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1月19日金曜日の夜、総合文化センターは混んでいた。
普通の教室には入れず、和室での講義で、襖で仕切られた二間続きの和室は、隣も賑やかだった。
普通の教室には入れず、和室での講義で、襖で仕切られた二間続きの和室は、隣も賑やかだった。
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この回は飽海の人々と新庄からの3名も加わっていた。
暫く飽海地域史研究会の説明が続く。
暫く飽海地域史研究会の説明が続く。
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1年半の飽海地域史研究会の歴史(?)が説明される。
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そうか、こんなに勉強したのかって、私がサボった回もある。
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庄内、飽海に住んでいて、地域の著名な人を知らない。
左から、清河八郎、本間郡兵衛、松森胤保。
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今回は、農業社会学に貢献した豊原村の「後藤善治」についてだった。
残念ながら、まったくもって彼のことは知らなかった。
農業社会学の観点からすると、全国的に後藤善治は有名なのだそうだ。
善治は明治11年、伊藤巳之助・芳の次男として誕生する。その頃の農家の次男三男は若勢として別の村の農家へ雇用される。
元禄の頃から給米として若勢やめらし(女性)に、払うようになっていた。
農家の長男は通常、農家の田畑を継ぐ。次男三男は外に出る。
しかし、牧曽根村を始めとする庄内は、男子にではなく女子に跡を継がせ婿を取る。
若勢はめらしと一緒になることも多かったが、善治は優秀で後藤丹蔵家の芳江(幼名鉄代)と夫婦になる。
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後藤善治は明治26年から晩年の昭和11年まで、事細かに書いた善治日記が、貴重な農業の日誌として全国的に知られるようになった。
日々の暮らしの他、天気もしかり、非常に重要な史料となっている。
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