愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

鄧小平と改革開放

2021-01-31 | 日記

チャンネルを変えるうちに、中国近代史の映像に行き当たった。辛亥革命から毛沢東の革命、長征や日中戦争・国共合作などの映像が流れ、そして第二次大戦後の中国革命・中華人民共和国の成立、大増産運動の失敗、ベトナム戦争、毛沢東・ニクソン会談と中米和解、文化大革命、改革開放へと続いた。田中角栄総理による日中国交回復や、その後の日本の対中支援についての映像を見ると、「ああ、そんな時代もあったのだなあ」と感慨を覚える。鄧小平氏の日本訪問の映像など懐かしがって見ていたが、その解説で対中支援の中心に当時の経団連会長や新日鉄会長が居たと紹介され少々驚いた。当時の保守政治を支えた経済界の中心的人物達には、中国の発展に寄与したいとの強い思いがあったのだ。

 「今日は製鉄所は休みですか?」と鄧小平氏は尋ねたという。製鉄所内に作業員がほとんど見かけなかったからだ。製鉄所スタッフは「いや、製鉄所はちゃんと動いていますよ」と答え、日本の製鉄所はもはや人力中心ではなく、機械制御によって動いていることを案内・解説したそうだ。鄧小平氏は「近代化がどういうことかが良く分かった」と答え、「これと同じ製鉄所を上海に作って欲しい」と言ったとか。「うまく出来なかったら、それは生徒が悪いのではなく、先生が悪いのです」という表現で「援助する側の責任」と釘を刺したというのだから、中国らしい図々しさとも言えるし交渉上手とも言える。それに答えた日本が上海に最新鋭の製鉄所を作った話は、ドラマ「大地の子」にも描かれた。

 そんな映像を見ながら、生きて来た年の流れと中国の変わり様を思う。日中国交回復は1972年だから、既に約50年が過ぎようとしている。半世紀あれば世界は、そして国々はこうも変わっていくものだと。日本が教えた製鉄産業の成功により、その後、日本の製鉄所は次々に閉鎖に追い込まれた。電気電子産業もIT産業も、日本をはじめ西側先進諸国からの技術導入・資本導入によって、分野によって中国は今や世界をリードするまでに成長した。しかし中国流の世界観や歴史観はあの頃のままである。世界の有力国となるため国際的な自由競争・自由な振舞いは身に着けたが、国内社会における自由競争や国民の自由尊重についての考え方は、むしろあの頃より劣っているようにさえ思える。

 「農民からは決して奪わない」という鉄の規律で農村の支持を得、内線に勝利した "長征" における中国共産党軍の姿は、「改革開放」後の天安門での批判勢力の制圧、体制批判活動の弾圧、辺境地区での異民族弾圧、そしてコロナ禍で苦しんだ被害者・被害者家族による当局への不満・批判の黙殺など、民衆への弾圧を強める今の姿とは全く異なるもの。超大国の仲間入りは果たしたが、中国のこれからの超大国としての振る舞いが世界にどのような大きな波紋を引き起こし、中国自身の有り様にどのような変化を及ぼすのか、数十年後の中国の姿が気に掛かってしかたない。

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ワクチン接種率

2021-01-30 | 日記

ワクチン接種に関する報道が賑やかだ。いろんな番組で、イスラエルのワクチン接種システムが優れていると紹介されるので調べると、既に400万回(1回目も2回目も合わせた合計)が接種され、国民(約900万人)の約30%以上が摂取済みで接種率世界一ということだ。しかし接種回数では、アメリカが約2400万回でイスラエルの5倍、イギリスが約750万回でイスラエルの倍近い。ドイツは200万回でイスラエルの半分程度だが、自国優先で進められるイスラエルに比べて、ワクチン確保・供給においてもEU各国とのバランスを無視できないドイツでのこの数字は、決してイスラエルより接種システムが劣っていることが原因とは考え難いのではないか。

 つまり、接種率で比べれば確かにイスラエルが世界1位だが、人口約900万人のイスラエルに比べて30倍(約3億人)の人口を持つアメリカや人口7倍(約6600万人)のイギリスで、接種回数の多さに関わらず接種率が少ないのは、何もワクチン接種のシステムが劣ることを示しているとは思えない。開発されたばかりの新しいワクチンで予め蓄えることもできなかったワクチンを短期でどれだけ接種できたかを比較するのなら、全国民に対する接種割合で比較するより、接種回数で比較するのが公正と考える。全体に対する接種済み割合は確かに重要な因子ではあるが、接種システムの優劣とは別の問題として取り上げられるべきだろう。

