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(増補版)212D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年~1822年)

2015-09-23 04:05:51 | 日記
題:(増補版)212D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年~1822年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1822年(文政5年)、日本の総人口、26,602,110人
1822年1月、宇田川榕庵(うだがわようあん、蘭学者)が、体
 系的植物学を、日本に最初に紹介した「菩多尼詞経(ぼた
 にかきょう)」を刊行した。
  津山藩の侍医。
  1826年に、幕府天文方の蕃書和解(ばんしょわげ)御
 用訳員となっている。
  日本の近代植物学の開祖と言われている。また、日本
 の化学の開拓者とも言われている。
  多数の訳書により西欧の化学・生物学・薬学を紹介し、
 通じた人だった。
1822年閏1月6日、戯作者の式亭三馬が没した(47歳)
1822年2月16日、幕府が、全国の人口を調査。日本の総人口
 は、26,602,110人だった。
1822年2月、八百善主人・栗山善四郎の「江戸流行料理通」
 初編が刊行された(翌年完結)。
  八百善(やおぜん)は、会席料理を確立し、江戸で最
 も成功した料亭である。
  四代目当主の栗山善四郎は、多才で、多趣味で、一流
 の文人墨客との交流を深める人だった。
  蜀山人に、「詩は五山 役者は杜若 傾はかの 芸者
 は小萬 料理八百善」と言わしめた。
  そして、「江戸流行料理通(りょうりつう)」は、当
 時の料理テキストと言うべきもので、
  1種の材料に対して100の料理法を記しているという。
  素材に関しても、和漢の文献を集めて、知的興味を満
 足させる様な記述をし、
  中国料理の紹介や、救荒対策の書もあり、また、最高
 級の料亭料理の贅沢を尽くした記事など、
  また、一流の、高名な文人、画家が、序文や口絵を書
 くという高尚な書だった。
1822年3月12日、上杉鷹山が没した(72歳)
  アメリカのケネディ大統領が、「上杉鷹山は私の最も
 尊敬する日本人だ」と言ったが、
  鷹山は、上杉藩の養子藩主であった。
  清貧で、どん底の上杉藩を救った。
  その基本理念は、「藩主は、人民と国家のために存在
 するので、人民と国家が、藩主のために存在するのでは
 ない」という主権在民の思想で、当時の人達を仰天させ
 るものだった。
  ルソーの社会契約論が発表しされたのは、鷹山が12歳
 の時で、この著作を読んでいたことにはならない。
  また、フランス革命が成功し、人権宣言が発表される
 のは、鷹山が39歳の時であった。
  世界の最先端の思想の持ち主だった。
  米沢の上杉神社に祀られ尊敬を集めている。
  世界の偉人と言うべき人である。
1822年4月、イギリス船を救助する
  イギリスの捕鯨船が、浦賀に漂流して来て、薪水、食
 料の救助を求めたので与えた。
  「文政雑記」に以下の様に記されている。
  漂流英船ニ薪水補給
一浦賀奉行小笠原弾正長保・内藤十次郎、弾正諾中
  文政五年壬午五月 日イキリス船長弐十五間
  帆柱三本 帆九ツ表ニ三つ 中ニ壱つ舳ニ二つ
 都合帆十枚 壱艘漂流ス、同月八日帰帆、其節固之
 人数松平越中守・松平大和守・大久保加賀守三家
 人数合て千七百八十人浦賀固共弐千三百人程
 其節イキリス江被下物
 左之通り
  五月朔日 水十八荷   松薪拾把
  同二日  水十四荷   松薪拾把
  同三日  水十荷     松薪拾把
  同四日  山土弐樽   大根拾把  
         蕗 十五把、梅二升、杏 一升  
         枇杷二升、  鶏 拾把 但アヒル二ツ
         松薪 拾把 
  同五日  山土拾四樽、水三百弐拾荷、
         生魚 大小弐十
         ライ麦 一俵但四斗五升入 
         白米二俵但四斗五升入
  右之通被下候也
  訳文:漂流のイギリス船に薪水補給
     浦賀奉行小笠原弾正長保、内藤十次郎
     文政5年(1822年)5月イギリス船
     (長さ25間、帆柱3本、帆9、表に三つ中に壱つ
     舳先に弐つ合計10枚)が壱艘漂流してきた。
  同月8日に帰帆したが、その時の警固人数は、松平越中
 守〔白河藩)、松平大和守〔川越藩)、大久保加賀守〔
 小田原藩)の三家1788人、それに浦賀奉行組合せて2300
 人程、
  その時イギリス船に与えられた物左の通り(略す)
1822年5月、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん、銅版画家)
