建築士会酒田支部研修部企画で、酒田市船場町にある旧家坂邸の見学会が行われた。
家坂さんと言えば、長い間酒田市の市議会議員を務めておられ、選挙戦の時にはアナウンサーの娘さんの華やかな声が聞かれたものだった。
家坂さんが市議会議員を辞められてから久しいが、後輩の議員には頼りがいのある先輩として存在があった。
最近、旧家坂邸の名を聞くようになり、すると家坂家の方々は酒田にはおられないのかなと感じていた。
小松屋さんが和菓子(干菓子も含む)の作り方講習会なるものを、この家坂邸で行っているのも耳にしていた。
外観は白と黒で統一され、酒田の町家(商家)の中でも美しい建物だった。
第5回の酒田市アメニティタウン賞のプレートが貼ってあった。
この頃は、私も関係者だったかな。
今回、初めて内部に入らせて貰った。
酒田の町家は、北前船の影響で関西の文化が入っており、京都の町家にも似ている。
ところが家坂邸は、それとはちょっと違っていた。玄関から入って奥に抜ける土間がない。
玄関にある説明文を読んでみると、昭和の時代に一時料亭として使用していたとある。残念ながら私には記憶がない。
改めて造りを見ると、この廊下も納得である。もしかすると元々この廊下が土間だったとしたら尚のこと納得である。
廊下も大広間も、母屋の部屋は見事な欅の大鴨居が設(しつら)えてある。
蔵座敷風の一角は、1階に6帖程の小部屋が2箇所。これは奥の間。
二部屋を繋ぐ廊下の奥には、男性用のトイレが有った。如何にも料亭の造りである。
縁側に突き出た空間は、玄関に有った飾り棚の裏側。こんなに細い部材で造ってあるのが粋である。
どちらにも床の間があり、料亭の客室として使用したであろう凝った造りである。
母屋の方は明治時代の工法で、和組の土塗り壁だが、この蔵風の建物の内部は昭和に入ってからの模様替えに見える。
何故ならば、地震の影響か壁がずれている。土塗り壁ならこのようなズレは起きない。下地がラスボードなのだろう。
その2階には、玄関横の一見押入れに見える引き戸をあけると、実に急な階段が設置してあった。
2階の小屋組みは、確かに土蔵造りの工法であるが、一部壁に筋交いがあった。
ここは単なる物置と言うよりも、若勢か女中部屋として使用するのが普通かなと思う。
見た目が土蔵でも壁の造りがそうではない。簡単に外部との開口部が土蔵の体をなしていない。
1階の庭に向いた縁側もしかり、蔵ではなさそうである。
この大きな開き戸の後ろに、その階段に入る引き戸がある。
この開き戸は、鐙屋さんにも用いられているが、通常は大きく開け、夜間には閉めるが小さな障子戸を開閉して出入りする。
さて、帳場に使ったと見られる部屋である。特徴は欅の大鴨居だが、正角に製材した物ではなく、木の曲がりを仕上げとして見せている。
この亀の絵の襖の上も、ちょうど半分にした同じ欅であった。
どれだけ大きな欅だったのか。
奥の座敷には、小松屋さんの菓子の型が並べてあった。
歴史あるものと思う。
箪笥も金物が豪華だった。
並べてあった漆塗りのお盆。
この部屋の長押の金物は鶴のデザインである。
襖の亀と併せて、目出度い行事にはうってつけであり、結婚式場にも利用されたとあるのがわかる。
同じ部屋の床の間付近。
やけに広い大広間は、結婚式場に使用したと思われる。
天井も10尺5寸ほどもある。柱は5寸角を鉋仕上げした。
床の間の落し掛けがやたらと捻れていた。こんなに何回転も出来るのは藤か。
その他、母屋の2階の部屋。客室に使ったのか家族仕様なのか。
多分、凝っているので客室か。
二間続きだったので、これはこれで使用したかと。
奥の縁側と言うか屋根裏部屋と言うか、畳が敷いてあるので単なる物置ではなさそうである。
明治の庄内大地震後の建物だそうで、土台は礎石の上に載せてある。
地震時に、元の家坂邸も被害を受けたようで、写真が額に入れて飾ってあった。ちょっと黒くなり過ぎて、よく見えなかった。
土蔵造りと言ったのは、構造と左官仕上げで、屋根も二重でなく本来の土蔵ではない。
鬼瓦も隅瓦も、家坂邸の「家」の文字があり、特注のようだ。
軒瓦には、波の模様があり、火伏せの意味が込められている。
最後に裏から庭に入る。池と庭石についで何体かの灯籠が立っていた。
その灯籠を撮そうとして、手前の植物に目が行った。
庭は雑草で覆われていたが、この植物は山菜のウドではないか。
周りにもウドの背丈の小さい物が生えていたので、種が溢れたと見える。