無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

町で見かけた面白い物

2007-10-02 13:03:21 | 建築・都市・港
中尊寺の中にある、特別消防隊の消防車。最新鋭ではない所が味がある。カメラを向けると、2人の若い職員がワラワラとやって来たので、急いでシャッターを切る。中尊寺の金色堂は日本の国宝第一号だと言う。荒木先生が仰るには、北から順を追っていたら、たまたま岩手県に最初に国宝級の建造物があったからだと言う。本当かどうかは判らない。



一口に中尊寺と呼んではいるが、単独の寺ではない。幾つもの寺が集まって総称として呼んでいるのだそうだ。その参道を歩いていると、孟宗竹林への斜面が絡まった杉の根で階段のようになっていた。この杉自体も二-三百年の大木で、根も1-2本の物ではないだろう。まるで生きもののような斜面だった。



毛越寺の伽藍の礎石付近にあった松の木。何かに似ていないだろうか。私にはコカコーラのビンの形にそっくりに思えた。そう言えば中尊寺の売店に、昔懐かしいビン入りのコーラが自動販売機で売られていた。複雑な迷路のようにビンを誘導し、抜き取って栓を抜く代物だ。



昼食後解散となり、我々酒田方面隊は、ちょっと北に向きを変え「江差藤原の里」に行く事にした。Nさんは、まだ一度も見た事がないのだそうだ。日曜日だったので、丁度民俗芸能の鹿踊りが始まっていた。



この藤原の里は、遺跡を元にして建設されたのではなく、民間(商工会議所青年部)が中心になって、大きなイベント施設を造ったのである。明らかに新しい造り物なのだが、映画やNHKの大河ドラマのようなTV番組のロケに最適で、数々の作品がここから生まれている。日本各地で盛んに造られたイベント施設が、軒並み赤字で廃止されている中にあって、ここは単なる遊技娯楽施設ではなく、目的意識がはっきりしている為に生き残っているのだろう。施設の中の案内係の女性達の服装は、遠く平安時代の装いをしていた。私は数回ここに訪れていたのだが、今まで見落としていた施設の多い事に改めて気づかされた。映画村として活用し、一般にも公開するのは、今の時代にあった施設の使い方なのかも知れない。


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平泉・毛越寺(もうつうじ)

2007-10-02 12:42:44 | 建築・都市・港
平泉は京都と地形が似ているので、藤原氏はここに都を築いた。金鶏山を後景に、雄大な北上川を前面にして、中尊寺や毛越寺、無量光院を建立した。無量光院は宇治の平等院鳳凰堂を模して、少しづつ寸法を大きめに広げ作られたと言う。しかし現在は残っていない。特別史蹟として、跡地が残っているだけで、池も田んぼに変わっている。平安時代なので、極彩色の寝殿造りになっていたようだ。現在の郷土館の館長さんに案内を受け史蹟巡りを行った後、毛越寺に入る。



毛越寺は現在本殿になっている所にもお参りせず、特別史蹟になっている池の対岸に残っている礎石(建物の基礎石)を見に行く。この庭園の池自体が非常に美しい。



礎石しか残っていないが、本殿の左右には鐘楼と太鼓を突く為の建物が配置され、池の中には島もあり、実にゆったりとした時間の流れを味わう事が出来た。




池を3分の2程回った所にお堂があり、丁度お茶会を催していた。I さんの話だと裏千家らしい。一服所望する時間もなく、お点前をする女性の方々の和装を見ていた。そのお堂の手前には、小川が流れていて、時々ニュースで平安時代のいでたちをした男女が、歌を詠み短冊を川に浮かべた小さな船に乗せて流す場所だった。作り物の公園と違い、この水は湧き水なのか、綺麗な水が高台から流れ、池に注いでいた。

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平泉・中尊寺

2007-10-02 10:34:27 | 建築・都市・港
女性建築士の東北ブロック大会に参加する為に、岩手県平泉町へ出かけた。東北の小都市から小都市へ移動するには、電車は非常に不便なので、Iさんの運転する車に載せて貰う事にした。朝8時前に出発である。

奥州平泉と言えば、平安時代に藤原四代によって栄えた都だが、源義経を匿った事により頼朝に滅ばされた経緯を持つ。実は酒田市と平泉は浅からぬ因縁で結ばれているのだ。酒田は、城輪柵跡(きのわさくあと)と言う平安の遺跡が残っているように、出羽の国の国府として栄えたようだ。最上川の河口に位置し、港は最初は小さな漁村だったと聞く。頼朝に滅ばされた藤原氏の唯一の生き残り徳尼公(藤原秀衡の妹、または後室と言われている)を守り、36人の家臣が落ち延びた里が、酒田である。彼らはその後、廻船問屋などを商いとして活躍し、酒田を築いた36人衆として言い伝えられている。

酒田36人衆の詳細



平泉に着いた当日は、研究発表やら講演会が催されたが、翌日は朝から街並み、中尊寺や毛越寺を見学した。集合時間前に、ホテルの近くの千手院に行き、義経妻子の小さな2つの墓を訪れる。杉木立に囲まれた静かな石塔は苔むしており、ちょっと薄暗かったので写真には撮らなかった。(本当は妙な物が写るのが怖かったからだ。)上の写真は中尊寺の月見坂を登った所から見た北上川である。北上川は現在河川工事を行っており、遺跡に配慮して流れを変えているのだそうだ。





この石塔は重要文化財の願也就院宝塔で、四方に梵字が刻まれている。



鐘楼も古い。鐘は戦争中にも供出されなかったようだ。



近世能舞台としては、東日本唯一と言われる、白山神社の能楽堂である。平泉は世界遺産にノミネートしている。講演会で講師をされた平泉郷土館元館長の荒木伸介氏に説明していただいたのだが、彼本人は反対の意見の様だ。我々にその是非を問うた。メインとなる中尊寺は、頼朝に攻められて一度焼失している。他の世界遺産と比較してインパクトもないと言うのだ。金色堂は建築物ではなく、工芸品だと考えている様だ。私にはそうは思えなかった。判官贔屓ではないけれど、日本の文化遺産として誇らしいと思う。


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