 要するに、イスラエルの5倍の接種回数を終えたアメリカや2倍のイギリスにおけるワクチン接種システムは、短期間により多くの人々に接種を行うという点においてイスラエルに引けを取るとは思えない。しかしそれを接種率の比較にすり替えてイスラエルの個人健康データ管理システムに結び付けて優劣を論じるマスコミが多いことには、大いに疑問が生じる。もしそのような議論をするのなら、必然的に、接種率第2位のUAEや第4位のバーレーンのやり方が、アメリカ・イギリス・ドイツよりも優れているという指摘もなくてはおかしい。ちなみに、接種率で世界2位のUAEは接種回数では第5位、接種率第4位のバーレーンは接種回数で20位にも入らない。

 ワクチン接種については、できるだけ早期に多くの人々に接種することが肝要なのであって、接種率を競う意味は少ない。国別接種率は、それぞれの国におけるワクチン接種終了の目安となるだけである。人口が少なければ、同じ回数の接種でも終了が近いと言うだけの事。短期間に多くのワクチン接種の実現を目指すシステムを論じるなら、純粋に、一定期間の接種数をどうすれば多くできるかを指標として考えるべきだ。その意味でアメリカやドイツなどのやり方がイスラエルに劣るとは、決して言えない。日本国内での接種が始まった後、人口1万の町と人口30万の都市、あるいは人口10万人の小都市と300万人の大都市を接種率の大小で比較し、そのシステムの優劣を云々するような愚かさは避けて欲しいものである。

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選抜大会

2021-01-29 | 日記

春の選抜高校野球の参加校が決まった。昨年は突然の中止となった大会だが、今年の春は、無観客となってもせめて試合だけは行って欲しいと願う。秋の地区大会の成績などで選ばれたチームが集う選抜高校野球大会には、地区予選から勝ち上がったチームが競う夏の大会とは少し違う味わい・良さがあると感じて来た。

 選抜高校野球大会のニュースを聞き、このままだと開催が危うくなりそうな東京オリンピックとパラリンピックの開催も、同様に無観客であっても是非開催して欲しいと思った。おそらく、多くの国で代表選手選考の試合を行うのが難しくなるだろう。その場合は、有力選手を指名した各国からの選抜選手の大会としても良いのではないか、と。

 もちろん、できるだけ通常のオリンピックに近づける努力はするべきだと思うが、現状が続く限りそれには時間が足りない。選抜選手だけの大会で、しかもそれすらも参加できない国が出る可能性があっては、確かに、アスリートたちが望むようた「名実ともに実力世界一」を競う大会には不十分かもしれない。だが、それでも「世界一流の選手たちが競い合う大会」であり、素晴らしい能力と努力の成果が発揮されるスポーツの祭典となることは間違いない。この世界的な感染症パンデミックの状況の中で、「参加すること、正々堂々と競い合うことに意義がある」というオリンピック本来の意味を大切にした大会を開催できるならば、それはオリンピックの歴史の中でも一つの意義のある大会となると思う。

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交叉免疫とワクチン

2021-01-28 | 日記

「衛生国家への挑戦~3人の先駆者たち~」という番組を見ていて思った。3人とは、幕末から明治に掛けて日本人の衛生意識の向上に尽力した緒方洪庵、長与専斎、後藤新平を指している。それぞれ、「種痘により天然痘の予防に努めた緒方洪庵」「政府・行政システムに衛生担当の部門を確立した長与専斎」「日本の検疫システムを確立した後藤新平」として紹介されていた。いずれも、現在の新型コロナ感染拡大との闘いと同じ状況を背負って難題に立ち向かった人物たちだ。

 見ていて素直に疑問となったのが「天然痘予防のための牛痘の接種」である。言うまでも無く牛痘というのは牛の天然痘(人間に感染すると軽い症状を起こすらしい」で、そのウイルスは当然ながら「ヒトの天然痘ウイルス」ではない。症状の軽い牛の天然痘ウイルスに感染させることによって、死に至らせる重篤なヒトの天然痘を防ぐ免疫を体の中に作るというものだ。つまるところ、それは牛痘ウイルスに対する免疫を使って人間の天然痘を防ごうという「交叉免疫」による天然痘予防なのだ。

 この交叉免疫というのは、新型コロナ感染症についても3月4月頃に「日本および東アジアの感染者が少ない理由かもしれない」として少しは報道されていた。症状の軽い鼻風邪コロナウイルスの感染で作られた免疫が、新型コロナ感染を防いでいるのかも知れないという可能性だ。ところが、それから半年経っても、そのような交叉免疫の効用が有るのか無いのかも含めて交差免疫に関する報道・情報が無くなった。検証した結果そのような交叉免疫が無効だったなら、それは無効だったとはっきりさせて欲しい。もし有効ならば、それは天然痘における「牛痘接種」と同じく、「似たものウイルス」を用いた感染予防法の可能性が考えられることになる。現在話題のワクチンは新型コロナウイルスに特有の「スパイク蛋白質」なるものだけを取り上げ、そのタンパク質だけに特有の抗体を作らせようとするワクチンだ。