 が没した(75歳)
  「浅間山図屏風」六曲一隻、重要文化財
1822年8月、幕府が、水油高値により大坂油問屋以外への売
 買を禁止した。
  水油(みずあぶら)は、液状の脂の総称で、頭髪用の
 つばき油・オリーブ油・ごま油と、なたね油などの灯油。
1822年8月、塙保己一編の「続群書類従(ぞくぐんしょるい
 じゅう」が完成した。
1822年8月、西国で、10月にかけてコレラが流行(日本最初
 のコレラ流行)。
  1817年以降、6回の世界的大流行を起こしていた。この
 年・1822年に、日本にも及んだ。
  感染ルートは、朝鮮半島あるいは琉球からと考えられ
 ていて、九州から始まって、東海道に及んだものの、箱
 根を越えて江戸に達する事はなかった。
  2回目の世界的流行時には、日本は波及を免れたが、3
 回目には再び日本に達し、
  1858年は悲惨だった、3年間にわたり大流行した。
  この流行は、相次ぐ異国船の来航と関係し、異国船が
 もたらした(裏付けないともされている)。
  1862年には、残留していたコレラ菌により大流行が発
 生、56万人の患者が出た。
  この時に江戸に入って、7万3000人~数十万人が死亡し
 たという文献もあり、また、江戸に入らなかったという
 文献もある。
1822年11月27日、日本中を涙させた幼女の死、
  少女の名は露、
  因幡国(鳥取県)鳥取藩の支藩の若桜藩の藩主・池田
 定常(いけださだつね)の16女として生まれた。
  彼女は、疱瘡(ほうそう、天然痘)のために、この日
 に、短い生涯を終えた。
  彼女の没後、しばらくして利発だった彼女の書いた手
 紙や、幼いながら死を覚悟していたのか、その様な書も
 見つけられた。
  池田定常は、可愛いかったのだろう、亡き姫をしのん
 で、それらの書を模刻して(忠実に模した複製を木版印
 刷して)親戚や知人に配った。
  利発な彼女のその一つ、稚児桜を詠んだ句
  「つゆほどの はなのさかりや ちござくら」
  6歳の自分の死を予感していたのだろうか?
  今の世の様に、良い薬が、進んだ医学があったら・・、
  玉露童女(6歳)没。
..
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(増補版)211D2/3:気になった事柄を集めた年表(1820年~1821年)

2015-09-22 05:04:09 | 日記
題:(増補版)211D2/3:気になった事柄を集めた年表(1820年~1821年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1821年(文政4年)2月、風邪が大流行した(インフルエン
 ザと言われている)。
  幕府は、御目見以下3万5,000余人に薬を、窮民30万人に
  銭7万5,000余貫を与えた。
  江戸城中の廻状(連絡の文書)に、
  「長髪罷出、共廻格別減少不苦(髪が長くなり月代を剃
 らずに上司の前に出ても、供廻りの家来の数が少なくて
 もかまわない」とある。
  また、遠慮せず早引けしていいよと「一通り用事が済
 んだら帰宅しても良い」と大目付に指示を出している。
  配り、そして、与えた薬は、漢方薬で、ショウガを入
 れて煎じて飲みなさいとなっている。
  民の救済のための御救銭は町会所を通じて与えた。
  独身者の1万5000余人には200文を、
  また、家庭のある者の28万1000余人には250文を与えた。
  外国から長崎を経たインフルエンザが、西国から江戸
 へ流行して来たものと言われている。
1821年4月24日、出版取締令
  幕府が、暦書・天文書・オランダ翻訳書の出版は、す
 べて町年寄の奈良屋市右衛門へ届け出て、 江戸町奉行所
 の許可を得るようにと令した。
  この幕府の狙いは、蘭学知識を幕府が掌握したいとい
 う事と、役に立つものだけを広めたいという思いがあっ
 た。
1821年4月11日、新金銀引替方促進令
  幕府が、古金銀と新金銀の引き替えを督促する(類集
 撰要39・旧幕引継書)
1821年4月26日、銀売買銀製品製造統制令
  幕府は,銀座以外での銀の売買、およぴ、民間でみだ
 りに銀を使用することを禁止した(類集撰要39・旧幕
 引継書、御触書抜4)
1821年7月10日、日本初の実測地図「大日本沿海輿地全図
 (だいにほんえんかいよちぜんず)」と、「大日本沿海
 実側録(だいにほんえんかいじっそくろく)」が完成し、
 幕府へ献上された。
  大日本沿海輿地全図は、伊能忠敬と高橋景保が作成し
 た。(伊能忠敬は、1818年に没していた)。
  日本で最初の、科学的な実測に基づいた日本の全図で
 ある。
  これは、「伊能図」ともいい、
  1800年の蝦夷地の測量に始まり、九州・種子島・屋久
 島・伊豆七島まで17年の歳月をかけて全国を実測した結
 果だった。
