題:(増補版)209D2/3:気になった事柄を集めた年表(1818年~1819年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1818年、幕府は、鎌倉で国産大砲を試射した。
因みに、日本初の大砲は、天正年間(1573年~1591年)
に、豊後の大友宋鱗が、南蛮船から火砲数門を買い入れ、
実戦に使用したのが最初とされている。
宋麟は、それを「国崩し」と名づけ、薩摩・島津氏と
の戦闘などに使用した。
その当時の石火矢(大砲)について「昇竜の雲のごと
き黒煙を奔流し、その鳴るさまは驚雷のとどろくごとく、
聞くものその耳を被わないものなし」とある。
その威力については、轟音による威嚇と、破壊の威力
はあったが、
大量の火薬を消費するわりには、殺傷力がなく、
無駄が多いと判断された様で、鉄砲の様に製造して武
器として積極的に使用すという方向に行かなかった。
この1818年の幕府の大砲試射があったが、
国産大砲の製造を手がけたのは、幕府自体のほか、数
藩あった。
もっとも進んでいたのは佐賀藩だった。
薩摩藩も比較的早く完成に結び付けたが、佐賀藩に比
べると4年~5年、遅れていた。
佐賀藩は、1850年に、佐賀城下の築地(現在:佐賀市の
長瀬町)に大銃製造方を置いた。
そして、日本初の洋式反射炉を作り、国内で始めて鉄
の大砲の鋳造に成功した。
この大砲製造は、ペリー来航の一年前の1852年だった。
技術は、蘭学から導入した。
佐賀10代藩主の鍋島閑叟の命によって、オランダの技
術書を翻訳し、理論および仕組みを学び、習得した。
その後の1853年に、新たに多布施反射炉も造り、幕府
からの大砲注文をこなした。
そして、幕府は、ペリーが翌年の再来を告げてアメリ
カに帰っている間に、江戸品川のお台場に立派な大砲を
据えつけた。佐賀藩の製造だった。
一方、次の話もある。
当時、日本で砲術で名を得ていた長崎会所の調役の高
島秋帆は、1832年~1835年に、オランダから兵学書や砲
術書を取り寄せ、
また、モルチール砲(臼砲、きゅうほう)や、燧石(す
いせき、火打石のこと)式ゲベール銃を輸入し、西洋砲
術の研究を始めた。
そして、荻野流の砲術を修めて、和流砲術にも通じて
いた秋帆は、出島に出入りして、自らの立場を生かして、
より進んだ西洋の砲術の知識を得た。
そして、秋帆は、取り寄せた西洋砲を用いて実験を繰
り返した。
また、自らも青銅製の臼砲を鋳造するなど研究を進め
た。
そして、西洋砲術を 自己の流派として確立するまで行
った。
この秋帆に、伊豆韮山代官の江川英龍(坦庵)は、部
下を入門させたりもして、近代砲術を学んだ。
また、江川英龍は、伊豆韮山に反射炉を築き、日本に
西洋砲術を普及させた。
英龍は、1837年のモリソン号事件の時に、大きな関心
と危機感を持った。
しかし、当時の砲術技術と言っても古来からの和流砲
術で、この実態に危機感を持ったことから、この行動を
起こしたのだった。。
佐久間象山も英龍の弟子になっている。
また、浦賀奉行所の中島三郎助の話もある。
中島三郎助も、高島秋帆の砲術を学び、幕府要人の視
察時には大砲試射を披露したという。
そして、その腕前は幕府から高く評価されたという。
1842年に、与力に取り立てられたという。
1818年、カール・マルクス(ドイツ、哲学者、経済学者、
革命家)が生まれた(生没年:1818年~1883年)
1819年(文政2年)3月、渡辺崋山が26歳の時、日本橋百川
楼(ももかわろう)で書画会を開いた。
「鷹見泉石像」国宝(1837年作)
1819年3月、幕府が、飛騨国森部(もりぶ)蔵柱金山、和佐
保・三ツ谷銅山の経営を試みた。
1819年閏4月、幕府が、江戸・京都・大坂・伏見以外の真鍮
製造の禁止をやめ、各地での自由製造を許した。
1819年6月、幕府が、三橋会所頭取の杉本茂十郎を罷免し、
三橋会所・伊勢町米会所を廃止した。
茂十郎は町奉行所御用達も解任された。
廃止の理由は、茂十郎の米投機の失敗、強圧的な資金
徴収、会所の不明朗な会計、後ろ盾になっていた北町奉
行の死去などが重なった。
茂十郎がやっていた事は買米、買米には反対の声が仲
間にあったが、無視して、茂十郎は買米を行なった。
