愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

マラソン日本記録更新

2021-02-28 | 日記

琵琶湖毎日マラソンで鈴木健吾選手が2時間4分台の日本新記録を作った。車でラジオ中継のゴール直前だけを聞きレース全体は見ていないが、この2・3年で3回目の日本記録更新に驚く。世界は2時間1分台だというから、まだまだ世界上位への道は遠いが、ある意味、新しい選手が出て来て順調に(?)日本記録が書き換えられる今のマラソン界なら、あと数年で届くかも知れないと期待を持たせてくれる。

 今日の日本新記録を生んだレースが最後の琵琶湖毎日マラソンだったというのも、どこか因縁を感じさせる。別府大分マラソンと並んで、若い頃からよく中継映像を見て来た日本の代表的なマラソンレースだったのに、何故?という思いが浮かんでくる。車で走りながら聞いた「今年が最後の琵琶湖マラソン」というフレーズに、思わず「え!」と声が漏れた。マラソン中継が少なかった頃から、琵琶湖を背景に走るランナーの画像を何度も見て来た記憶があるからだ。その最後のレースで4分台に突入する新記録が出たというのが、この大会の最後の記憶となった。

 マラソンや陸上競技が大きなビジネスとして人気を博するのは良いが、そのスポーツを育てて来た伝統あるレースや大会が消えて行くのは如何だろうか。寂しいという感傷的な気持ちもあるが、それ以上にそのスポーツの歴史が大切にされていないように思えて不満と共に不安も感じる。人気がある時は良いが、ビジネス価値の低下の波が来た時に、底辺を支え切れるのかという不安である。

 不便でも、現代の基準に合わない癖の有るコースでも、やはりそれぞれのスポーツには特有の「伝統のレース」が有って欲しい。そこで闘えることが「栄誉」と感じられ、その勝者となることが「レジェンドに連なる」意味を持つレースが。ちょうど自転車ロードレースでいう「クラシックレース」のようにな、石畳でパンク続出の悪路コースでも、そのレースを制することが一つのステータスとなるような「伝統のレース」をマラソンにも残して欲しいと思う。


スターウォーズとアメリカ民主主義

2021-02-27 | 日記

スターウォーズ完結編がテレビで流れていたので、何となく見てしまった、どのように終わらせるのかが気になったから。ジェダイとシスの対決に帝国と同盟軍の戦いが重なって展開して来たが、最後に帝国の艦隊を打ち破るために集まったのは各地から個々に集まった寄せ集め「義勇軍」だった。彼らを目にした帝国艦隊・最高指揮官が「彼らに軍は無いはず」と言うと、副官は「彼らは軍ではなく、民間の船です」と答える場面があった。つまり「民間の武装宇宙船?」が帝国艦隊を攻撃できる「戦力」を持っていてもおかしくない、という前提がその裏に見える。帝国の横暴・専制支配に反撃し、星々から集まった「民の戦力」が帝国軍を打ち破るという世界観(宇宙観?)だ。

 日本でも歴史上の「○○の乱」と呼ばれる出来事の中に、「政府の軍に戦いを挑む民衆の例」を見ることができる。しかし秀吉の「刀狩り」以降、それ起きる可能性はほぼ無くなっている。その上で「スターウォーズ」を考えるとき、日本ならばその終わり方が少し異なるのじゃないかと思えて来る。帝国に相対する何らかの「政権」もしくは「権威の仕組み」に従う人々が協力して帝国を倒す、という構図にならなければ(日本流には)しっくり来ない気がする。

 スターウォーズ完結編では新政権も新秩序の樹立も描かれず、ただ帝国の野望を打ち砕いたことの喜びで終わりとなった。「義勇軍」に参加した人々の素性も全く出て来ない。軍を攻撃できるほどに武装した宇宙船を所有する人々なのだから、それぞれが「縄張り」を持つ「海賊または地域の有力者」が集まったと想像できる。そう言えば、物語を通じて重要な役割を果たし、帝国(あるいはシス)への抵抗の中心的存在となるハン・ソロも、元々はいわゆる「無法者」だ。そのような「民の戦力」を集めて専制支配者を打倒する、という完結編に「アメリカ流の正義と自由」あるいは「アメリカの民主主義への自信」を感じた。

