窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

近江商人博物館(東近江市五個荘)

2024年09月09日 | その他


 9月6日、近江商人について学ぶため、近江商人発祥の地、五個荘にある「近江商人博物館」へ行ってきました。近江商人については、『てんびんの詩』のDVDと漫画、それに『近江商人学入門 改訂版: CSRの源流 三方よし』が分かりやすかったですが、やはり現地に足を運んでビジュアル的に感じたい思いは以前からありました。





 残念ながら館内は撮影禁止だったため、画像はありませんが、見学した展示物に沿って要点をまとめたいと思います。

1.古代

 五個荘は古代から交通の要衝でした。近江は三角縁神獣鏡などが出土するなど、弥生時代、古墳時代より出雲など周辺地域と交易があったことが分かっています。



 古代、五個荘付近は、現在の京都に至る東山道と伊勢に至る東風街道が分岐する位置にあり、地図を見てもまさに東西を結ぶ要衝地であったことが分かります。現在の地図で見ると、より琵琶湖沿岸の土地の方が通りやすそうですが、現在安土城址や八幡山城址があるあたりは、昭和の初めに干拓された土地で、それまでは大中の湖、伊庭内湖、弁天内湖といった琵琶湖の内湖でした。安土城が築かれた安土山と、観音寺城が築かれた繖(きぬがさ)山の間に彦根街道が整備されるのは江戸時代になってからであり、それを考えると、この土地の重要性が分かります。中世、近江守護の佐々木六角氏が観音寺城を居城としたのもまさにこの理由によります。

2.中世・近世

 さて、室町時代に入ると貨幣の流通で商業が発展しました。この頃の商業地は、市庭(いちば)または座と呼ばれる定期市で、座商人と呼ばれる、貴族や寺社などに金銭を払って営業特権を得た商人が商売をしていました。現在も二日市、五日市、八日市、十日市、廿日市といった地名が全国いたるところにみられますが、これらはこの定期市の名残です。やがて、戦国大名がこの特権を廃し、楽市または楽座が開かれるようになります。楽市・楽座というと、織田信長が岐阜や安土で施行したものが有名ですが、佐々木六角氏は信長に先駆け、観音寺城下で楽市を行っています。

 そうした座商人に、五個荘を拠点する小幡商人が登場します。彼らは若狭から伊勢にかけて手広く活躍しました。彼らは、鈴鹿山脈を越え伊勢方面と取引したので、山越商人とも呼ばれています。この山越えは、今でも車で通ると感じますが、難所の上、山賊にも遭遇しねない命がけの仕事だったようです。しかし、やがて伊勢方面へ通商を行っていた四本商人(小幡・保内・沓掛・石塔)の一角である保内商人との争いが激化。小幡商人は安土城下へ移り、継いで八幡山城下へと移ります。小幡商人は、五個荘商人、そして近江商人の一つに数えられる八幡商人のルーツとなりました。



3.近江商人の活躍

 近江商人とは、江戸時代から明治にかけ、近江に本拠を置き、他国で行商を行った商人のことを指します(意外なことですが、近江国内限定で商売をしていた商人は、近江商人に含まれません)。五個荘、八幡、日野などから特に多く輩出されました。湖西の高島を含める場合もあります。近江商人は、日本の近世、近代の商業発展に大きく貢献しました。現在に至る、名だたる大企業が近江商人にルーツを持っています。

 その発祥と言われる五個荘商人は、呉服や綿、絹織物など繊維を主に扱いました。「諸国産物廻し」といって、近江商人たちは各地のニーズの違い、そこから起こる価格差に目をつけ(例えば、京の古着は東北で重宝され、高く売れたそうです)、関西から関東など地方への「持ち下り荷」、地方から関西や江戸に向けた「登せ荷」を廻して利益を上げました(「鋸商売」とも呼ばれます)。

4.商人教育

 展示物を見ていて特に印象的だったのは、江戸時代の商人教育の水準の高さです。江戸時代の初等教育といえば寺子屋ですが、五個荘は人口の割に寺子屋が多かったようです。10ヶ所あった寺子屋のうち、7ヶ所で読み・書き・算盤を教えていました。識字率の高さだけでなく、算術の普及も全国平均を大きく上回っていたようです。博物館には、四書五経(論語・大学・中庸・孟子、易経・詩経・書経・礼記・春秋)、小学といった儒教経典の他、江戸時代の算術の教科書である塵劫記も展示されていました。これは、寺子屋教育が子供だけに行われたものではないことを示しています。代表的な寺子屋に、医師であった中村義通が五個荘町宮荘村に開いた時習斎があります。

