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(増補版)208D2/3:気になった事柄を集めた年表(1817年~1818年)

2015-09-19 04:28:07 | 日記
題:(増補版)208D2/3:気になった事柄を集めた年表(1817年~1818年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1818年(文政元年)1月、幕府が、塙保己一(はなわほきい
 ち、国学者)に、和学講談所(わがくこうだんしょ)の
 勤務を命じた。
  和学講談所は、1793年に、幕府の許可と、下付金を受
 けて、江戸麹町に、塙保己一が創立した学問所で、
  林大学頭の指導の下で、国史・律令の資料の編纂や講
 義をおもな事業とした。
  「群書類従」などを編纂した。
  明治元年(1868年)1月まで続き、明治政府の修史局に
 引き継がれた。
  学問所としては、当時、漢学が主流の中で、この様な
 特徴ある学問所が開かれた意義は高い。
  本学問所の修史事業は、後世に多大な貢献をしている。
1818年1月、岩崎灌園(いわさきかんえん、本草学者)が、「
 草木育種」を刊行した。
  江戸時代の園芸書的なもので、
  例えば、「オオヤマレンゲ」は、日本に自生している
 ことが、当時、すでに知られていたが、この草木育種で
 は、雄株に紅白の2種類があるとしている。
  因みに、今・現在のオオヤマレンゲの解説では、モク
 レン科モクレン属の落葉広葉樹の低木で、
  花は白、開花時期は5月~7月、分布:本州の関東地方
 から九州、生育地:山地の林の中、樹高:2~4メート
 ルとある。
  また、花径:5~10センチくらいあって大形、香り
 の良い白い花を下向きにつけ、花被片は多くて9枚くらい
 で、花の中心部には紅色の雄しべがたくさんある・・と
 ある。
1818年2月15日、幕府が、京都定職以外の銀箔製造を禁じた。
  また、江戸呉服町に京都銀箔所を再建した。
  1775年5月に、幕府は、既に、令を発し、諸国で箔を打
 つことを禁じていた。
  当時、金座や銀座の監督の下で、免許を受け、営業を
 行なっていた箔屋は、他業種と同様に株仲間を形成して
 いた。
  中でも、京都の銀箔屋は、江戸にも共同市場を設置し、
 強大な勢力を持っていた。
  加賀藩は、文化時代(1804年~1818年)や、文政時代
 (1818年~1830年)ころに、藩内が、ますます華美とな
 り、爛熟の極に達していたという状況や、
  風俗の奢侈(しゃし、度が過ぎて贅沢なこと)なこと、
  また、大量の金銀箔の需要が増大していること、
  そして、その購買のための加賀藩の資金の流出と、そ
 れによる財政圧迫があるため、
  その対策の為、藩内自給の必要性を痛感した。
  藩は、自給計画の元に、金沢安江木町に自給製造を命
 じた。
  命じられた町人は、藩から特許を得て、京都から職人
 を呼び寄せ、大々的に製造を開始した。
1818年3月7日、3代目尾上菊五郎が、清元「保名(やすな)」
 (篠田金治作詞、清沢万吉作曲)を江戸都座で初演する。
  保名は、歌舞伎の舞踊曲のこと。
1818年4月13日、伊能忠敬(いのうただたか、測量家、地理
 学者)が没した(1745年~1818年、74歳)
  日本の偉大な測量家であった。
  隠居後の残りの生涯を、一つの事に極めた。そして、
 大きな業績を遺した。
  生涯でやる事をやって後、49歳の隠居以後にも、この
 様な大業績を遺した。偉大だった。
1818年4月16日、幕府が、真文二分判金(しんぶんにぶきん)
 を発行した(文政期の貨幣悪鋳の始まり)。
  二分判(にぶばん)とも言う。
  当時、流通していた元文小判の1/2の量目である上、品
 位が14%低かった。
  1835年に、通用停止となった。
  今の時代は、良いか悪いかは別にして、すべての国が
 紙幣でことをなしている。実質的価値は全くない。
  特に、世界の基軸通貨となっているアメリカの米ドル
 は、どんどん刷られて、世界に流出されている。
  江戸幕府のやったことの極みだ。
1818年5月、イギリス船(ゴードン)が、浦賀に来て、貿易
 を要求した。
  そのうち、イギリスの捕鯨船も、浦賀に来る(1822年)
1818年6月、蘭学者の大槻玄沢らが連署して、西洋新薬を
 オランダに注文することを幕府へ建議した。
1818年7月、画家の亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)が、油
 絵の具の製法を門人に伝えた。
1818年12月、本田畑甘藷植付禁令
  幕府が、みだりに本田畑に甘藷をつくることを禁止し
 た。
  1643年には、既に、本田畑での五穀以外の商品作物(
 木綿・煙草など)の栽培も禁止されていた(田畑勝手作
 の禁令)
  しかし、この法令は干渉と見なされて、まったく不評
 であった。
  17世紀の終わり頃になると、商品作物の生産が盛んに
 なり、法令無視で作って売却益で年貢米を購入して納入
 する者も出始めた。
  また、各地でコメの生産量も増えて米価が低迷して来
 た事から、諸藩は商品作物の栽培を奨励して、農家の収
 入を増加させて、納税させて藩の財政を安定させようと
 するところも増加した。
  この様に政策も二転三転した。
1818年、幕府が、地図上で、江戸城を中心に朱引きの範囲
