無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

山形駅西口広場のマルシェ

2024-05-31 16:52:36 | 社会


日曜日の会議は、来年7年の7月に全国女性建築士連絡協議会(略して全建女)が山形市を会場に開催される。その為の準備会が月イチで行われる。
会場が予定の所から駅西の施設に移った。
駅西の広場では朝からマルシェが開かれて、駐車場も広場も混んでいた。


会議が始まるまで時間に余裕があったので、マルシェの中を歩いてみた。


メダカが売られている。赤と白のまるで錦鯉のようだ。


金魚やスーパーボールすくいは見たことがあったが、花すくいは初めてだ。


基本的に、自分で作った物を売っている。


客も売り子も若い人が多い。


丁度お昼頃なのだが、アルコール類が冷やされて並べられていた。











似顔絵描きコーナー


手作りバック





この長い行列は何だろう?
暖簾に米沢牛と書かれている。


大きなスピーカーを設置して、元気なDJが活躍している。


ソフトドリンク&アルコール


ゴミは自分たちでぽいぽい


山形県民会館の2階ホールからの景色だ。



6月にも行われるようだ。


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新庄市から見た鳥海山

2024-05-31 15:45:34 | 動物・自然


先週の金曜日にも山形へ行き、一日開けて日曜日も山形だった。
それでも、この日はFさんに乗せて貰って楽ちんに鳥海山を撮すことが出来た。
庄内や秋田県の象潟から見る鳥海山は裾野が長いが、新庄や横手方面からは出羽富士と呼ばれる姿を見せてくれる。


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米粒写経 談話室 2024.5.20 ~居島親方/パの器~ ※冒頭40秒のみ音量小

2024-05-22 22:10:55 | 音楽・芸術・文学
 


米粒写経 談話室 2024.5.20 ~居島親方/パの器~ ※冒頭40秒のみ音量小

最初の何十秒かは音がへんですわん。しばし勘弁!


米粒写経×松崎健夫 映画談話室2024.05.20 ~アイアンクロー/辰巳 /ほか~
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5月20日酒田山王祭

2024-05-21 12:33:21 | 酒田


5月19日は晴れ、21日も晴れだったのに、本祭の20日は朝から雨が降っていた。


飽海地域史研究会の小野寺先生が監修した時代行列を見るために、会場の旧資料館前広場に向かう。
ここの大通りは、酒田大火で防火帯としての広さのある路が欲しいと作られたもの。





稚児さん達の乗る屋台。昔は上と下の2台はあったものだが、旧市内に住む子供たちの数が減り、親戚縁者から集めても1台にしかならない。
乗っている人達には良い思い出になったと思う。


日枝神社には3台の神輿があるという。
皆さん雨の中大変ですね。


下の日枝神社の宮司さん


酒田市長を中心に市議会議員の方々が続く。


神輿担ぎの八波会と獅子の会。
提灯を掲げる粋なお姉さん。



木遣り保存会


全体のMCはKさん(若い頃にはキティちゃんの声も担当されていた。)


酒田の歴史を語る時代行列の
要の羽黒山の山伏さんが劇をリードしていく。
(山伏や弁慶の衣装や着付けの為に、鶴岡市羽黒町からわざわざ来て頂いた方が私の隣に座っておられた。)


義経主従は、鎌倉殿の追手を逃れて、鼠ヶ関(関所)から酒田を目指す。


源九郎義経。


弁慶が杖で地面を突いた所、そこに湧き水が出た。(歴史にあり)
その湧き水を義経に差し上げた。


追手を気にして2手に別れたが、弁慶は羽黒山に上り、義経の正室郷御前(さとごぜん)の安産祈願を願って、羽黒山の鏡池に鏡を投げ入れる。

郷御前は義経と共に平泉に逃げ落ちたが、義経と共に命を落とす。(平泉に小さな墓あり)
ちなみに美人で有名な静御前は義経の側室で白拍子であった。

 