 女子教育についても、寺子屋に通う女子の比率は全国平均より高かったようです。近江商人はその本質が他国での行商にあるので、主人はほとんど家におらず、商家の妻は「関東後家」と呼ばれていたそうです。その分、留守を預かるものとして、家政のみならず丁稚の教育など店の運営にも大きな役割を担っていました。現在の相撲部屋の女将さんに似ていますね。したがって、女性にも高い教養と人格が求められたことは言うまでもありません。近江商人の女子は、寺子屋から汐踏みといって、他の商家での行儀見習い奉公へ進み、上女中を経て商家の妻となります。近江商人の理念として「三方よし」と並び、「始末して気張る(倹約して努力する)」が有名ですが、女子の見習いの家庭でも、例えば余った布や糸を大事に使う「始末のかたち」が教えられました。また、上女中となった女子が嫁入りする際、嫁入りの支度は育て上げた商家が自分の娘として行い、送り出したそうです。

5.石田梅岩と商人道徳

 こうした高い教育水準を背景に、江戸時代中期には石田梅岩(1685年-1744年)を開祖とする石門心学と呼ばれる倫理学が商人や農村にも広がりました。農村においては、「分度」と「推譲」を基本として全国600ヶ所以上の荒廃した農村を再建した、二宮尊徳(1787年-1856年)が有名です。一方、儒教(朱子学)を倫理の中心に据えていた江戸時代にあって、『論語』の「君子は義に喩り、小人は利に喩る」という言葉が偏狭に解釈された故か、当時の商人は道徳的に卑しめられていました。これに異を唱え、「商人が利益を得るのは天の理にかなったことである」として彼らの道徳的地位を高めることに貢献したのが、石田梅岩とその後の門下生たちだったのです。これは何と、ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(1864年〜1920年)が、著書『プロスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、勤勉、倹約、貯蓄といったプロテスタントの精神が資本主義と適合性を持っていると主張する200年も前のことです。

 梅岩の唱える商人道徳について、質問や批判に答える形で説明した問答集、『都鄙問答』では、「客に誠を尽くし、支払う対価以上の満足を人々に与え、そのことによって社会に貢献すること」が商人の使命であり、あわせて事業の合理化に努めること(これを「倹約」といいます)が説かれています。また、梅岩は仕入先に圧力をかける一方で、売値を吊り上げるようなことをして得た利益を「正当でない利益」として退けました。なぜなら、このような利益は人々に幸福をもたらした対価ではなく、人々からの収奪によって得られたものだからです。

 商人はそうした社会貢献によって初めて自らの持続的発展が可能になります。当時の商人にとって、最も重要なのは当主の繁栄ではなく家業の永続でした。したがって、家業永続のために目先の欲心で信用を失うようなことがあってはならないと梅岩は説いたのです。ちなみに、家業永続という目的に関しては、後継者の能力が足らないと判断された場合、血縁以外の有能な者を後継者としたり、もし当主が能力不足でれば、従業員の総意で当主を引退させるというケースもあったようです。同様のことは嫡子相続が絶対と思われがちな武家社会にさえあり、笠谷和比古氏によると、主君が諫言を聞き入れず暴政を止めない場合、家老達が主君を監禁して隠居させるという「押込」と呼ばれる慣行が江戸時代にはあったそうです。

 このような商人道徳は、その後の日本企業の経営に大きな影響を及ぼしました。







6.近江商人の家訓

 博物館には、近江商人、(二代目)中村治兵衛宗岸が四代目宗哲に遺した2mに及ぶ書置(遺言状)が展示されていました。これは近江商人の精神を表す言葉として有名な、「三方よし(「売り手によし、買い手によし、世間によし」)」の原典であると言われています。展示で見えている第八条には、次のような意味のことが書かれていました。

 たとえ他国へ行商に出かけても、自分が持参した商品を、その国の人々が皆気分よく着用してもらえるように心掛け、自分のことばかりを思うのではなく、まずお客のためを思って、一挙に高利を望まず、何事も天道の恵み次第であると謙虚に身を処し、ひたすら行商先の人々のことを大切に思って、商売をしなければならない。そうすれば、天道にかない心身ともに健康に暮らすことができる。自分の心に悪い心が生じないように、神仏への信心を忘れないこと。地方へ行商に出かけるときは、以上のような心構えが一番大事なことである。このことをよく心掛けることが一番である(引用元)。

 この他、近江商人の家訓または座右の銘として、次のような言葉がありました。

●奢者必不久(奢れる者かならず久しからず)…五個荘商人松居遊見の座右の銘
●好富施其徳(富を好しとし、其の徳を施せ)…八幡商人西川利右衛門の家訓

 こうしたところに、心学の影響が見て取れます。商才に長けた近江商人や倹約家で有名な伊勢商人は、「近江泥棒、伊勢乞食」と揶揄されることもありました。そうしたやっかみもありながら、地元を離れ、他国で商売をして成功した近江商人だからこそ、長期的スパンで信用を得ることの重みを一層身に染みて感じていたのかもしれません。

近江商人博物館



滋賀県東近江市五個荘竜田町583



繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
コメント
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