 を定め、御府内(ごふない)とした。
  御府内は、町奉行の支配に属した江戸の市域のことで、
  東は、亀戸・小名木辺り、
  西は、角筈村・代々木辺り、
  南は、上大崎村・南品川町辺り、
  北は、上尾久・下板橋村辺りの内側と定められた。
  だが、境域は一定しなかった。
1818年、農学者の大蔵永常(おおくらながつね)が「老農
 茶話」を刊行した(1804年説あり)。
  1818年には、「農家益続編」を書いたという説もある。
  永常は、生涯に80冊あまりの農書を著した。
  そして、彼は、自愛即他愛の立場から、自他ともに栄
 える道を説いた。
  そして、民に利を得させてはじめて為政者の利となる
 と主張した。
  彼は、商品作物の栽培・加工を重視した実践指導を行
 った。
  老農茶話には、稲の乾燥法、科の繊維・織布の研究書
 となっている。
  農家益続編2巻などには、はぜの栽培や製ろう技術など、
 特用作物(とくようさくもつ、食用以外の特別の用途に
 あてるため栽培・加工する農作物で、綿・桑・茶・麻・
 煙草・藍など)の栽培とその加工法を詳しく書いている。
1818年、大田南畝(おおたなんぽ、文人、狂歌師、戯作者)
 が、狂歌狂文集「万紫千紅(ばんしせんこう)」「蜀山
 百首(自選歌集)」を刊行した。
  南畝は、別号は蜀山人(しょくさんじん)、また、狂
 歌名は四方赤良(よものあから)。
  幕臣(支配勘定役)である。
  生没年:1749年~1823年、江戸牛込仲御徒町に生まれ
 た。
  1794年の人材登用試験には、見事な成績で合格したと
 いう(学問吟味を受けて首席となる)。
  大阪銅座出役や長崎奉行所出役などの勤務をこなし、
 かたわら江戸文人の代表格として名声を得ていた。
1818年、渡辺崋山(わたなべかざん、洋学者、南画家)が、
 「一掃百態」を売成した(崋山が25歳のとき)。
  崋山は三河国田原藩の家老。
  生没年:1793年~1841年(48歳)
  一掃百態は、漫画的に寺子屋風景を描いた作品。
  田原藩の藩士の子として、江戸藩邸内で生まれ、8歳で
 出仕した。
  貧困とたたかいながら儒学を学び、生計のために画を
 修行し、学んだ。
  1824年の31歳のとき、父の死により家督を継ぐ、
  1832年の39歳のとき、年寄役末席(家老)となる。
  藩務にあたり、殖産興業に努めるとともに、海防掛に
 任じたことから蘭学にも通じ、高野長英らとも交わった。
  開明的政策を行なった。
  1937年の44歳のとき、浦賀に来航したアメリカ船のモ
 リソン号に対し(モリソン号事件)、異国船打払令によ
 って対処したことを、世界に目を覆っているとの立場を
 とった。
  そして、1939年の46歳のとき、幕府の対外政策を批判
 した「慎機論」を著し、
  1939年5月に、蛮社の獄に連座した。
  そして、同年の1939年に、国元に蟄居を命じられ、
  1941年に、崋山の窮迫を助けるために、弟子たちが江
 戸で開いた画会が、蟄居中に不謹慎ととがめられ、藩主
 に塁が及ぶのを恐れた崋山は自殺した。
1818年、イギリスのインドの土地を奪う行為に手を貸した
 イギリスのインド総督のウォレン・へスティングスが死
 んだ。
  イギリス東インド会社に、1750年に、赴任した。
  そして、クライブ中佐の指揮下で、インド知事や総督
 を歴任した。
  その後、イギリス議会で、インド統治が過酷だとも美
 しく言いながらも、
  その右の手の言い方と違った左の手の方の言い方で、
 イギリスの指示で、インドの地を奪い、利益を奪って行
 った。
  イギリスは言った、
  「統治は、正義と温情を旨としなければならない・・
 が、ただし、金を送れ、もっと送れ、もっともっと送れ」
 の命令を出した。
  ヘスティングスは、「矛盾した命令だ」と泣いた。
  このインド総督は、命令に従うため色々な暴虐をした。
  イギリスは、何時も、この様な狡(ずる)いやり方を 
 した。
  その1つが、ある地域のインドの藩王に、
  「イギリスの軍隊を貸すから、隣の国を占領してしま
 え。そして、私にはその代償として40万ポンドを支払い
 なさい」・・とそそのかした。
  その「そそのかしの言葉」は実行された。
  それが、1774年の「ロヒラ戦争」である。
  結局、この可哀想な戦争となった地は、イギリスが横
 取りして、1801年に、イギリス領になってしまった。
  この事を、歴史家マコーレーは、
  「ロヒラ戦争の目的は、他国や人に対し、何も悪い事
 を加えたことのない善良な人々が、
  その善き人々から、善き政治を奪い、
  また、その善良な意思に背かせて、嫌だという様な虐
 待的政治を押し付けるという事だった。
  戦争を仕掛けられるロヒラ人は、平和を望んで哀訴し、
 嘆願し、また、巨額の金を積んで、ひたすら戦争を避け
 たいとしたが、すべては無駄だった(イギリスは拒否し
 た)。
  戦争に至る道しか示されなかった。
  血なまぐさい戦争が、こうして起こった。
  インドに於いて、最も善良で、最も立派であった国民
 は、貪欲で無知で残虐無類な暴君の手に委ねられ、豊か
 な国は、今やみじめな、最も貧乏な地に成り下がった」
 ・・と批判した。
  イギリスは、この様な卑劣な手で、インドの地を奪っ
 て行った。
..
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