変わって2幕目、鎌倉殿に滅ぼされた奥州平泉の藤原氏滅亡の折、藤原秀衡の妹の徳尼公が36人衆のお供を連れて酒田の宮野浦に逃げ延びた。
途中、様々な場所で隠れながら逃亡(?)を続け、一度は羽黒山の東側の立谷沢にも隠れ住んだが、源頼朝が羽黒山に祈祷にやって来る事を知り、酒田に向かった。






舞台の上には、36人が載るのは少々無理があったのだが。


徳の舞(徳尼公)のお出まし。
あれ?見たことのある人だが。





 

白崎映美さんだった。まぁなんて似合うこと。
(ただ、あの頃の女性の着物としては、帯は半幅でウエストではない位置に絞めていたのではと思えるのだが。どうだろ。)
そして酒田の歴史を語りだすのだが。


もうね、彼女の独壇場。
歌あり、踊りはしなかったが。


「いいが、おめさんがだ、よく聞げの。まぐまぐでぅでら・・・。」さがた弁トークが始まった。観客からはヤイのヤイの!! 拍手喝采!


オールキャスト登場で2幕が降りる。


3幕は時代パレードで現在へと続く。


日吉丸の山車がやって来た。



先頭に乗るのは松尾芭蕉と曽良
ここで一句を詠む。


若者たちが大活躍。











酒田大火の後に作られた大獅子
この子はさくらちゃん


この子は男の子。名前は忘れた。
この大きな口の中に、幼児達を入れて口パックンすると、元気に育つと云う。
勿論、泣き叫ぶ子供多々。親たちは笑う。



花魁道中が始まった頃には、雨が上がっていた。
良かった良かった。


可愛い三人の禿達。


放蕩息子の旦那と花魁の悲恋を舞う。


今年の花魁は女子高校生。


花魁は体力勝負。重いカツラと衣装。それに独特の歩き方で筋肉痛は必死。
この花魁道中は、酒田花魁の会の皆さんが演じてくれている。
小中学校生も参加していると聞く。今年の花魁は過去に禿を演じていたそうだ。




























猿回しもやってきた。


人混みを歩くのは疲れるので、脇道に逸れる。
最上屋旅館の軒先には、酒田祭の提灯が下がっていた。
また雨が降ってきた。


下の日枝神社に着く。



神宿に寄るのを忘れたことに気がつく。


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縄文の遺跡・小山崎遺跡

2024-05-15 10:28:45 | 歴史


遊佐町の丸池様の西側に、国指定遺跡・小山崎遺跡(縄文)がある。
丸池様や牛渡川同様、鳥海山の湧水が豊富に溢れ出る地域で、その水のお陰で遺物が新鮮に(?)保存されていた。
遺構も見たいが、発掘された遺物も自由に見ることは出来ないのかと思っていたら、遊佐町が2033年までに整備するらしい。
周りの杉を伐採して、縄文時代に擬えて栗やクルミを植えるらしい。
楽しみだな。青森に行かずとも、縄文に触れられる。

しかし、2033年まで、私は生きているのだろうか。それも心配だ。




酒田市ではなく、遊佐町だったから整備が可能だったんだな。
酒田市ときたら・・・以下略

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NHK・とく6徳島で放送された特集『能登に寄り添うボランティア』

2024-05-14 07:31:59 | 防災
NHK・とく6徳島で放送された特集『能登に寄り添うボランティア』
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酒田総合文化センターから料亭香梅咲へ

2024-05-13 14:08:36 | 酒田


5月11日、飽海地域史研究会が酒田市総合文化センターで行われたのだが、建築士会支部総会が同日に時差有りで行われるため、途中で抜けて会場の香梅咲に向かう。
昨年も同じように移動した記憶があった。あの日も暑かったので、出来るだけ日陰を求めながら裏道を通った。

