが空手か剣術をされていたら、恐らく相手は打っても上野さんがいない、あるいは気づかないうちに間合いに入られているというようなことになるでしょう。
さて、ご講演ではダンサーになったきっかけから、世界の第一線で活躍するようになるまでの経緯、そしてこれからの展望についてお話いただきました。全く知らない分野のことでも、本物のお話は、聴く者の魂を揺さぶります。本当に時間を経つのを忘れるほど、のめり込んでしまいました。以下では、自分なりにまとめたメモを頼りに、ご講演の内容についてご紹介したいと思います。
1.ダンスを始めたきっかけと渡米まで
上野さんは1981年生まれ。ダンスを始められたのは18歳と意外にも遅く、その動機は学校でも目立たない存在であるというコンプレックスの克服と、自分の力で何かを創造したいという強い思いにあったそうです。その結果、選択したのがたまたま当時「格好いい」と思ったダンスだったとのこと。大学在学中の4年間はダンスにあけくれ、自分なりにオリジナルのスタイルを確立していました。大学卒業を迎え、周囲のダンス仲間が次々と就職を選択していく中、上野さんは打ち込んだダンスを何の結果を残すこともなく手放すことに抵抗を感じ、ダンスの本場であるアメリカへ渡ることを決意されました。
2.アメリカの壁から学んだこと
2004年、ニューヨークに渡られた上野さんは、マイケル・ジャクソンやジェームス・ブラウンを生んだエンターテイメントの殿堂、アポロシアターのオーディションに挑戦します。1,000人中、合格できるのは300人程度、しかも本場の黒人達に混じり、唯一言葉も文化も違うアジア人としての挑戦でした。自分のオリジナリティにはある程度自信をもたれていた上野さんでしたが、初めて受けたオーディションの結果は惨めなもので、4人いた審査委任のうち3人から「君のダンスはHIPHOPではない」と酷評されたそうです。ただ一人の審査員だけが「HIPHOPではないかもしれないが、彼のダンスは面白い」と評価してくれ、ギリギリの選出であったようです。
しかし、この結果を「3人の審査員から否定された」ととらず、「少なくとも1人の審査員は分かってくれた」と受け止めたところが、上野さんの常人ならざるところ。本場で壁に突き当たり学んだことは、「自分のダンスは自分の思いを伝えようとするばかりで、相手を見ていなかった」ということでした。そのことを悟った上野さんは、ニューヨークのハーレムに居を移し、彼らのHIPHOPを吸収しようと努力されました。しかし、それでも自分は彼らと同じにはなれないということに気づいたそうです。
3.エンターテイメントは心のやりとり
黒人ダンサーの真似をしたところで、所詮それは真似に過ぎません。かといって、オリジナルだけでも駄目。上野さんが導き出した結論は、「同じにはなれないかもしれないが、共通項はあるはず。大切なのは、どうすれば相手に想いを伝えられるか、オリジナルを受け入れてもらうことができるか。それには表面的なテクニックだけでなく、相手の心理面も考慮しなければならない」ということでした。
具体的には、テクニックを見せるだけでなく、相手の心をつかむ仕掛けをパフォーマンスの中に織り込んでいくということです。例えば、冒頭の動画の例でご説明します。まず前提としてあるのは、アポロシアターにおいて上野さんは知名度の低い日本人、要するに「よそ者」であるということです。冒頭、日本人らしく空手のような動きから入ります(かつてシンクロナイズドスイミングでもイントロを平安二段という空手の型から入ったパターンがありました)。しかし、今時オリエンタリズムだけでウケるほど甘くはありません。そこで、最初は観客の好きなHIPHOPの曲を使い、かつムーンウォークなど、観客が慣れ親しんだダンスで一体感を演出します。それでいながら、ムーンウォークも多少アレンジして退屈させないようになっています。そして徐々にオリジナルの要素を増やし、自分らしさ、日本人らしさをアピールしていきます。
やがて、スーパー・マリオ・ブラザーズの曲になりますが、これにも意味があります。ニンテンドーは彼らにとっても馴染みのあるもの。しかしそれは、日本のオリジナルであり、あくまで日本のイニシアチブによってアメリカ人と共有できるものであるということを示しているのです。
マリオによって観客を自分のペースに巻き込む。そうした下地を作った上で、最後は自分の好きなように演技し、ラストを一礼で終わります。礼で終えたことの意味は、もうお気づきと思いますが、日本人であるということが第一、それに礼を入れることによって、観客が拍手し盛り上がる余韻の間を入れるという意図がありました。この「間」の呼吸というのも日本人らしいところでありますが…
以上のように、オリジナリティに磨きをかけつつ、観客に阿ね、同化しようというのではなく、異質であることを受け入れてもらう工夫をすること、相手にいかに喜んでもらうかというエンターテイメントの原点に立ち返ることによって、上野さんは2005年、「Showtime at the APOLLO」で1位を獲得、その後9週連続1位という金字塔を打ち立てました。
4.当たり前を当たり前にはできないほど徹底する
アポロシアターで実績をつくり、上野さんはプロ・ダンサーとしての道を歩み始めますが、ここでまた壁にぶつかります。それは英語がまだ十分には話せなかったこともありますが、ダンスが我流であったため、個人の枠を超えて活動するようになった時、オリジナルだけでは通用しなかったためです。そこで上野さんは、3年間、バレエやダンスを基礎から学び直しました。日本では能の世界の言葉に「守・破・離」というものがありますが、同じように真にオリジナルを輝かせるには、やはり強固な基礎を持っていなければならないということなのでしょう。
そうした困難の克服を経て、2009年、上野さんはマドンナのバックダンサーとして世界ツアーに参加します。上野さんがマドンナから学んだことは、「ベスト・パフォーマンス=ベスト・リハーサル」、つまり完璧な結果を残すために、当たり前と思える準備を誰にもできないほど徹底してやり抜くということだそうです。そして、世界に活躍の場が広がれば広がるほど、自分が日本人であることを意識し、周囲とは違う存在であることを意識せざるを得なかったといいます。これはイチロー選手も同じ事をいっていました。しかし、違うことを意識するからこそ、日本人として、また一個人としてのアイデンティティにこだわり、それを受け入れてもらえるように努力ができる。また、違うことを認識するというは、それゆえに相手に対する敬意も払えるということでもあります。
5.これからの夢
強烈な個性で世界と対峙し、Newsweek誌で「世界が尊敬する日本人」にも選ばれた上野さんですが、30歳を迎えられた今、ダンスを通じてさらに世界を広げて行きたい、そしてやがては後に続く後輩達が自分を超えていけるよう、常に退路を絶って先鞭をつけて行きたいとおっしゃっていました。経済産業省の「Cool Japan Project」にも参加されている上野さんですが、こちらから日本のエンターテイメントやアイデンティティを発信するだけでなく、世界の目をこちらに向けさせたいと夢を語っておられました。
ご講演が終わり、魂を揺さぶられた聴衆の拍手は感動の波動となって会場を包み込んだように感じました。終了後、皆さんが「会場が暑い」と口々に言っておられましたが、この高揚感がその原因だったのではないかと思います。
翻って、日々の生活の中で、自分が自分であることにどこまで徹底できているでしょうか?
「もっとやれるはずである」、そう決意を新たにした次第です。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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