  この年の1821年に、大図214枚、中図8枚、小図3枚を、
 作成した成果を、江戸幕府に提出した。
  大日本沿海実側録は、伊能忠敬の著作物であり、全13
 卷14冊ある。
  大日本沿海輿地全図に添えて、幕府に提出した各地の
 記録で、輿地実測録である。
  日本の誇るべき偉大な業績である。
  幕府は、忠敬の功績を褒章していた。
  また、門弟らの功績もある。
  伊能忠敬門の弟らが「大日本沿海輿地全図」を完成さ
 せ、また、幕府も多額の援助金を出していた。
  そして、督励して、さらに外郭地の測量も要請した。
  以後は、新造されたばかりの国産の大型帆船を用いて
 近隣島嶼の調査を開始させたりした。
  この頃から「伊能衆」と呼ばれるようになった。
  そして、さらに、幕府は、日本の威の及ぶ太平洋一帯
 を測量させた。
  「東洋のメルカトル」と呼ばれ、日本人の海外進出に
 も大いに貢献した。
  また、引き継いだ人たちの功績もあった。
  「大日本沿海輿地全図(大日本沿海輿地全図、および、
 輿地実測禄)」は、伊能忠敬より引き継いだ高橋景保ら
 により完全な形の完成品となった。
  それだけ、偉大な事業だった。
1821年8月、諸国が風水害と大干ばつ。
  ・御国風水害、高68,664石余損亡。(「徳島県史料年
   表」による)
  ・8月再水、水層20尺5寸(6.2m)。(「伊予風水害小
   史(大洲藩譜)」による)/8月8日、肱川で出水、
   大洲で水位25尺5寸(7.7m)。(「大洲警察署記録」
   による)
  ・8・4 大風雨,紀ノ川洪水
  ・那賀川(徳島県)、83日間も続いた大干ばつ。
  ・山陰・島根、1821(文政4)年、風水害、害穀30000石
  ・1821年4月8日、畿内大洪水あり(泰平年表)
  ・1821年(文政4年)に 道徳前新田(現道徳学区・愛知県
   愛西市)が開拓されたが、度重なる風水害により、幾
   度となく堤防が決壊。甚大な被害をもたらしていた。
1821年9月12日、公家方への配慮
  幕府が、徴禄の堂上方(どうじょうがた=清涼殿の昇殿
 を許される位の者)ヘ金25両を貸与した。
1821年12月、和人地および全蝦夷地を、松前氏に還付(か
 んぷ、元の持ち主に返す)して、一旦、松前奉行を廃し
 た。
  北辺の警護のため、松前藩の領地であった東蝦夷地を
 上知(あげち、幕府が知行地を没収すること)していた。
  そして、享和2年(1802年)2月に、箱館に、蝦夷奉行
 が設置されていた。
  また、1802年5月に、箱館奉行に改称され、その後に、
 松前奉行に統合されていた。
1821年、為永春水・滝亭鯉丈(りょうていりじょう)、歌川
 国直・渓斎英泉(けいさいえいせん)画の人情本 「明鳥後
 正夢」初~3編が刊行された(1824完結)。
  為永春水は、天保の改革で風俗を乱したとして罰せら
 れた。
1821年、風物:ラクダの見世物
  江戸両国でラクダの見世物が評判になった。
1821年、小田原藩主が、二宮尊徳を登用した。
1821年3月6日、ギリシャ独立戦争が起きた。
 アレクサンドル・イプシランチ(帝政ロシアの軍人)率
 いるフィリキ・エテリア(オスマン帝国統治下のギリシ
 ャ匂いて活動した秘密組織)の部隊は、ロシア・ルーマ
 ニア国境のプルト川を越え、オスマン帝国領、モルドヴ
 ァへ侵入し、ここにギリシャ独立戦争が開始された。
1821年5月5日、ナポレオン1世が没した(1769年~1821年)
  ナポレオンは、1815年に、エルバ島を脱出してパリへ
 戻って来て、復位して皇帝となる。が、しかし、100日天
 下だった。
  皇帝になったナポレオンは、連合国に講和を提案した
 が拒否され、戦争となって行く。
  しかし、この戦争は、初戦こそ勝利したが、ワーテル
 ローの戦い(1815年6月18日)で大敗する。
  ナポレオンは、ふたたび退位に追い込まれ、イギリス
 軍艦に逃れたが、イギリス政府は、裏切って、ナポレオ
 ンを大西洋の孤島のセントヘレナ島に幽閉した。
  劣悪な島の環境がナポレオンを悩ませた。
  行動制限もあり、また、許される行動には歩哨が立つ
 監視の下に置かれた。
  実質的には監禁状態であった。
  また、島の総督の無礼な対応に、ナポレオンの尊厳も
 まったくなかった。
  また、総督は、ナポレオンが体調を崩しているにもか
 かわらず、主治医を本国に帰らせた。
  ナポレオンは総督を呪った。その言葉が記録にあるほ
 ど、ナポレオンは総督を恨んだ。
  精神的な圧迫もあり、病状は悪化した。
  そして、この時に、ナポレオンは死去した。
  遺体は解剖され、ガンが発見されたが、
  ヒ素による暗殺の可能性も指摘された
1821年9月4日、アレクサンドル一世の勅令
  ロシア皇帝アレキサンドル一世は、勅令によって、ア
 メリカ西海岸からロシア領の北の島々近海での、外国人