寿町を歩いていると、警察の黄色の規制線テープが見えた。数日前の火事の跡かと窺える。


酒田市では、ここ何日も火事が起こっている。5月13日では北目で3棟が焼け怪我人も出た。
ただその前の連続して起こっている火事は、殆どが空き家か留守中で、積んであった丸太の火事も有り、もしかして放火ではと疑心暗鬼になっている。

この道は私が幼稚園と小学校の8年間にも渡って通った道なのである。


子供たちは近道を使う。
ここは厳島神社で、通称弁天さん。子供の頃は毎日のように遊んだ境内だ。



この右側の方にはシーソーなど遊具も設置してあり、子供たちの安全な遊び場だった。
右奥の赤い稲荷さんは、ちょっと恐い。その後ろには雨に濡れた雑誌なども転がっていたものだ。



手水に用いるべき石なのだろうが、私などこの中にトップリと入って砂など持ち込んで遊んでいた。



社務所の後ろは一段高い石垣が積まれており、地持院(後に若草幼稚園も併設)で、現在は酒田大仏が建っておられる。
私達が子供の頃はその姿はなく、大正3年(1914)に建立された1代目の大仏は、戦時中の金属不足の折に軍から摂取されていた。
現在の大仏は平成4年(1992)に新たに建てられたものである。

石垣の高さは3m強。昔は砂の斜面で、小学校の悪ガキ隊は「ここを飛び降りね~と、仲間にしてやらね~。」の掛け声で、ビョンビョン飛んだものだ。
結構小さい子も飛んだと記憶している。
飛び降りた時の足の裏がじ~んと痛かった。



厳島神社の床下は広い。ここに缶からやっこが住んでいた気がする。
日枝神社には記憶がないが、日和山公園の安らぎの塔の近くの招魂社には、総天然色と言うやっこが住んでいた。


厳島神社を抜けて、伝馬町の小松屋さんの角から裁判所へ行く道に出る。
変形の十字路を歩くと庄内三十三観音の光国寺さんへの道につながる。


地持院さんも弁天さんもしかり観音さんも我々の遊び場だった。
なおも進む。


料亭が並ぶ台町に向かう。
左が現在相馬樓(元料亭相馬屋)で、右が料亭香梅咲だ。
この小路に向けて相馬樓に格子の窓が着いている。
その昔、料亭が賑わっていて、外に三味線弾きが現れると、この窓からお客さんが声をかけて、外で弾く三味線の音色を楽しんだ。
昭和の時代なら、ギターの流しと言った所だろう。


台町の通りから観音さん方面を見る。




香梅咲の門に着く。この料亭には梅の木が沢山あって、そこで収穫した梅酒でいつもは乾杯する。


玄関の中から手を降っている人が居た。思わず手を振り返すと、相手は女将さんだった。
女将さんはなかなかの美人だ。


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十三湊安東(とさみなと・あんどう)へ

2024-05-08 12:54:32 | 歴史


花盛りの林檎畑と岩木山


「ご覧あれが龍飛岬、北の外れと~見知らぬ人が指をさす♫」
竜飛岬までは行かないが、方向として同じ津軽半島への道を行く。


能代から一度国道7号線に降りて二ツ井から大館で東北縦貫自動車道路ー津軽自動車道路で弘前を迂回して、十三湖(じゅうさんこ)へ向かう。
十三湖はシジミで有名な淡水と海水が混じった湖である。
そこに栄えたのが、十三湊と書いて「とさみなと」と読む。
音だけ聞くと、四国の湊かと思ってしまうが、本当に古い湊町なのである。

相変わらず、携帯のGoogleとカーナビが示す方向は一致せず、無駄な回り道を進むことを繰り返す。

グネグネ道の村中や、岩木川の土手を走っていると、少し高台になったのか、広く穏やかな十三湖が見えた。広い!!



