愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

磯焼けと温暖化

2023-01-30 | 日記
日本の沿岸地帯で「磯焼け」が問題となり、幾つかの特集やニュースで取り上げられたのは、「白神山地を守れ(後に世界遺産に登録)」と盛んに言われていた頃だと記憶する。同時に「森を守る漁師」があちこちで話題となり、「豊かな漁場が豊かな海を育てる」という文脈の中で磯焼けの問題が語られることもあった。
 その頃にも既に「地球温暖化」「海水温の上昇」「海産生物の北上」などが指摘されており、「地球温暖化による海水温上昇」が磯焼けの原因候補筆頭として報じられることも多かった。
 その頃から、「海水温の上昇というならば、温暖な地域の魚が北上するのと同様に、磯には温暖な地域の海藻が増えるだけじゃないのか」という疑問がどうしても拭えないままだ。その後、一時期には海水中に溶けている微量元素、特に鉄分の枯渇が一因であるとして、鉄骨を材料とする漁礁を沈めるのが効果的とも耳にしたことがある。しかし、その後「微量元素の枯渇説」がどうなっているのか、マスコミ報道では全く聞かなくなった。
 いつの間にか気が付くと、磯焼けとセットで耳にするのは「海水温の上昇が原因と言われている」という、またしても「疑問だらけ」の解説だけになっている。白神山地や三陸地域で森と海の豊かさ(海藻とそこに集まる魚類)が語られてから数十年?、「磯焼け」は、地球温暖化や「海藻を食べ尽くすウニ」のせいにされたままだ。ウニだって「もっと海藻が豊かだったころから沢山いただろうに」。磯焼けで辛うじて残る海藻を細々と食べて生きるウニや貝がその責任を取らされ悪者扱いとは、何とも可哀そう。この国の報道機関の無責任さ、「過去の歴史」への無知さ加減には、磯のウニや貝も驚いてるだろう。
 何十年も前から気付いていながら磯や海を壊すだけ壊し続け、真の原因究明や問題解決に時間や資金投入を惜しんで来た人間どもの責任を押し付けられるのは、さぞかしやり切れない事だろう。

人生を語らず

2023-01-23 | 日記
「今はまだ人生を、人生を語らず」吉田拓郎、井上陽水、・・・かつてのフォークソングの時代を振り返る番組があった。その中で、50歳頃と思しき吉田拓郎がライブステージで歌っている映像を見た。「今はまだ人生を語らず」、最初に20代頃の吉田拓郎のこの歌を聞いた時、もちろん自分自身ももちろん人生を語るような歳では無かったのだが、「何とも実感のこもらない」というか「こんな若者が人生を語るとか語らないとか、口にすること自体がおかしいだろう」と感じたものだ。
 当然、その歌を作り、歌っていた吉田拓郎自身がそんなことは百も承知で、むしろ承知の上で「まだ人生を語るような時じゃない」と歌う、「向かうべき自分の人生への不安」を抱える若者への激励の詩
 しかし、中年の半ばを過ぎようとしている頃の吉田拓郎が「今は未だ人生を・・」と歌う映像を見ると、本当の意味で「まだ人生を語る時じゃない」と歌い聞かせているように聞こえる。「自分(自分達?)にはまだやり残した事がある、締めくくるのはもっと先なのだ」という。「まだ俺は吉田拓郎を続ける」という宣言でもあり、「自分が何者だったかを振り返る時はまだ来ていない」と、現役を生き抜く心意気を歌っているようにも思える。そんな時期に立ち、この先を考え悩む中高年世代にエールを送っているように思える。
 今、70代になって吉田拓郎が何を思っているのかは自分には知る由も無いが、この歌を聞き続けて来た自分にも、これを「生意気な歌」と感じた頃から随分と時間が過ぎた。今となって、「こんな歌は若く生意気な時にしか作れない」と思っている。人生経験を積めば積むほど、歯を食いしばって「まだ人生を語らず」と歌うには複雑すぎる感情が湧くに違いない。そうなれば、この歌は作れないのじゃないかと感じる。吉田拓郎が歌う映像とこのフレーズを聞きながら、この歌があって良かったと思わせられる。よくぞこの歌を作り、残してくれたと。そしてまた、自分も「今はまだ人生を、人生を語らず」である。