 の捕鯨や漁業を禁止した。
  禁止区域に、ウルップ島以北の千島諸島が含まれてい
 た。
  この頃、ロシアでは、ウルップ以北がロシア領である
 との認識が明確にあった。
  故に、「アレクサンドル1世の勅命」には、「ウルッ
 プ島までの島々と、港湾における商業・漁業、並びに、
 あらゆる産業は、ロシア国民のみが従事できる」として、
 それらロシア支配下にある島々への外国船の接近・停泊
 を禁じる」とある。
  この勅令は、択捉島以南にロシアの主権が及ばないこ
 とを明確に示している。
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(増補版)210D2/3:気になった事柄を集めた年表(1820年~1820年)

2015-09-21 05:54:53 | 日記
題:(増補版)210D2/3:気になった事柄を集めた年表(1820年~1820年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1820年(文政3年)4月、金箔ならびに下金流通取締令
  幕府が、法令を発して、金座に地金を管理させた。
  そして、江戸以外の金箔の打ち立てを禁止した。
  金箔・下金(したがね)類の取り扱いを、御金改役・後
 藤三右衛門の一手引き受けとし、金座以外での取引を禁
 止した。
1820年4月、幕府が、大坂商人の買米の制限を止めた。
1820年6月28日、幕府が,草文丁銀(そうぶんちょうぎん、
 または、新文字丁銀という)・小玉(豆板)銀を新鋳した
 (7月20日より通用開始)。
1820年6月、砂糖の販売を自由化した
  幕府が、江戸の砂糖問屋株(1808年発足)と、大坂の
 江戸積砂糖仲間を禁止し、自由取引とした。
  砂糖は、貿易窓口の長崎に陸揚げされ、中央市場の役
 割を持っていた大阪の問屋(当初は薬種問屋、後に砂糖
 問屋)へ運ばれ、そこから江戸や諸国の問屋へ出荷され
 ていた。
  幕府は、砂糖代金の金・銀・銅の流出を危惧し、砂糖
 の国産化の方針を打ち出し、サトウキビの作付けを全国
 に奨励した。
  西南日本の気候温暖な地域に、積極的に取り入れられ
 「和糖業」が広まって行った。
  すでに、1798年には、讃岐(香川県)に砂糖(和三盆)
 が大阪の中央市場に登場していた。
1820年7月、幕府が、大砲・昼夜合図の火術練習を佃島沖で
 行った。
1820年8月、山片幡桃(やまがたばんとう、町人学者、経済
 論者、思想家)が、「夢の代(ゆめのしろ)」を完成し
 た。
  播磨(兵庫県の西南部)の人。
  幡桃は、才を認められ大阪の両替商升屋(米仲買、大
 名貸、幡桃の叔父の店)に番頭として仕え、主家の興隆
 に尽くした、そして、家を継いだが、
  仙台藩や豊後岡藩などの日本の東西の藩の財政再建に
 も手腕を発揮した。
  全国数十藩の蔵元・掛屋・立入として成功を収めた。
  蔵元(くらもと)は、蔵屋敷で蔵物の出納を管理した
 町人のことで、
  また、掛屋(かけや)は、幕府や諸藩の公金出納を扱
 った商人の事をいい、
  また、立入(たちいり)は、大阪の諸大名蔵屋敷に出
 入りして御用をつとめた商人の事をいう。
  また、懐徳堂で儒学を学び、さらに、天文学・蘭学を
 学び、地動説を確信し、合理的思想を持ち、独創的な思
 想家となった。
  失明したが、「夢の代」12巻を著した。
  「夢の代」は、実学啓蒙書で、1802年が初稿であった。
  天文、地理、神代(じんだい)、歴史、制度、経済、
 経論、雑書、異端、無鬼(上・下)、雑論に編成され、
 自然・人文現象を述べた。
  蘭学の知識も深く、西洋科学を信頼し、地動説も提示
 し、西洋医学の成果も紹介し、今日、国際的に評価され
 ている。
1820年9月、幕府が、前薩摩藩主の島津重豪(しまづしげひ
 で)の治績を賞した。
1820年10月、幕府が、倹約令を翌年よリ3年間延長すること
 を令した。
  臨時支出の増大のため、
  また、この間、幕府と諸大名からの貸付金を許可しな
 いこととした。
1820年10月11日、諸芸集会摺物取締
  幕府が、書画・活花・詩歌などの芸名披露の集会など
 を取り締まるよう命令した。
1820年10月、書物奉行兼天文方の高橋景保が、翻訳・編集
 した満州語辞典「増訂満文輯韻(まんぶんしゅういん)」
 を幕府に献上し、褒賞を受けた。
  長崎に、1804年に、ロシアの使節・レザノフが持参し
 た国書は、満州語で書かれたものだった。
  高橋景保は、これを訳解した。
1820年12月、幕府が、大名・旗本が領地転換をみだりに願
 い出ることを禁止した。
1820年12月、浦賀奉行に海岸警備を命じた。
  幕府は、浦賀を中心にした対外貿易と海防を考えてい
 た。
  会津藩の相州の沿岸警備の任が免じられて(1810年か
 ら、この任についていた)、これを浦賀奉行の所管とし
 た。