何処へ行くのが正解なのか、カーナビに示した目的地は、1本の看板のみが建っていた。


これは遺憾。まずは港を探そうと道を走る。
家と家の間から、港らしい場所を見つけ入る。


十三湊漁港である。




十三湖は大きかった。


この橋の下を潜ると日本海に出る。


浅くて底が見える。水も綺麗だ。
しかし、ここにいても湊のことが分からないので先に進むことにした。


2つの駐車場をハシゴして、中之島駐車場に着いた。



露店も出ているし、人も多い。



看板を見ながら中之島へ橋を渡ることにした。


木道を渡る。後ろからオートバイも追いかけてきた。
木板に隙間がある時には注意が必要だと案内には書かれていたが、もしかしてこの橋は人間用歩道ではなく、車も通るのではないかと思う。
島には車が置いてあった。


湖は浅い。遠くに点々と見えるのは、シジミを獲っている人らしい。
小さな点々は子供達のようだ。


料金を払うとシジミ取りに挑戦出来るのだが、時間が決められていて案外早く終るみたいだ。


こちらの橋は、先程渡ってきた物だが、ここは日本海に通じていて、普通に漁港としての役目を持っている。
下を船が通るので、橋を上るにちょっと勾配がきついのである。


中之島には色々施設があって、最も大きいのはキャンプ場のコテージのようだ。


途中での道路にも、八重桜の花が見頃だった。少しだけ桜の時期が遅いのかもしれない。やっぱり青森なんだわ。



資料館に入る。
受付で入場料を払いながら「何処に行ったら遺跡跡が見られるのですか?来る途中で見かけたのは、何もない所に立て札だけでした。」と話すと、
「そこも遺跡なのです。発掘調査が終わって、遺物は資料館に運んで、平らに均しました。そんな所が沢山あるのです。」と教えられ、納得する。


料金を払って展示室へと向かう途中に、五所川原市史が並んでいた。
時間があったら、じっくりと見ることも出来ただろうに。
そうか、ここ十三湊は五所川原市なんだな。


北を向いているのではなく、岩木山を背景に十三湊を紹介している。


十三湊は環日本海交易で重要な位置を占めている。
日本海沿岸の北前船交易に限らず、大陸や樺太も大きく関わっている。



中央には南蛮船(中国船)の模型が飾られていた。


十三湊と三津七湊の所に、酒田湊も載っている。
十三湊は津軽豪族の安藤氏の湊なのだ。


戦いに破れた安倍氏が、安藤氏(安東氏)と名前を変え、東北の3箇所に居城した。










十三湊安東氏は南部氏に負け、秋田土崎と檜山に移る。


この他、古文書(レプリカだけど・照明に曝されているから仕方がない)も沢山並んでいた。


日本海の潮の流れ。これと風を利用して航海した。



台場で発見された古銭の数々。種類もこれの倍の数があった。
それだけ交易が盛んだったろう。

一度受付のホールに戻ると、「是非、そちらのドアの先も見てください。縄文の遺物があります。」と教えられる。
縄文は大好物である。


こんなに無造作に置いてて良いの?と写真を取る。見たことのない縄目である。


こんなに精巧な縄文土器にはどきどき。


沢山の土偶もあったが、一番驚いたのは五月女萢 遺跡から発掘された「人面浅鉢」だった。
何に使ったのだろう。
この他、玉を造る入れ物だったり、漆塗りの土器だったり、美しい石斧にも惚れる。



奥の土器の模様に驚かされる。
まるで、ピカソのゲルニカのようだ。
十二分に堪能し、資料館を出た。

朝6時に出発し、夜の20時に酒田へ到着すると言う、日帰り安東氏巡りは終わった。
帰りの高速道路の混み具合は・・・まぁ60kmで走るのなら、渋滞でも仕方がないか。



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檜山安藤(安東・安倍)の山城跡へ

2024-05-07 11:35:40 | 歴史


非常食用のアンパン、コーヒー牛乳、幾つかの果物を車に詰め込んで、朝6時に北へ向けて出発する。
カーナビと携帯のGoogleアプリがあれば大丈夫と思っていたら、この2つが全く違う方向へ行けと言う。
特に象潟IC付近で、カーナビがグルグル回りだした。