 確かにそれで効果が確認されているので、そのワクチンの有効性は疑いないと考えるが、果たして保存にも運搬にも問題があるそのワクチンだけを有効な手段として良いのかどうか、冷静に考える必要もあるのではないか。毒性の少ない類似のウイルスで有効な免疫(交叉免疫だが)が作れるのなら、牛痘と同じく、鼻風邪コロナのような別のウイルスを利用することができるかもしれない。天然痘では当然のように「交叉免疫」を受入れながら、新型コロナについては何故「新型ウイルス固有の蛋白質に対する抗体」にこだわるのだろうか。「特有のスパイク蛋白質」だけを用いたワクチンで、それに対する抗体だけを作るなら、その「スパイク蛋白質」の変異によって抗体の認識性、すなわちワクチンの効果が変わる可能性が高くなる。スパイク蛋白質以外のコロナウイルスに共通な蛋白質をも含めて免疫(抗体?)を作らせれば、スパイク蛋白質が変異して認識できなくなっても他のタンパク質を認識してウイルスを排除することができる。

 なんとも現在の状況は、不自然な気がしてならない。後々パンデミック・パニックが治まってから、実は鼻風邪コロナに掛かっていた人は新型コロナ感染を免れていたようだ、などという落ちにならなければ良いが(なんだ、それならみんなして鼻風邪コロナに罹れば良かったんだ、なんて話に)。

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珍鳥来る

2021-01-27 | 日記

昨年末、近くの公園で珍鳥が観察されたというローカルニュースが流れた。2・3度探したがよく分からず諦めたが、知り合いが見たという話を聞いて「まだ居る」と実感し、少し本格的に時間を掛けて探すことにした。それで2度ほど見つけて確認できたが、もっと良い条件で観察し写真も撮りたいと今日も午前中に出掛けた。2時間ほど歩き回るが目的の小鳥は現れず、仕方なくいつもの冬鳥を何枚か撮って帰って来た。

 意中の鳥はこの辺りで20年以上現れてないというが、遠目では見分けのつかない良く似た小鳥の群れに紛れている。これでは、何度か現れていてもとても気付かないし、その鳥が来ていると信じて探さなくては見つからない。もし来ていたとしても見つからなかっただけかも知れないと考えもするが、どちらにしろ証明はできない。居ないことの証明ほどに難しいことは無いから、やはり、観察されたというポジティブな記録に沿って物事を考えるしか無いということになる。

 公園内を散策する人々のほとんどが、そこに数十年ぶりの珍鳥が飛びまわっているなどとは思っていない。望遠レンズ付きの大げさなカメラをぶら下げた人間が数名集まって木々を見上げているのを、怪訝な顔をして通り過ぎる。その公園に野鳥が居ることくらい彼らもよく分かっているのだが、大の大人が寄り集まって、なぜ変哲もない鳥の写真を撮りたがるのか気が知れないとでもいう感じだ。自分自身も、つい何年か前までそういう人々の側にいたのだ。しかし、ちょっと鳥の種類を覚えて見始めると、そこには実に多くの鳥が見つかり、季節々々で種類や羽の色の移り変わりがあることに驚いた。それまでそのことに全く気付かなかったことが不思議に思えるほどに、それらは着実に移り変わっていく。

 居るはずのない珍鳥や迷鳥に出くわすのも驚きだが、いつも見る野鳥でも、その頻度や数などが毎年少しずつ違っている。渡り鳥の場合には、それらが気候変動と関係しているのだろうか?などと考えることもあるが、たった数年の観察歴でそこまで言うだけの経験とは言えない。気象庁が生物による季節観測を大幅に縮小したが、今のような気象変動が危惧される時代には、むしろ一般人を巻き込んで観察件数・観測地点を増やすことが必要だと感じる。子供の頃に聞いた周囲の大人の会話の中に多くの鳥の名や行動の癖などが含まれていたことに、鳥を見始めてから気付くようになった。昔の人達が身近な鳥の種類や行動を良く知っていたと感じる反面、過去の自分も含めて今の人達は身近な鳥に無関心だ。

 クイズ番組の問題になるような遠い国の珍しい鳥については知っていても、毎日自分が通り過ぎる木々に集まる鳥の名前やどれくらいの異なる鳥がそこで生きているかということも知らないまま過ごしている。そう思うと、何となく変な感じである。盛んにニュースで取り上げられる気候変動や温暖化も、多くの人は報道される数値や極端な異常気象の映像を元に頭で理解しているのだろう。気候変動は人々の頭の中で起こっていて、身近なところで起きつつある「そこそこ大きな変化」には気付くことがない。数年前までの自分がそうだったことを棚に上げ、今ではそれが何とも奇妙に思えて仕方ない。

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