大阪の堂島米市場の始まって以来の高値が続いた。
しかし、しだいに資金が続かなくなった。
また、茂十郎は、幕府への多額の冥加金上納も行なっ
た。幕府からの見返りもあったが・・、
そしてまた、町奉行扱いの公金貸付まで手を出した。
資金難となり、冥加金上納の延期を願い出たりして、
大穴を開けた。
そして、幕閣が交代し、町奉行も交代するという事態
が起きた。
杉本茂十郎が失脚すると、十組問屋の勢力は衰え、樽
廻船側は、この機を逃さず菱垣廻船の領分に進出した。
1819年6月、幕府が、本船町の油会所を廃止した。
1819年7月、物価引き下げ令
幕府が、米価下落のため全国に諸物価引き下げを命じ
た。
幕府は、大阪の問屋仲間を通じて、全国の市場支配を
強化しようとしたが、
また、幕府は、江戸・大阪市場の独占機能の回復を図
ろうと対策を講じたりもした、買米もした。
しかし、幕府の思う様にはならなかった。
物価が次第に高騰して行った。
庶民の生活は苦しめられ、幕府は令を出したのだった。
1819年7月、小判一分判を改鋳し、草文小判・草文一分判が
鋳造された。(6月説あり)
1819年9月、米価の下落により、蔵米取りを救済するため、
冬季給金が張紙値段(公定値段)100俵につき5両増で渡
されることとなった。
1819年10月26日、浮世絵帥の勝川春英が没した(58歳)
1819年10月、幕府が、伊豆諸島の産物交易を江戸鉄砲洲の
島会所扱いとした。
1819年、塙保己一が編纂した「群書類従」正編の刊行が完
結した。
1819年、小林一茶の随筆・発句集「おらが春」ができた。
1819年、アメリカが、スペインからフロリダを購入した・
・購入したと言っても、
本当は、アメリカ・インディアンの方々の土地。
アメリカ・インディアンの方々は、不法な白人の占拠
に、1842年に至るまでゲリラ戦で戦い続けた。
ショウニー族のテクムセ族長の分身ともいうべきオセ
オーラは、数千人のセミノール族をも動員して、抵抗を
し続けた。
このチェロキー族は、1821年に、新聞も刊行したりす
る、読み書きができる知的な人々だった。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1818年、幕府は、鎌倉で国産大砲を試射した。
因みに、日本初の大砲は、天正年間(1573年~1591年)
に、豊後の大友宋鱗が、南蛮船から火砲数門を買い入れ、
実戦に使用したのが最初とされている。
宋麟は、それを「国崩し」と名づけ、薩摩・島津氏と
の戦闘などに使用した。
その当時の石火矢(大砲)について「昇竜の雲のごと
き黒煙を奔流し、その鳴るさまは驚雷のとどろくごとく、
聞くものその耳を被わないものなし」とある。
その威力については、轟音による威嚇と、破壊の威力
はあったが、
大量の火薬を消費するわりには、殺傷力がなく、
無駄が多いと判断された様で、鉄砲の様に製造して武
器として積極的に使用すという方向に行かなかった。
この1818年の幕府の大砲試射があったが、
国産大砲の製造を手がけたのは、幕府自体のほか、数
藩あった。
もっとも進んでいたのは佐賀藩だった。
薩摩藩も比較的早く完成に結び付けたが、佐賀藩に比
べると4年~5年、遅れていた。
佐賀藩は、1850年に、佐賀城下の築地(現在:佐賀市の
長瀬町)に大銃製造方を置いた。
そして、日本初の洋式反射炉を作り、国内で始めて鉄
の大砲の鋳造に成功した。
この大砲製造は、ペリー来航の一年前の1852年だった。
技術は、蘭学から導入した。
佐賀10代藩主の鍋島閑叟の命によって、オランダの技
術書を翻訳し、理論および仕組みを学び、習得した。
その後の1853年に、新たに多布施反射炉も造り、幕府
からの大砲注文をこなした。
そして、幕府は、ペリーが翌年の再来を告げてアメリ
カに帰っている間に、江戸品川のお台場に立派な大砲を
据えつけた。佐賀藩の製造だった。
一方、次の話もある。
当時、日本で砲術で名を得ていた長崎会所の調役の高
島秋帆は、1832年~1835年に、オランダから兵学書や砲
術書を取り寄せ、
また、モルチール砲(臼砲、きゅうほう)や、燧石(す
いせき、火打石のこと)式ゲベール銃を輸入し、西洋砲
術の研究を始めた。
そして、荻野流の砲術を修めて、和流砲術にも通じて