まぁ、目指すは能代なので体制に影響はない。



能代城を目指すと思っていたらそんな物はなく、正式は檜山城だった。
檜山安藤と自分も言っていたではないか。

石垣の上の山吹の黄色に見とれていたら、前方左に檜山城への登り口があった。





何故、今檜山安東の城を訪れたのかと言うと、この檜山安東は日本海交易に重要欠かせない武士だった。
酒田湊の歴史を辿ると、交易には相手側がいる。最も檜山安東の方が酒田よりも早く日本海ルートを牛耳っていた。
酒田市砂越にある砂越城とも、この檜山安東は繋がっていて、砂越城の姫君が嫁入りした先でもある。





まずは本丸を目指して山道を走る。


平たい所に出たが、ここが何なのかが解らない。


塚が建っていた。


周りは堀切と呼ばれる山の斜面を削って、段々にしたものが周りに位置している。



平らな所には武器や武士を配置し、切り立った壁を設けることによって、攻めにくくしている。


それが至る所に配置されている。
地形を有意義に利用した、戦国時代の山城なのである。



西に目を向けると高台があった。


石碑が建っていたが、これは皇室の殿下が訪れた事を記念する物だった。
歴史上の碑ではない。



能代の町と日本海が見えた。






遠くに見えるのは北神山地である。


























階段がついていたので登ってみる。


中央が一段高くなっている。建物があったのだろうと思われる。





長谷堂城の戦いの山城も面白かったが、ここは複雑な地形をうまく利用した城だと思う。











古寺方面





秋田名物に檜山納豆が有名だが、檜山はお茶の栽培でも最北だと言う。
今まで新潟県の村上が最北かと思っていたが、ここも歴史があるらしい。
オレンジ色の服を着た男性に檜山茶の事を聞いてみた。
そろそろ八十八夜でもあるが、ここは少し遅れて茶摘みをすると言う。
お茶は「買いたい」と言う人が現れたら、茶摘みをするのだそうだ。

今回は山城を訪れたが、能代の町には檜山城本丸と呼ばれる平城があったようだ。
城跡をカーナビも携帯でも位置を示した。そこは田んぼの中に見えた。



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山戸能と山五十川歌舞伎

2024-05-07 09:50:29 | 音楽・芸術・文学


5月3日、鶴岡市山五十川で「山戸能」と「山五十川歌舞伎」が上演された。共に山形県指定無形民俗文化財である。




鶴岡市長挨拶。


温海小学校でインフルエンザが流行し、出演する筈だった座揃囃子の恋慕の舞(大地踏舞)が中止となった。
座揃の後、式三番が始まった。











続いて番能「羽衣」である。


松の枝にかけられた羽衣を漁夫が家に持ち帰えようとする。








そこに天女が現れ、返してくれるようにと頼む
漁夫は天女の舞を見せてくれたら返すと言う。


天女の舞が始まった。














能が終わり、一度幕が降ろされる。


山五十川歌舞伎「仮名手本忠臣蔵・大序・鶴ケ岡社頭兜改めの場」が始まった。


能の時には客席の後部で宴会が催され、能の謡が聞こえない。
歌舞伎が始まると、一斉に舞台に集中する。


鎌倉の八幡宮に足利直義公が将軍足利利尊氏の名代として、新田義貞の遺品の兜を奉納しようとしていた。
後ろの葛籠には色々な兜が入っており、その都度遺品かどうかを確かめる。