1820年、滝亭鯉丈(りゅうていりじょう、滑稽本作者)の
 「花暦八笑人(はなごよみはっじょうじん)」初編が刊
 行された(1849年に完結した)。
  江戸町人の退廃的な遊戯生活を写実して描いた。
  滝亭鯉丈は、咄家(はなしか)でもあって、人気を得
 ていた。
  「花暦八笑人」は、江戸の閑人仲間(遊び仲間)8人が
 四季折々の行楽に、茶番の趣向をこらして人々の喝采を
 集めようとするが、そのたびに失敗をする滑稽を描いて
 いる。
  この作の笑いは、十辺舎一九や式亭三馬の滑稽本に比
 べ、はるかに低俗で、あくどく低級である。
1820年、大田南畝(おおたなんぽ、文人)の随筆「一話一
 言(いちわいちげん)」ができた(1822年説あり)。
  一話一言は、56巻あり、随筆だけでなく、諸書、記録
 類の称出を多く含み、著者の幅広い学識が出ている。
  1755年頃より1822年ころまで、筆者が見聞した風俗、
 流行、歴史、伝記、出来事・事件、見聞記・行動記録、
 感想、天災、幕府の文書などを、筆者の興味の赴くまま
 に多岐多彩に書き留めたもの。
  因みに、大田南畝は、別号を蜀山人(しょくさんじん)
 という。
1820年、宇田川玄真(うだがわげんしん、宇田川榛斎、蘭
 方医)が、「和蘭薬鏡(おらんだやくきょう)」を訳し、
 刊行する。
  「大黄で 効かない場合には体質にあわせて旃那葉や芦
 薈を使う」とある。
  大黄(だいおう)は、中国の高山に自生するタデ科の
 多年草で緩下剤・健胃剤の薬効がある。
  旃那葉(せんなば)は、緩下薬とあり、少量で苦味健
 胃薬になり、消化を促進させ、特に、熱結性便秘に用い
 られるとある。
  芦薈(ろかい)はアロエの音訳で、
  アロエは、ユリ科アロエ属の多肉植物で、乾燥したも
 のは下剤・健胃薬に用いるとある。
1820年、フランデス(ドイツ)が、初めて等圧線を引いた。
1820年、フランソワ・アラゴ(フランス)が、鉄心に巻き
 付けた導線に電流を流すと、磁石になるという電磁石の
 原理を発見した。
1820年、ミズーリ協定(アメリカ)
  アメリカ合衆国で、ミズーリを州にするとき、奴隷制
 を認めるか否かをめぐって議員が対立した。
  当然、奴隷制などというキリスト教の有色人種蔑視か
 ら来ている卑劣な制度は、破棄すべきであるが、アメリ
 カは議員がもめていた。
  そして、その収拾策としてミズーリ協定が結ばれた。
  相変わらず、北緯36度30分以南のルイジアナ購入地で
 は、奴隷制がそのまま残った奴隷州となった。
  因みに、1854年のカンザス・ネブラスカ法で、住民主
 権の原則の導入によって、北緯36度30分以北に位置する
 カンザスが奴隷州になる可能性がうまれたことで、この
 ミズーリー協定は無効となった。
  アメリカは、相変わらず軽蔑すべき有色人種蔑視の奴
 隷制の続く国だった。
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(増補版)209D2/3:気になった事柄を集めた年表(1818年~1819年)

2015-09-20 04:35:12 | 日記
題:(増補版)209D2/3:気になった事柄を集めた年表(1818年~1819年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1818年、幕府は、鎌倉で国産大砲を試射した。
  因みに、日本初の大砲は、天正年間(1573年~1591年)
 に、豊後の大友宋鱗が、南蛮船から火砲数門を買い入れ、
 実戦に使用したのが最初とされている。
  宋麟は、それを「国崩し」と名づけ、薩摩・島津氏と
 の戦闘などに使用した。
  その当時の石火矢(大砲)について「昇竜の雲のごと
 き黒煙を奔流し、その鳴るさまは驚雷のとどろくごとく、
 聞くものその耳を被わないものなし」とある。
  その威力については、轟音による威嚇と、破壊の威力
 はあったが、
  大量の火薬を消費するわりには、殺傷力がなく、
  無駄が多いと判断された様で、鉄砲の様に製造して武
 器として積極的に使用すという方向に行かなかった。
  この1818年の幕府の大砲試射があったが、
  国産大砲の製造を手がけたのは、幕府自体のほか、数
 藩あった。
  もっとも進んでいたのは佐賀藩だった。
  薩摩藩も比較的早く完成に結び付けたが、佐賀藩に比
 べると4年~5年、遅れていた。
  佐賀藩は、1850年に、佐賀城下の築地(現在:佐賀市の
 長瀬町)に大銃製造方を置いた。
  そして、日本初の洋式反射炉を作り、国内で始めて鉄
 の大砲の鋳造に成功した。
  この大砲製造は、ペリー来航の一年前の1852年だった。
  技術は、蘭学から導入した。
  佐賀10代藩主の鍋島閑叟の命によって、オランダの技
 術書を翻訳し、理論および仕組みを学び、習得した。
  その後の1853年に、新たに多布施反射炉も造り、幕府