 日頃「アメリカの銃社会」に対する恐怖や疑問を感じ、「市民の武装する権利」を主張して一般人が重火器の所有をも許可されるべきという考えに違和感を抱いている自分だが、アメリカに「市民の勝利」や「民間人の力による武力的解放」で完結するストーリーが自然に生まれてくる土壌は「アメリカの銃社会」を生み出す土壌が無関係ではないとも感じる。昨年の大統領選挙の集会のニュース映像に時々見かけた重火器を肩から下げて歩く民間人、あるいは新大統領就任式に軍が出動して厳重な警戒を行ったシーンを見たが、結局は反対派も「自制して」民主主義に従っているように見える。「アメリカ第一主義」を掲げる勢力としても、もし内乱状況にでも陥れば、アメリカという国自体が弱体化し崩壊すらし兼ねないことを認識しているからなのだろう。

 子供の頃から見て来た西部劇の中で、明らかに銃に優れる「悪役」が銃など触れたことも無い市民を挑発し撃ち殺しても、「相手が銃に手を掛けたのだから、正当防衛」と無罪になる場面に違和感を持ち続けて来た。日本人の「道徳」感覚にはそぐわないからだ。「法律に沿ってはいても、道徳に反する」というのが、日本人一般の感覚だろう。しかしその「道徳」がいかなる「権威」によって植え付けられたものであるかと歴史を振り返ると、そこには「為政者の都合に合わせた洗脳」の産物と疑われて然るべき事例が多く見つかる。様々な歴史的・文化的背景を持つ国からの移民で構成されたアメリカ社会で(特に西部開拓時代では)、多種多様な民族的歴史を背景にした「統一できない道徳感」より「法の下の平等」が拠り所となったことは容易に理解できる。それは、さらに「個人の権利が圧迫される時は国に対してすらも反旗を翻す権利を持つ」という考えにまで拡がるのではないか。国と個人の一騎打ちならば、ある意味それも「どちらが勝とうと正当防衛(ほとんどの場合国が強いのだが)」ということ。米国製ドラマ・映画で国や公的機関と闘う主人公に対して、日本のドラマ主人公のような「後ろめたさ」を感じないのは、そのせいかも知れない。


近頃の引越し

2021-02-26 | 日記

引越し荷物の搬入に立ち会った。引越しの当人が搬入に間に合わず、代理で見届けることになったのだ。荷を積んだ車がやって来て、運転手一人で小さな荷物をすべて運び入れた。重い大物家具の運び入れは、到着地の営業所から応援が来てからだという。しかし、連絡ミスで応援が来ず、待ち兼ねた運転手は再び一人で大物家具の荷下ろしだけ行い、玄関先に置いたままで引き上げた。遅れて応援部隊が来てそれらの家具を運び入れ、荷物搬入自体は無事に終わった。

 ただ、自分が引越した昔とは随分変わったのだと感じる。かつては荷物運搬のプロが2・3名来て、慣れない若者が二人掛かりでやっと担ぐような荷を難なく一人で運び、テキパキと短時間で終わらせていた。現在、おそらく人件費は安くなったのだろうが、プロの仕事を感じさせるのは大抵一人だけ、他はアルバイトの若者という取り合わせのようだ。今日、大物家具を一人で担ぎ下ろした運転手はプロを感じさせる一人。幅75 cm高さ180 cmくらいの冷蔵庫に掛けた紐を両手で持ち、相撲の打っちゃりの要領でのけ反るように一人で担ぎ上げたまま3段の階段を上った。相撲で言えばそのまま押し倒しで敗れるのではと心配したが、頭の上に1m程度も出る重い冷蔵庫を胸に引きつけ、のけ反ったままバランスを保って歩くのは、日頃の鍛錬と経験がなければできるものではない。おそらく過去に同様の荷物を運んだ経験があってのことだろう。

 昔、大学の部室前で男子部員数名が50 ㎏のバーベルを代わる代わるに持ち上げ、スナッチだジャークだと騒いでた時の事。たまたま近くで弁当を食べながら見ていた舗装工事のおじさん(いわゆる土方さん)が、「わしにも上がるかな?」と入って来た。身長160cm くらいの50歳くらいのおじさんは、バーベルを持ち2・3秒その重さを確かめていたが、次の瞬間、肘を全く曲げることなく50Kg のバーベルを頭上に持ち上げてしまった。手が伸びてバーベルを下げた状態から、少しも体に引きつけず一気に、肘も曲げずに頭上まで引き上げたのだ。目撃した部員一同は想像もしなかった出来事に驚愕し、同時に、土方と言われる力仕事のプロの偉大さをまざまざと思い知った。今日の引越しの運転手も、特に体が大きいでもなく普通のおじさんにしか見えなかったのだが、予定外の連絡ミスのせいで思わぬプロの力仕事を見せてくれることになった。


トップ官僚の情報収集力・洞察力ってそんなもの?

