まなびの途中

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学んだことを書いてまいります。

株主として会社に参加すること

2005年10月07日 | 社会的全般
このあたりは、門外漢なので、正確でない話もしてしまいますが、
どうも日本は、株に対して、アレルギーが、ある。
過去、あまりにも、株にまつわった、明暗の記憶があるからだろうか。

そもそも企業は、資本という、簡単にいうと、お金が絶対的に必要である。
経済の原理から言っても、わらしべ長者の御伽噺からみても、
元手が必要なんである。
その元手を、どのように、膨らませていくか。
これがビジネスの根源なのであります。とても、シンプル。
本当は、お金が、お金を、生んでいく、といったビジネスは、ある意味
不労所得といって、働かずに生きていくといった、人生の究極のような夢では
ありますが、本来のビジネスではありません。
少なくとも、衣食住、といった、生活に不可欠な、物を、やり取りするために
お金を介す、それがビジネスの本流だと、理解しています。
その付帯的な側面として、物流関係、交通関係、果ては、エネルギー関係など、
経済活動を、効率化するために、規模を大きくするために、誕生した
経済活動も出現いたします。
さらに、経済活動の、「代償行為」といった側面で、娯楽産業も栄えてきているのは、
ご存知のとおりです。

その中で、我々は、すでに、自分で、食べ物を採集せずに生きていくことに
慣れてしまっております。
そのほとんどは、具体的には見ることができないまでも、ほとんど、企業が
マネージメントしております。
言ってみれば、日本が、この国が、どうなるんであろうか?という前に、
この国は、多くの会社があってこそ、成り立っている、
そういう前提が先にあるのです。

というわけで、この国を支えているのといいますか、成り立たせているのは、
実は、多くの会社でございまして、どうあれ、否定しづらい、事実なんです。
もちろん、過去、経営者と雇用者の幾多の闘争もありました。
イデオロギー的な様々な戦争も、多くありました。

今日では、大なり小なり、会社に参加するということは、その社員になる、
それだけではなく、実は、先にも言いました、会社が必要とする元手を入れてやる、
といった参加の仕方が、充分、システムとして機能してまいりました。
これが、株、なのです。

不労所得なんて言葉を持ち出しましたが、言ってみれば、我々はすでに、
自分で食べ物を採集することをしなくなって、かなり長い年月が経過しております。
へへ、不労所得なのかしら?
そうなれば、より、生活設計を高めていける会社とともに生きていくのも
当たり前なんですが、打てる、当然のあり方です。
この意識をもった、会社への参加の仕方が、株主、といったところなんでしょうか。

ところが、この日本では、なぜか、そういう選択肢を、忌避する文化が強い。
株主であることと、株をやっているということが、これほど、イメージギャップを
もって語られる、資本主義社会は、ありません。
そのため、株主として、正当に応援している人達を、ほとんど軽視するように、
毎年、収益から配分される、「配当を」出さない、か、あまり、あげない、
そういう企業が、多い。
株主でいる意味が、とてもじゃないですが、ありません。

そのとき、どうしたことでしょう、「会社は、配当も含めて、きちんとした
運営をするべきだ」と、本来、どう考えても、儲かっているのに、
なんやら決算調整で、「そんなに儲かってないよう」として、株主に
ちゃんとした配当を出していない会社に、乗り込んできた人達がいるのです。

お金を出した人が、きちんと評価されて当たり前なのは、実は、当然です。
さらに、自分のほうが、もっと、収益をあげ、お金を入れてくれた株主に
配当を出せます、と、経営に乗り組んでくるのも、当たり前といっちゃ、
当たり前の話です。
その会社の社員でもなく、株主でもない人間が、実は、騒ぎ立てる必然性は
そこにはありません。

なぜか、日本では、そういう、会社の仕組み成り、国が成り立つ仕組みを
ことさら、教えない、目覚めさせない、もっというと、なんか、悪いものとして
イメージ付ける教育が、多く行われてきました。
すでに、そういう世の中になって、随分月日が経つのにです。
本当は、あらゆる人間には、もっと、積極的に会社というものを、利用できる
そんな仕組みが、あるのにもかかわらず、
必要以上に、会社を、あくどいようなイメージに、さらには、資本の原理を
さも、「はげたか」になぞらえて言う方々が、多いのは事実です。

とはいえ、文句はいいますが、読売新聞社の株は、持っておりません。
この会社を取り入れて、人生設計をたてる気がないからです。
そういうことで。