 からの大砲注文をこなした。
  そして、幕府は、ペリーが翌年の再来を告げてアメリ
 カに帰っている間に、江戸品川のお台場に立派な大砲を
 据えつけた。佐賀藩の製造だった。
  一方、次の話もある。
  当時、日本で砲術で名を得ていた長崎会所の調役の高
 島秋帆は、1832年~1835年に、オランダから兵学書や砲
 術書を取り寄せ、
  また、モルチール砲(臼砲、きゅうほう)や、燧石(す
 いせき、火打石のこと)式ゲベール銃を輸入し、西洋砲
 術の研究を始めた。
  そして、荻野流の砲術を修めて、和流砲術にも通じて
 いた秋帆は、出島に出入りして、自らの立場を生かして、
 より進んだ西洋の砲術の知識を得た。
  そして、秋帆は、取り寄せた西洋砲を用いて実験を繰
 り返した。
  また、自らも青銅製の臼砲を鋳造するなど研究を進め
 た。
  そして、西洋砲術を 自己の流派として確立するまで行
 った。
  この秋帆に、伊豆韮山代官の江川英龍(坦庵)は、部
 下を入門させたりもして、近代砲術を学んだ。
  また、江川英龍は、伊豆韮山に反射炉を築き、日本に
 西洋砲術を普及させた。
  英龍は、1837年のモリソン号事件の時に、大きな関心
 と危機感を持った。
  しかし、当時の砲術技術と言っても古来からの和流砲
 術で、この実態に危機感を持ったことから、この行動を
 起こしたのだった。。
  佐久間象山も英龍の弟子になっている。
  また、浦賀奉行所の中島三郎助の話もある。
  中島三郎助も、高島秋帆の砲術を学び、幕府要人の視 
 察時には大砲試射を披露したという。
  そして、その腕前は幕府から高く評価されたという。
  1842年に、与力に取り立てられたという。
1818年、カール・マルクス(ドイツ、哲学者、経済学者、
 革命家)が生まれた(生没年:1818年~1883年)
1819年(文政2年)3月、渡辺崋山が26歳の時、日本橋百川
 楼(ももかわろう)で書画会を開いた。
  「鷹見泉石像」国宝(1837年作)
1819年3月、幕府が、飛騨国森部(もりぶ)蔵柱金山、和佐
 保・三ツ谷銅山の経営を試みた。
1819年閏4月、幕府が、江戸・京都・大坂・伏見以外の真鍮
 製造の禁止をやめ、各地での自由製造を許した。
1819年6月、幕府が、三橋会所頭取の杉本茂十郎を罷免し、
 三橋会所・伊勢町米会所を廃止した。
  茂十郎は町奉行所御用達も解任された。
  廃止の理由は、茂十郎の米投機の失敗、強圧的な資金
 徴収、会所の不明朗な会計、後ろ盾になっていた北町奉
 行の死去などが重なった。
  茂十郎がやっていた事は買米、買米には反対の声が仲
 間にあったが、無視して、茂十郎は買米を行なった。
  大阪の堂島米市場の始まって以来の高値が続いた。
  しかし、しだいに資金が続かなくなった。
  また、茂十郎は、幕府への多額の冥加金上納も行なっ
 た。幕府からの見返りもあったが・・、
  そしてまた、町奉行扱いの公金貸付まで手を出した。
  資金難となり、冥加金上納の延期を願い出たりして、
 大穴を開けた。
  そして、幕閣が交代し、町奉行も交代するという事態
 が起きた。
  杉本茂十郎が失脚すると、十組問屋の勢力は衰え、樽
 廻船側は、この機を逃さず菱垣廻船の領分に進出した。
1819年6月、幕府が、本船町の油会所を廃止した。
1819年7月、物価引き下げ令
  幕府が、米価下落のため全国に諸物価引き下げを命じ
 た。
  幕府は、大阪の問屋仲間を通じて、全国の市場支配を
 強化しようとしたが、
  また、幕府は、江戸・大阪市場の独占機能の回復を図
 ろうと対策を講じたりもした、買米もした。
  しかし、幕府の思う様にはならなかった。
  物価が次第に高騰して行った。
  庶民の生活は苦しめられ、幕府は令を出したのだった。
1819年7月、小判一分判を改鋳し、草文小判・草文一分判が
 鋳造された。(6月説あり)
1819年9月、米価の下落により、蔵米取りを救済するため、
 冬季給金が張紙値段(公定値段)100俵につき5両増で渡
 されることとなった。
1819年10月26日、浮世絵帥の勝川春英が没した(58歳)
1819年10月、幕府が、伊豆諸島の産物交易を江戸鉄砲洲の
 島会所扱いとした。
1819年、塙保己一が編纂した「群書類従」正編の刊行が完
 結した。
1819年、小林一茶の随筆・発句集「おらが春」ができた。
1819年、アメリカが、スペインからフロリダを購入した・
 ・購入したと言っても、
  本当は、アメリカ・インディアンの方々の土地。
  アメリカ・インディアンの方々は、不法な白人の占拠
 に、1842年に至るまでゲリラ戦で戦い続けた。
  ショウニー族のテクムセ族長の分身ともいうべきオセ
 オーラは、数千人のセミノール族をも動員して、抵抗を
 し続けた。
  このチェロキー族は、1821年に、新聞も刊行したりす
 る、読み書きができる知的な人々だった。
..