2021-02-25 | 日記

総務省のトップ官僚が企業関係者の会食接待を受けていた問題で、参考人として出席した本人が国会・委員会で質問に答えていた。その返答を聞いた限りでは、「会食の主な参加人物」や「相手企業の業務内容」をほとんど認識しないままで会食に参加し、その高額の食事代を支払ってもらったのだという。接待した側からすれば、世間に言う「食い逃げ同然」ということになる。

 もちろん、トップ官僚になるほどの能力優秀な人物なのだから、自分の職務・立場と相手企業の業務の関連性などを熟知し、相手企業の利益と自らの所属官庁の職務権限との関係など直ぐに察知できたはずである。だがしかし、その日その時だけは、何故かその能力を捨てて会食に出たということらしい。しかも、5人での会食に参加した人物構成にさえ関心も払わず、歓談した後は食事代をその「よく知らぬ人物とその会社」に支払ってもらったという。一般人なら「何をしている会社かも分からず」「誰かも分からないまま」で人に数万円も奢ってもらうなど、とても「気味悪く」「怖く」てできないことだ。

 考えてみれば、我が国の政府は「官庁のトップ官僚」は「業務内容も知らない企業の人々と」「自分が接待される理由も察することができないままに食事代を払ってもらう」ことを平然と行う人々なのだと、国会の委員会で堂々と公表した、「勇気ある政府」だということ。これがそのまま文章化され歴史に残れば、あるいは海外の人々が素直に受け止めたら、「なんとまあ、無能な官僚をトップに据える国だろうか」と驚くに違いない。仮に秘密を隠すための「振り」に過ぎないと言い繕っても、国の最高機関の場で行った公の説明であることに変わりはない。

 この国はいつまで「その場さえ誤魔化せば良い」と振舞い続けるのだろうか。過去を振り返り検証することの意義も、公に発する言葉や公文書の重要性をも「どうせ一時の事」と軽視したまま平気で次へと移って行く。それを続ける限り、過去を踏まえた「次の時代」は来ない。「歴史の検証」も「事実の尊重」も永遠に紡ぎ出されることは無い。

 追及する側も、ただ「信用できない」とか「これで終わらせない」とイライラするのではなく、せめて「ご返答・釈明をそのまま信じるならば、我々が恐れるのは、職務や業務内容にこれほど無頓着で無神経に企業の招きに応じ、しかもその高額な費用を平然と払わせて来た人物を、政府官庁の重要ポストに付けることによる重大な損失だ。」と筋を通す見識を示して欲しい。なぜなら、「公での釈明通りの洞察力・情報収集力・注意力・モラルでは、いかなる一般の会社や団体でも責任ある地位には採用し難い人材と言わざるを得ないのだから。政治家や官僚だけで通じる問答に終始せず、常に一般社会の基準に合わせた議論を展開して欲しいものだと思う。

 


山火事・鎮火せず

2021-02-24 | 日記

栃木県の山火事がまだ鎮火せず、それどころか強風で燃え広がっているようだ。暗闇の中で炎が舐めるように斜面を拡がっていくニュースの映像を見ていると、子供の頃に見た山家事の様子を思い出す。けたたましい消防車のサイレンに3階の窓から顔を出すと、途中に視界を遮るものがない4・5キロ離れた山に一面の炎が燃え上がっているのが目に入った。幸いその山火事は一夜のうちに消し止められたが、翌日明るくなると、いつもは深い緑に見えた山の斜面が一面真っ黒になっていた。

 日本のそれぞれの地域では滅多に山火事が起きることは無いが、全国的に見れば冬の空気が乾燥した時期に毎年どこかで起きている。中には数日間燃え続けた例も、珍しくは無い。冬は特に季節風が強く雨は少ないので、人間の消防活動の限界を超えて広がると、結局は民家などへの類焼を出来るだけ抑えつつ天候の変化を待つしかなくなってしまう。県や市町村単位の消防組織で、滅多に起こらず、しかし起きると大規模な活動を必要とする山火事に十分な対策や設備を整えるのは難しい。地震災害・洪水災害などの場合も同じだが、ニュース映像を見るたびに、全国あるいは広域で活動できる「空中消火や広い範囲の火事の消火に特化した専門部隊」を作って備えた方が良いのではないかと思ってしまう。

 専門部隊・専門機関を作り、そこで常に大規模な消化の設備・機器や消化・運搬手段の研究・開発と訓練を行い、山火事だけでなく都市部での大火災などにも対応できるのにと考える。山火事や大火災が一地域の損害であっても、結局それは国費からの災害支援・経済援助などを通じて国の財政支出に関わって来る。災害を地方や一地域の問題と捉えず全国規模の損害と問題と捉え、その上で人的・物質的損害を最小限に止める工夫を講じるべきだとの結論に、いつも辿り着く。