愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

日本シリーズ

2022-10-31 | 日記
プロ野球日本シリーズは、オリックス優勝で幕を閉じた。今年の日本シリーズは各試合が見応えがあり面白かった。ただ、最後の試合・最終回はヤクルトスワローズにもう少し粘って欲しかった。前の試合で王手を掛けられ、何となく諦めて力尽きた感じもした。ただし、それでも8回にはスリーランホームランを含めて4点を取り1点差まで追いすがったのだから、決して追いつく気持ちが無かったとは思えない。
 私が感じていた「諦め」とは、個々の選手というよりもシリーズ全体を通しての「何となくの流れ」のようなもの。「ヤクルトのチームが」というよりも、「野球の神様の思い」が、オリックスの2勝目以来「今年はオリックス」というように傾いて行ったような気がしたのだ。最終戦の最終回も、「何となく、簡単にあっさり終わりそうな」気がしていたら、果たして「そうなってしまった」。
 何か、これと言う理屈や理由があってそうなったようには思えない。自分がそう感じたのも、何故かは説明できない。ただ山田、村上の両選手に「力が入り過ぎていて?」、点が入りそうなチャンスに後一つのヒットが出なかったことが私をそんな気分にしたのかも。
 最終回、ヤクルトが1点差に追い付きスコア上は「接戦」をしているのに、何となく「ここまでだな」という思いを抱いてしばらく席を立った。帰ってきたら既に2アウトが取られ、最後のバッターが打席に居た。そして、すぐにアウトとなりゲームセット・オリックス優勝に。そして、今年のプロ野球が幕を下ろした。
 互角の「がっぷり四つ」で戦っていたはずなのに、最後の最後は「駄目を詰められて投了」というような感じが残った。なぜか、「試合が終わる前に勝負が付いていた」という感じが残った。それが「いつ、どの場面で」とは言えないのだが、「どこかで、既に勝負がついていた」と感じさせられた試合終了。「野球に限らず、プロ同士の試合とはそんなもの」という感慨が後に残った。

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将棋倒しの悲劇

2022-10-30 | 日記
「将棋倒し」、ある記事では「群集雪崩」と書かれている。韓国の繁華街での痛ましい事故で、153人もの命が失われたという。その多くが10代・20代だとのこと。多くの若者が集まる街で楽しい夜を過ごそうとしていた若い人々が、思っても見ない惨劇に巻き込まれて行ったということになる。
 事故30前くらいの街の様子をテレビで見ると、通りに集まった人々は互いに密着した状態で既にほとんど身動きができなくなっている。誰一人として自分の意思でどちらかの方向に進むということが出来ないまま、狭い通りで数百人が「押しくら饅頭」の姿で、あちらに揺れたりこちらに揺れたり。
 見ていて「そんな状態になる前に何とかしないと」と、思わず呟いてしまう。でも、誰もそんな状態になると予想しては無かったのだろう。狭い通りの奥で、密集となり四方八方からの圧力を受けて息も出来ずに苦しんでいる人々が居ることを、集団の外れにいて「もっと中に入りたい」と思っている人は気付いていない。それぞれの「少しだけ中に進みたい」という行動と圧力が集まって、密集の中心では人々を押しつぶしてしまう。
 それを避けるには、密集中心部の状況を外側の人々に報せる手段が必要。係員が誘導するなり、上空からドローンで中心部の密集度を報せる画像を集まっている人々に配信するとか?。日本でも大勢が集まる催しでの「将棋倒し事故」が起きているが、その度に係員の誘導や集まる人数の制限が重要だと繰り返し指摘されている。
 一度それを見聞き体験すれば、狭い場所に人が集まり過ぎることの危険を悟り、本能的に過密を避けるようになるだろう。今回は若者が多かったことで、過去の「密集での人命事故」の記憶が無かったかも。当然、集まる側にも警備・誘導する側にも大きな警告を発することになる事故だが、今回失われた153名の命の数は、それにしても多すぎた。
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ひと月の空白

2022-10-29 | 日記
このBlogを書き始め、毎日一つずつのトピックを取上げて「ぐだめき」や「思い付き」など何かしら書いて来た。別に「日記」とのジャンル付けにこだわったわけじゃないが、毎日のように何かしらの愚痴や、頭に浮かんで離れない「何か」があったということ。それで当初一日一つずつ書いてたら、何だか自分の中でも「毎日」が決まり事のようになってしまった。そのまま2年以上も毎日書いて来た。その間、いろんな事情でその日のうちに仕上がらないものは、トピックと下書きを残すだけとして、数日に完成したものを上げていた。
 しかし、人間やはり、事情が重なり忙しい期間があったり、疲れて頭の働かない夜もあるもので、ついにひと月遅れとなった。その間も書きたいトピックのメモは残っていて、順次、文章にしようとは思うのだが、これを機に「毎日」にこだわらないことを決めた。当初は「こだわらないつもり」で居たが、何とか続けると「表面的な形」を継続したいという「こだわりを持ってしまう」のが人間と思い知る。
 まあ、生きていれば毎日様々なことで「ぐだめきたくもなる」。何かを見聞きすれば、それに触発された「いろんな思い」が浮かんで来る。それを淡々と、「毎日のように」きちんと文章にしてみて確認する。そんな日々は、またそれはそれで捨て難いのだ。とりあえずは、ひと月飛ばして世の中の動きに追い付き、飛ばした日々の「書きたいトピック」については、過去の日付のままボツボツと完成して行くも良しとしようか。
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推薦確認書への署名

2022-10-27 | 日記
選挙の際に某団体からの「推薦確認書」に署名したという政治家が何人かいるらしい。
 「推薦確認書に署名はしたが、選挙協力は受けて無い」と言った人がいたとかいないとか。
 「選挙における推薦は選挙協力でしょう」と我は思う。
 「選挙への協力が無いと思いつつ、確認書にわざわざ無関係な署名をする」という政治家が、我が国の政権与党にはそこそこ居るらしい・・・と、みんなは思っているのだろうか。
 政権を担当する党でそこそこのポストを務める政治家が「推薦確認書」の選挙における意味を知らなかったとすれば、それはそれで「どんな国なの?」と世間は(世界は)言うだろうな。「とても、そんな政治家たちが運営する国に投資はできないよね」ってことは、あるのか、ないのか?
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記憶に無い

2022-10-26 | 日記
2・3年前に出席し、壇上で挨拶したり、会の中心人物と一緒に写真を撮ったりしたことに、ほぼ「記憶に無い」との返答だけを繰り返して来た大臣が辞任を決断したのだという。
 かなり政治色が強いと思われる集会とその集会への参加について、それほどに「忘れっぽさ」を強調する政治家も、我が国の政権与党では重要なポストに就けるらしい。そして、政治家としての自身の行動や政治活動の記録を、たった一年で廃棄してしまうと堂々の発言も、政権与党内の重要なポストを担う政治家として不都合さは無いらしい。
 かつては主要な政治的決断や政策に携わった政治家たちの多くが自身の日記や記録を残し、後世の人はそれらによって決断や政策の検証を行うのが常だと思って来た。一年過ぎれば記録を処分するという政治家としての信条は、何に拠って出て来るのだろうか。常に前を向き「過去を振り返らない」という生き方は、過去を検証できなくすることで「忘れ去る」ことでは無いと思うのだが。
 そのような政治家が集まって動かしている国なのだと思うと、この国の全体的な覇気の無さも何となく頷けるような気がして来る。
 
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