2月23日、酒田市総合文化センターで飽海地域史研究会「酒田市史を読む」と題して、山形史学研究会の須藤英之氏を講師に通史講座が行われた。
須藤氏は若い。酒田出身で山形大学の考古学の方に進まれ、卒業後山形市の教育委員会に所属、山形県の遺跡を中心に発掘し著書を出されている。
酒田弁の名残の講座は、優しく聞きやすい。
教員免許も取られているそうで、子供達への授業でも楽しく進むことが出来そうだ。
今回は、酒田市史でも中世の酒田を題材に、今酒田(対向こう酒田)の龍厳寺(りゅうごんじ)に残る「板碑」とは何かから始まった。
板碑とは、12~17世紀初頭にかけて、塔婆として作成された石の供養塔だそうだ。
全国には約4万基が存在するが、山形県内には約2000基、飽海地区は数は少なく80基ほど確認されている。
全国には約4万基が存在するが、山形県内には約2000基、飽海地区は数は少なく80基ほど確認されている。
形も、一般的は頭に尖った帽子を載せた四角柱の中央上に梵字を彫り、蓮の華の模様や年号謂れなどが刻まれている武蔵型板碑に比べて、
飽海ではただの天然石の中央を平たく削り、梵字やら謂れなどを刻んだ飽海形板碑が残されている。
酒田旧市内の板碑では、龍厳寺の板碑が古いが、東平田にある阿弥陀三山の居た日は、1314年の年号があり、飽海最古の板碑とも言われている。
ただし、板碑はイースター島のモアイのように動く。
向こう酒田(宮野浦)の飯盛山に在った法泉院から、慶長6(1601)年に現在の今酒田の龍厳寺に寺の移転と同時に移ってきた。
東平田にある最古の板碑も、池田家文書を読み解いたOさんの話だと、朝日山城が火災に見舞われた時、城主の子供を救うために犠牲になった女性の為に「子守石」として板碑を建てたと言う部分があるそうだ。
地元の道路を車で走っていても、「ああ、古い石碑があるな。」とぼぉ~と見ていただけだったのだが、それは板碑が正解で色々な人々の想いが込められているんだと、この日の成果を考えた。