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(増補版)208D2/3:気になった事柄を集めた年表(1817年~1818年)

2015-09-19 04:28:07 | 日記
題:(増補版)208D2/3:気になった事柄を集めた年表(1817年~1818年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1818年(文政元年)1月、幕府が、塙保己一(はなわほきい
 ち、国学者)に、和学講談所(わがくこうだんしょ)の
 勤務を命じた。
  和学講談所は、1793年に、幕府の許可と、下付金を受
 けて、江戸麹町に、塙保己一が創立した学問所で、
  林大学頭の指導の下で、国史・律令の資料の編纂や講
 義をおもな事業とした。
  「群書類従」などを編纂した。
  明治元年(1868年)1月まで続き、明治政府の修史局に
 引き継がれた。
  学問所としては、当時、漢学が主流の中で、この様な
 特徴ある学問所が開かれた意義は高い。
  本学問所の修史事業は、後世に多大な貢献をしている。
1818年1月、岩崎灌園(いわさきかんえん、本草学者)が、「
 草木育種」を刊行した。
  江戸時代の園芸書的なもので、
  例えば、「オオヤマレンゲ」は、日本に自生している
 ことが、当時、すでに知られていたが、この草木育種で
 は、雄株に紅白の2種類があるとしている。
  因みに、今・現在のオオヤマレンゲの解説では、モク
 レン科モクレン属の落葉広葉樹の低木で、
  花は白、開花時期は5月~7月、分布:本州の関東地方
 から九州、生育地:山地の林の中、樹高:2~4メート
 ルとある。
  また、花径:5~10センチくらいあって大形、香り
 の良い白い花を下向きにつけ、花被片は多くて9枚くらい
 で、花の中心部には紅色の雄しべがたくさんある・・と
 ある。
1818年2月15日、幕府が、京都定職以外の銀箔製造を禁じた。
  また、江戸呉服町に京都銀箔所を再建した。
  1775年5月に、幕府は、既に、令を発し、諸国で箔を打
 つことを禁じていた。
  当時、金座や銀座の監督の下で、免許を受け、営業を
 行なっていた箔屋は、他業種と同様に株仲間を形成して
 いた。
  中でも、京都の銀箔屋は、江戸にも共同市場を設置し、
 強大な勢力を持っていた。
  加賀藩は、文化時代(1804年~1818年)や、文政時代
 (1818年~1830年)ころに、藩内が、ますます華美とな
 り、爛熟の極に達していたという状況や、
  風俗の奢侈(しゃし、度が過ぎて贅沢なこと)なこと、
  また、大量の金銀箔の需要が増大していること、
  そして、その購買のための加賀藩の資金の流出と、そ
 れによる財政圧迫があるため、
  その対策の為、藩内自給の必要性を痛感した。
  藩は、自給計画の元に、金沢安江木町に自給製造を命
 じた。
  命じられた町人は、藩から特許を得て、京都から職人
 を呼び寄せ、大々的に製造を開始した。
1818年3月7日、3代目尾上菊五郎が、清元「保名(やすな)」
 (篠田金治作詞、清沢万吉作曲)を江戸都座で初演する。
  保名は、歌舞伎の舞踊曲のこと。
1818年4月13日、伊能忠敬(いのうただたか、測量家、地理
 学者)が没した(1745年~1818年、74歳)
  日本の偉大な測量家であった。
  隠居後の残りの生涯を、一つの事に極めた。そして、
 大きな業績を遺した。
  生涯でやる事をやって後、49歳の隠居以後にも、この
 様な大業績を遺した。偉大だった。
1818年4月16日、幕府が、真文二分判金(しんぶんにぶきん)
 を発行した(文政期の貨幣悪鋳の始まり)。
  二分判(にぶばん)とも言う。
  当時、流通していた元文小判の1/2の量目である上、品
 位が14%低かった。
  1835年に、通用停止となった。
  今の時代は、良いか悪いかは別にして、すべての国が
 紙幣でことをなしている。実質的価値は全くない。
  特に、世界の基軸通貨となっているアメリカの米ドル
 は、どんどん刷られて、世界に流出されている。
  江戸幕府のやったことの極みだ。
1818年5月、イギリス船(ゴードン)が、浦賀に来て、貿易
 を要求した。
  そのうち、イギリスの捕鯨船も、浦賀に来る(1822年)
1818年6月、蘭学者の大槻玄沢らが連署して、西洋新薬を
 オランダに注文することを幕府へ建議した。
1818年7月、画家の亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)が、油
 絵の具の製法を門人に伝えた。
1818年12月、本田畑甘藷植付禁令
  幕府が、みだりに本田畑に甘藷をつくることを禁止し
 た。
  1643年には、既に、本田畑での五穀以外の商品作物(
 木綿・煙草など)の栽培も禁止されていた(田畑勝手作
 の禁令)
  しかし、この法令は干渉と見なされて、まったく不評
 であった。
  17世紀の終わり頃になると、商品作物の生産が盛んに
 なり、法令無視で作って売却益で年貢米を購入して納入
 する者も出始めた。
  また、各地でコメの生産量も増えて米価が低迷して来
 た事から、諸藩は商品作物の栽培を奨励して、農家の収
 入を増加させて、納税させて藩の財政を安定させようと
 するところも増加した。
  この様に政策も二転三転した。
1818年、幕府が、地図上で、江戸城を中心に朱引きの範囲
