スターウォーズ完結編がテレビで流れていたので、何となく見てしまった、どのように終わらせるのかが気になったから。ジェダイとシスの対決に帝国と同盟軍の戦いが重なって展開して来たが、最後に帝国の艦隊を打ち破るために集まったのは各地から個々に集まった寄せ集め「義勇軍」だった。彼らを目にした帝国艦隊・最高指揮官が「彼らに軍は無いはず」と言うと、副官は「彼らは軍ではなく、民間の船です」と答える場面があった。つまり「民間の武装宇宙船?」が帝国艦隊を攻撃できる「戦力」を持っていてもおかしくない、という前提がその裏に見える。帝国の横暴・専制支配に反撃し、星々から集まった「民の戦力」が帝国軍を打ち破るという世界観(宇宙観?)だ。
日本でも歴史上の「○○の乱」と呼ばれる出来事の中に、「政府の軍に戦いを挑む民衆の例」を見ることができる。しかし秀吉の「刀狩り」以降、それ起きる可能性はほぼ無くなっている。その上で「スターウォーズ」を考えるとき、日本ならばその終わり方が少し異なるのじゃないかと思えて来る。帝国に相対する何らかの「政権」もしくは「権威の仕組み」に従う人々が協力して帝国を倒す、という構図にならなければ(日本流には)しっくり来ない気がする。
スターウォーズ完結編では新政権も新秩序の樹立も描かれず、ただ帝国の野望を打ち砕いたことの喜びで終わりとなった。「義勇軍」に参加した人々の素性も全く出て来ない。軍を攻撃できるほどに武装した宇宙船を所有する人々なのだから、それぞれが「縄張り」を持つ「海賊または地域の有力者」が集まったと想像できる。そう言えば、物語を通じて重要な役割を果たし、帝国(あるいはシス)への抵抗の中心的存在となるハン・ソロも、元々はいわゆる「無法者」だ。そのような「民の戦力」を集めて専制支配者を打倒する、という完結編に「アメリカ流の正義と自由」あるいは「アメリカの民主主義への自信」を感じた。
日頃「アメリカの銃社会」に対する恐怖や疑問を感じ、「市民の武装する権利」を主張して一般人が重火器の所有をも許可されるべきという考えに違和感を抱いている自分だが、アメリカに「市民の勝利」や「民間人の力による武力的解放」で完結するストーリーが自然に生まれてくる土壌は「アメリカの銃社会」を生み出す土壌が無関係ではないとも感じる。昨年の大統領選挙の集会のニュース映像に時々見かけた重火器を肩から下げて歩く民間人、あるいは新大統領就任式に軍が出動して厳重な警戒を行ったシーンを見たが、結局は反対派も「自制して」民主主義に従っているように見える。「アメリカ第一主義」を掲げる勢力としても、もし内乱状況にでも陥れば、アメリカという国自体が弱体化し崩壊すらし兼ねないことを認識しているからなのだろう。
子供の頃から見て来た西部劇の中で、明らかに銃に優れる「悪役」が銃など触れたことも無い市民を挑発し撃ち殺しても、「相手が銃に手を掛けたのだから、正当防衛」と無罪になる場面に違和感を持ち続けて来た。日本人の「道徳」感覚にはそぐわないからだ。「法律に沿ってはいても、道徳に反する」というのが、日本人一般の感覚だろう。しかしその「道徳」がいかなる「権威」によって植え付けられたものであるかと歴史を振り返ると、そこには「為政者の都合に合わせた洗脳」の産物と疑われて然るべき事例が多く見つかる。様々な歴史的・文化的背景を持つ国からの移民で構成されたアメリカ社会で(特に西部開拓時代では)、多種多様な民族的歴史を背景にした「統一できない道徳感」より「法の下の平等」が拠り所となったことは容易に理解できる。それは、さらに「個人の権利が圧迫される時は国に対してすらも反旗を翻す権利を持つ」という考えにまで拡がるのではないか。国と個人の一騎打ちならば、ある意味それも「どちらが勝とうと正当防衛(ほとんどの場合国が強いのだが)」ということ。米国製ドラマ・映画で国や公的機関と闘う主人公に対して、日本のドラマ主人公のような「後ろめたさ」を感じないのは、そのせいかも知れない。