悪役商会。



兜の見聞役として、美人の誉れ高い塩治判官の妻の顔世御前が呼ばれる。

















高師直が御前に懸想の恋文を渡すも、捨てられる。


若狭の助が間に入り、御前を逃がす。


艶やかなる御前。


大見得を切る大会の始まり。







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杉原丈夫氏講演「伊勢参宮道中記の世界」

2024-05-03 23:37:09 | 歴史

28日、山形県建築士会女性委員会が山形市で全国女性建築士連絡協議会山形大会の準備会で喧々諤々している頃、私は酒田で杉原先生の講演会に出没していた。

時は幕末に近い安政2年(1855年)三川町横内村の鈴木治兵衛(数えで27歳)が書いた「伊勢参宮道中記・24巻」を、杉原氏が手に入れた。
道中記なる物は数々あれど、24巻が良い状態で揃っているのは珍しい。



1巻から順に訪れた國名に分けられており、伊勢神宮往復と思いきや、広島(宮島)から岩国の錦帯橋、四国に渡って金毘羅山にまで書かれていた。
ついで往路と復路ではコースを変え、箱根から江戸へと向かっている。
これは当時の女性を伴う関所越え(江戸からの出女禁止)のコースに似ているのだそうだ。


江戸時代の農村では、一世一代の「お伊勢参り」に、伊勢講と言う仕組みを用い各個人が毎年積み立てをする。
ある程度お金が貯まったら、数人が順送りで伊勢に旅発つのだ。
今回は安政2年2月5日から6月9日までの130日間、鈴木治兵衛を含め6人が同行している。
この道中記を見ると、鈴木治兵衛が単なる農民とは思えない。
村の肝煎や5人組の一人なのだろうと思うが、書かれている内容も若者ながら学問を極めていると言うことだ。


いくら伊勢講でも、集まった金額では130日間もの宿賃や飲食、それに各地の土産を買うには足りない。
そんな纏まった金額を持ち歩くことも難しいだろう。すると米の売買にも当時は為替を使って商売したそうだ。
また宿泊予定の宿にも、きちんと連絡はとれていて、宿の者がかなり離れた場所にも迎えにきてくれたらしい。


この他にも様々な道中記はあるが、それに混じって道中安全ナンチャラの冊子があった。


何処の國にどんな旅籠があるのかが、ずらっと印刷されてある。
今で言う宿泊先パンフレットなのだが、インターネットがない時代でも情報はきちんと手に入れることが出来ていたのだ。


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移民政策

2024-05-02 10:55:15 | 社会
ヨーロッパの現状を見れば、移民政策が如何に社会秩序を滅ぼすかが良くわかる。
川口市のクルド人問題もしかり、想像力があれば日本の暗い未来が見えるだろう。
それに逆行して、岸田政権は移民を増やそうとしている。
何故か、私利私欲ではないのか。

岸田首相の弟の会社 と検索すると、面白いことが見えてくる筈だ。


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苺 いちご

2024-05-02 10:32:11 | 酒田


今年の苺は甘い。
どんどん値段も下がってきて、惜しみなく買える。

しかし、我が家のプランターの苺は、やっと花が咲いたばかりなのだ。
食べ飽きた頃に、実がなると言う不運な苺でもある。


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バードにウォッチングされている件について

2024-05-01 12:17:20 | 動物・自然

コツコツと窓ガラスを叩く音がする。


シジュウカラだ。
警戒しつつ室内を覗き込んでいる。


何をしにきたんだ?



アルミサッシの枠にぶら下がって、窓ガラスを突いている。


君の曲芸はわかった。
けど、何の為にしているの?
巣作りの準備だとしたら、ここは適していないと思う。
実は訪れていたのはシジュウカラ2羽で、1羽だけが窓にぶら下がり、もう1羽は電線に止まり眺めているだけだった。


これが2日間に渡って続いた。
ガラスにヒビが入っていないことを祈る。

ちなみに右のステンドグラスは、女性建築士達で作った物で、本来なら飾るだけなのだろうが、我が事務所では地震計にしている。
東西南北いずれにも良く動く。揺れ方によって震度を把握することが出来るって便利なのだ。


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