 を定め、御府内(ごふない)とした。
  御府内は、町奉行の支配に属した江戸の市域のことで、
  東は、亀戸・小名木辺り、
  西は、角筈村・代々木辺り、
  南は、上大崎村・南品川町辺り、
  北は、上尾久・下板橋村辺りの内側と定められた。
  だが、境域は一定しなかった。
1818年、農学者の大蔵永常(おおくらながつね)が「老農
 茶話」を刊行した(1804年説あり)。
  1818年には、「農家益続編」を書いたという説もある。
  永常は、生涯に80冊あまりの農書を著した。
  そして、彼は、自愛即他愛の立場から、自他ともに栄
 える道を説いた。
  そして、民に利を得させてはじめて為政者の利となる
 と主張した。
  彼は、商品作物の栽培・加工を重視した実践指導を行
 った。
  老農茶話には、稲の乾燥法、科の繊維・織布の研究書
 となっている。
  農家益続編2巻などには、はぜの栽培や製ろう技術など、
 特用作物(とくようさくもつ、食用以外の特別の用途に
 あてるため栽培・加工する農作物で、綿・桑・茶・麻・
 煙草・藍など)の栽培とその加工法を詳しく書いている。
1818年、大田南畝(おおたなんぽ、文人、狂歌師、戯作者)
 が、狂歌狂文集「万紫千紅(ばんしせんこう)」「蜀山
 百首(自選歌集)」を刊行した。
  南畝は、別号は蜀山人(しょくさんじん)、また、狂
 歌名は四方赤良(よものあから)。
  幕臣(支配勘定役)である。
  生没年:1749年~1823年、江戸牛込仲御徒町に生まれ
 た。
  1794年の人材登用試験には、見事な成績で合格したと
 いう(学問吟味を受けて首席となる)。
  大阪銅座出役や長崎奉行所出役などの勤務をこなし、
 かたわら江戸文人の代表格として名声を得ていた。
1818年、渡辺崋山(わたなべかざん、洋学者、南画家)が、
 「一掃百態」を売成した(崋山が25歳のとき)。
  崋山は三河国田原藩の家老。
  生没年:1793年~1841年(48歳)
  一掃百態は、漫画的に寺子屋風景を描いた作品。
  田原藩の藩士の子として、江戸藩邸内で生まれ、8歳で
 出仕した。
  貧困とたたかいながら儒学を学び、生計のために画を
 修行し、学んだ。
  1824年の31歳のとき、父の死により家督を継ぐ、
  1832年の39歳のとき、年寄役末席(家老)となる。
  藩務にあたり、殖産興業に努めるとともに、海防掛に
 任じたことから蘭学にも通じ、高野長英らとも交わった。
  開明的政策を行なった。
  1937年の44歳のとき、浦賀に来航したアメリカ船のモ
 リソン号に対し(モリソン号事件)、異国船打払令によ
 って対処したことを、世界に目を覆っているとの立場を
 とった。
  そして、1939年の46歳のとき、幕府の対外政策を批判
 した「慎機論」を著し、
  1939年5月に、蛮社の獄に連座した。
  そして、同年の1939年に、国元に蟄居を命じられ、
  1941年に、崋山の窮迫を助けるために、弟子たちが江
 戸で開いた画会が、蟄居中に不謹慎ととがめられ、藩主
 に塁が及ぶのを恐れた崋山は自殺した。
1818年、イギリスのインドの土地を奪う行為に手を貸した
 イギリスのインド総督のウォレン・へスティングスが死
 んだ。
  イギリス東インド会社に、1750年に、赴任した。
  そして、クライブ中佐の指揮下で、インド知事や総督
 を歴任した。
  その後、イギリス議会で、インド統治が過酷だとも美
 しく言いながらも、
  その右の手の言い方と違った左の手の方の言い方で、
 イギリスの指示で、インドの地を奪い、利益を奪って行
 った。
  イギリスは言った、
  「統治は、正義と温情を旨としなければならない・・
 が、ただし、金を送れ、もっと送れ、もっともっと送れ」
 の命令を出した。
  ヘスティングスは、「矛盾した命令だ」と泣いた。
  このインド総督は、命令に従うため色々な暴虐をした。
  イギリスは、何時も、この様な狡(ずる)いやり方を 
 した。
  その1つが、ある地域のインドの藩王に、
  「イギリスの軍隊を貸すから、隣の国を占領してしま
 え。そして、私にはその代償として40万ポンドを支払い
 なさい」・・とそそのかした。
  その「そそのかしの言葉」は実行された。
  それが、1774年の「ロヒラ戦争」である。
  結局、この可哀想な戦争となった地は、イギリスが横
 取りして、1801年に、イギリス領になってしまった。
  この事を、歴史家マコーレーは、
  「ロヒラ戦争の目的は、他国や人に対し、何も悪い事
 を加えたことのない善良な人々が、
  その善き人々から、善き政治を奪い、
  また、その善良な意思に背かせて、嫌だという様な虐
 待的政治を押し付けるという事だった。
  戦争を仕掛けられるロヒラ人は、平和を望んで哀訴し、
 嘆願し、また、巨額の金を積んで、ひたすら戦争を避け
 たいとしたが、すべては無駄だった(イギリスは拒否し
 た)。
  戦争に至る道しか示されなかった。
  血なまぐさい戦争が、こうして起こった。
  インドに於いて、最も善良で、最も立派であった国民
 は、貪欲で無知で残虐無類な暴君の手に委ねられ、豊か
 な国は、今やみじめな、最も貧乏な地に成り下がった」
 ・・と批判した。
  イギリスは、この様な卑劣な手で、インドの地を奪っ
 て行った。
..
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