昆虫食

2023-01-17 | 日記
今後の食糧不足への解決案として、今、「昆虫食」が注目されているそうだ。特に「肉」に代わる蛋白質として注目されるのだという。昆虫というのは、生物分類的には「節足動物門」の中にあり、エビ・カニという「甲殻類(綱)」の仲間とは比較的近いので、「節足動物を食べる」と考えればそれほど違和感が無い。
 さらに日本でも100年近く前には農村でイナゴが良く食べられていたと聞くし、良い繭を作れない蚕も食料になっていたとも聞く。映画「野麦峠」の1シーンにも、空腹に耐えかねた女工の一人が思わず繭を口にしてしまう場面があったが、彼女たちが生まれ育った貧しい農村では、「売り物にならない繭」の一部がタンパク源となっていたことを示しているようだ。また、信州では「ざざむし」と呼ばれるトビケラ(昆虫類)の佃煮が土産として売られていたと耳にしたことがあるし、今でも「蜂の子」を食べるためにスズメバチの巣を採りに行って刺されるという事故が結構多いのだと聞く。自分もキイロやクロスズメバチの幼虫を炒って食べたことがあるが、濃厚な豆乳のような味わいで慣れれば結構おいしいと感じた。
 つまり「昆虫食」が復活するとしても別に驚かないのだが、そこでクローズアップされるのがなぜ「コオロギ」なのかについては、少々違和感を覚えてしまう。なぜイナゴや蜂の子では無くコオロギなのか?。詰まる所、「たまたまコオロギが現実に商業生産されている昆虫だった」、ということなのだろうと想像。カエルなど一部の動物の飼育用の餌としてコオロギが大量に飼われているという話は、以前聞いたことがあったから。コオロギが「人間の口に合う?」のかどうかは知らないが、何となく「人の食糧として歴史的実績のある虫にすれば良いのに」と思う。
 イナゴに比べてコオロギが増やし易いのかどうか、もっと言えば「ミミズの肉だって、過去には蛋白源としていたことがあるのでは?」と思うと、肉以外の蛋白源が「=コオロギ」とはどうしても繋がらない。最初から成虫型として発育する「不完全変態」のコオロギ・バッタより、ハチやコガネムシのような「完全変態昆虫」の芋虫型幼虫期を食べる方が栄養価も高い気がしてしまう。
 いずれにせよ、ミミズなどを含めて「どんな虫を食べるのか?」という選択を迫られる時代が来るとは、あまり受け入れたくはない気がする。

コロナ第8波と死者数

2023-01-12 | 日記
コロナ感染が第8波を迎えているようだ。感染者の増加は、都市圏では第7波を上回ってないようだが、地方の県・市においてこれまでを大きく凌いでいるように思える。身近な所でも「感染者が出た」という声を聞くことが増えた気がする。ただ、総じて以前よりも人々の「怖がり様」は少なく、街の人出も特に減少する気配でもない。多分「ここまで拡がったら仕方ない」と思っているようにも感じられる。
 確かに、特に若い世代では、感染しても重症化したという例を聞くことは極めて少ない。だが、毎日のニュースでは、全国で200~400人の「死亡者数」が報告され続けている。2年前なら「数名の死者」にも怯えていた「世論」は、今や1カ月で一万人に近付こうとする死者数にも大きな反応を示していないように感じる。当初「インフルエンザでも毎年一万人近くの死者が出ているのだから」と「新型コロナの脅威」に対する社会の反応を「過剰反応」と断じていた人々が居たことを覚えているが、今や「感染防止の緩和」が進んだ状況では、1・2カ月で一万人という「死者数」に上ることが明らかとなった。その「死者数」の多くが「高齢者」と「慢性疾患を持つ人々」ということだが、それでも未だ高い「死亡率」を抱える感染症であると言わざるを得ない。
 巷でも政府内でも、新型コロナ感染症の「区分け」をインフルエンザ並み「第5類」に変更するべきという声が大きくなっているようだが、その中でこの「比較的高い死亡率」をどのように捉えて行くのかということが併せて離されてないように聞こえて来ることに、一抹の疑問を拭えないでいる。

少子化対策としての現金給付

2023-01-10 | 日記
我が国の政府は、またまた現金を配ることで何かしたような気になりたいらしい。「少子化対策」として現金給付を持ってくるのでは、まるで「我が国ではお金が足りないから子供を生めないのだ」と考えているようにしか見えない。何年間も掛かる「子育て」の支援に、一時的な5万円や10万円の給付が根本的な解決となるとは思えない。「経済的支援」を考えるなら、持続的に子育ての経済面から支援するような制度や環境の整備の方が重要だろう。「待機児童問題」の緩和により子育てしながら仕事に就ける環境を作るとか、「パート・非正規雇用労働者の最低賃金を上げる」ことで若い世代の平均収入の増加を図るとか。
 教育についても、「基本的な教育経費の無償化」や高等教育における「譲渡型奨学金」の額を増やすことも必要だと思える。さらに言えば、「学歴偏重型社会」とそれによる「受験用知識を偏重する教育」からの脱却なども、無意味な「競争の過熱」による教育費増加の抑制手段として機能すると考える。それらはさらに「若者の進路選択の多様化・自由化」や、多面的な能力開発・育成にも役立ち、日本経済の低迷から抜け出すための「多彩なイノベーション」を誘発する効果もあるのではないか。
 決して「大したことも無い(敢えてそう表現する)」受験勉強内容だけを基準とする能力判別・選別だけに思春期と青年期を消耗させてしまって来た、過去半世紀の「日本の受験至上主義教育」が、年ごとに若い世代の「生きる希望や意欲」を削ぎ取ったように思えてならない。それこそが、「子育てや子供たちの将来に夢を抱く」という、生き物としてごく自然な「人間社会・人間集団全体の活力」を萎えさせてしまっているような気がして仕方ない。
 この国全体が過去何十年も抱えて来た「社会の在り方、生き方、子育ての在り方そのものの改善」無くしては、現金給付も「単なる人気取り、気休めのばら撒き」というそしりを免れることはできないのだろう。