いた秋帆は、出島に出入りして、自らの立場を生かして、
より進んだ西洋の砲術の知識を得た。
そして、秋帆は、取り寄せた西洋砲を用いて実験を繰
り返した。
また、自らも青銅製の臼砲を鋳造するなど研究を進め
た。
そして、西洋砲術を 自己の流派として確立するまで行
った。
この秋帆に、伊豆韮山代官の江川英龍(坦庵)は、部
下を入門させたりもして、近代砲術を学んだ。
また、江川英龍は、伊豆韮山に反射炉を築き、日本に
西洋砲術を普及させた。
英龍は、1837年のモリソン号事件の時に、大きな関心
と危機感を持った。
しかし、当時の砲術技術と言っても古来からの和流砲
術で、この実態に危機感を持ったことから、この行動を
起こしたのだった。。
佐久間象山も英龍の弟子になっている。
また、浦賀奉行所の中島三郎助の話もある。
中島三郎助も、高島秋帆の砲術を学び、幕府要人の視
察時には大砲試射を披露したという。
そして、その腕前は幕府から高く評価されたという。
1842年に、与力に取り立てられたという。
1818年、カール・マルクス(ドイツ、哲学者、経済学者、
革命家)が生まれた(生没年:1818年~1883年)
1819年(文政2年)3月、渡辺崋山が26歳の時、日本橋百川
楼(ももかわろう)で書画会を開いた。
「鷹見泉石像」国宝(1837年作)
1819年3月、幕府が、飛騨国森部(もりぶ)蔵柱金山、和佐
保・三ツ谷銅山の経営を試みた。
1819年閏4月、幕府が、江戸・京都・大坂・伏見以外の真鍮
製造の禁止をやめ、各地での自由製造を許した。
1819年6月、幕府が、三橋会所頭取の杉本茂十郎を罷免し、
三橋会所・伊勢町米会所を廃止した。
茂十郎は町奉行所御用達も解任された。
廃止の理由は、茂十郎の米投機の失敗、強圧的な資金
徴収、会所の不明朗な会計、後ろ盾になっていた北町奉
行の死去などが重なった。
茂十郎がやっていた事は買米、買米には反対の声が仲
間にあったが、無視して、茂十郎は買米を行なった。
大阪の堂島米市場の始まって以来の高値が続いた。
しかし、しだいに資金が続かなくなった。
また、茂十郎は、幕府への多額の冥加金上納も行なっ
た。幕府からの見返りもあったが・・、
そしてまた、町奉行扱いの公金貸付まで手を出した。
資金難となり、冥加金上納の延期を願い出たりして、
大穴を開けた。
そして、幕閣が交代し、町奉行も交代するという事態
が起きた。
杉本茂十郎が失脚すると、十組問屋の勢力は衰え、樽
廻船側は、この機を逃さず菱垣廻船の領分に進出した。
1819年6月、幕府が、本船町の油会所を廃止した。
1819年7月、物価引き下げ令
幕府が、米価下落のため全国に諸物価引き下げを命じ
た。
幕府は、大阪の問屋仲間を通じて、全国の市場支配を
強化しようとしたが、
また、幕府は、江戸・大阪市場の独占機能の回復を図
ろうと対策を講じたりもした、買米もした。
しかし、幕府の思う様にはならなかった。
物価が次第に高騰して行った。
庶民の生活は苦しめられ、幕府は令を出したのだった。
1819年7月、小判一分判を改鋳し、草文小判・草文一分判が
鋳造された。(6月説あり)
1819年9月、米価の下落により、蔵米取りを救済するため、
冬季給金が張紙値段(公定値段)100俵につき5両増で渡
されることとなった。
1819年10月26日、浮世絵帥の勝川春英が没した(58歳)
1819年10月、幕府が、伊豆諸島の産物交易を江戸鉄砲洲の
島会所扱いとした。
1819年、塙保己一が編纂した「群書類従」正編の刊行が完
結した。
1819年、小林一茶の随筆・発句集「おらが春」ができた。
1819年、アメリカが、スペインからフロリダを購入した・
・購入したと言っても、
本当は、アメリカ・インディアンの方々の土地。
アメリカ・インディアンの方々は、不法な白人の占拠
に、1842年に至るまでゲリラ戦で戦い続けた。
ショウニー族のテクムセ族長の分身ともいうべきオセ
オーラは、数千人のセミノール族をも動員して、抵抗を
し続けた。
このチェロキー族は、1821年に、新聞も刊行したりす
る、読み書きができる知的な人々だった。
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