愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

大晦日と年賀状

2020-12-31 | 日記

近年、大晦日には年賀状を書いていることが多い。例年、賀状の図案や写真を印刷し、年末に2・3日かけて住所を手書きで書いていたが、今年は住所も印刷にした。そこで、何か一言を手書きで加えようと、宛名を確認しながら相手を思い出す。今年は新型コロナのせいで顔を見る機会を失った多くの知人・友人が居ることをあらためて思い出す。来年の後半くらいには訪ねて会えるようになれば良いと思いつつ、それぞれに短い言葉や挨拶を書いた。やはり、一年に一度くらいは疎遠になっている友人達の顔や、一緒に過ごした時間を思い出すことを大切にしたいと思った。

 仕事関係の知人など、既に関係が無くなってしまった相手でも、「そう言えば、あの時あんな事があったな」などと思い起こし、年賀状を送るかどうかを考える。結局、賀状を出さないと考えるだけでも相手との関係性を思い起こし確認することになる。結局その時間は、相手への礼儀や体裁だけの為ではなく、自分自身が歩いた時間を確認し、今の自分を見つめることになる。あるいは、自分にとってむしろその事の方が意義深いのかも知れないとも思わされる。年賀状のリストに新しく加える名前もあるし、消していく名前もある。出しても返事の来ない処もあるし、思わぬ人から届いて慌てて返事を返す時も。

 形式的で面倒なだけの慣習と言ってしまえばそれまでで、ごく親しい相手だけにメールで済ますのも一定の合理性を持つとは思う。しかし、多くの記録や残した足跡がデジタル信号化され目に見える形を失って行くにつれ、否が応でも目に見える形で「人とのつながり」を手に取り、そこに思いを書き込んだり、宛名ごとに種分けして確かめる時間の持つ意義は少しずつ増しているようにも感じられた。


大寒波

2020-12-30 | 日記

年末に大寒波が来るという予報、今日は雪になると聞いていたが、確かに午後には雪が舞い始めた。この辺りでは雪は降るだけ、道路が白くなるほどに積もることは滅多にない。初雪を見た時に車のタイヤを前輪だけ冬タイヤにしていたが、その後は雪の降る気配も無かったので後ろのタイヤは夏タイヤのまま、タイヤ交換のことなど忘れていた。

 今晩当たり少しでも積もるようなら明日は後も冬タイヤにしようかと考えていたが、夜になって少しずつ屋根が白くなって来た。夜中近くに見るとベランダには2cmくらいの雪がたまっているが、庭の土はまだまだ黒い。まあそれでも一応、初積雪とは言えるだろう。地熱のある地面に積もるにはまだまだ数時間かけて降り続けなければならない。この辺りでは、それだけ長く積降り続けることが無いのだ。予め数日冷え込み地面の温度が下がっていれば一晩で5cmくらいなら積もるのだが、それにしても朝日と共に溶けて行く。明日の朝起きて辺りが銀世界になっていたら、何年振りかで雪の中の野鳥でも撮りに行きたいと思うが、さて朝の景色はどうなっているだろうか。


コミミズク

2020-12-29 | 日記

コミミズクという鳥がいる。フクロウの仲間で一応猛禽、冬にこの辺りに現れる渡り鳥で、鳥見の人々からはコミミと呼ばれている。野鳥を見始めた頃から、○○でコミミ見たとか昨日この辺りで見かけたという話は聞くのだが、なかなか出会えない。2・3年前に朝早く突然目の前の看板に留まっているコミミズクに出くわして写真を撮ることができたが、すぐに藪の向こうに飛び去りその飛翔姿を取ることが出来なかった。野原を飛びまわる姿を見たのはさらに2年ほど前、その時も双眼鏡で遠くを飛んでいるのを見たにすぎない。

 そんなことで、コミミズクの飛翔の姿を一度正面から、顔もしっかり写る角度で撮ってみたいとずっと思っていた。ついにこの冬、4・5日前にたまたま別の猛禽を探していた枯野でコミミズクに出会い、写真を撮ることができて願いがかなった思いである。その2日後にも出かけて、再度遭遇し、その時にも飛翔姿を撮ることができた。一般的な鳥の飛ぶ姿は先端に嘴が突き出しその次に頭が来るが、フクロウの仲間は顔が平らで嘴が短く、横から見ると先を切り落とした棍棒が飛んでいるように見えて面白い。顔を斜め下に突き出す姿は、おそらく地表付近のネズミなどの出す音を聞きながら飛んでいるからだろう。正面から見ると、まるで丸い "お面" を付けたように見えて愛嬌を感じる。

 一緒にいた知人から、前日にネズミを食べる姿を目撃したという話を聞き、やはり猛禽なのだと思う。しかし一方でコミミズクを愛する鳥見達からは、「明るいうちに飛びまわるとハヤブサやチュウヒに食べられてしまうのではないか」という心配の声もよく耳にする。毎日見掛けていたコミミズクが突然見られなくなると、「この辺りはハヤブサやオオタカが出没するから食べられてしまったかも?」などという話も出る。この冬に見ることができたコミミズクの飛翔を見ると、確かにフワフワとまるで蝶のように飛びまわり、タカに襲われても咄嗟に身をかわす素早さやも感じられないし、体は小さくハヤブサやオオタカに反撃する武器も無さそうだ。実際に何かに食べられた死骸が見つかったこともあったと聞く。

 今夕も出会いを期待して出掛けたが、観察者の増加に反してコミミズクは姿を見せず、暗くなるまで待っても確認できなかった。餌を探して飛ぶ度に望遠レンズを向けてくる人間達は、鳥にとってみれば鬱陶しいだろう。それでどこか別の場所に狩場を変えたのだろうと思いたい。せっかく冬を越すために遠くから渡って来た地で、餌を探すどころか、この地の猛禽たちの餌になってしまっては元も子もない。何とか無事に冬を越して北に帰って欲しいものだ。

 


縄跳び

2020-12-28 | 日記

冬でも庭先やベランダで手軽に運動が出来れば、と思って「縄跳び」を買った。子供の頃に「ビニール製の縄跳び」がしょっちゅう切れて買い直したことを思い出し、「スポーツ用縄跳び」なら少しは丈夫だろうと思って選んだのだが、知らない間に「縄跳び」も様子が変わっていて驚く。確かに丈夫そうに見えるし、「縄(といっても細いワイヤーのようなものなのだが)」の長さを調節できるようになっている。調節できるのは良いが、身長低めの自分にとっては、調節により手元で余る部分がかなりの長さになって少々邪魔になってしまう。

 とは言え「折角手に入れたのだから」と、ベランダに出て少し跳んでみる。今日は晴れていて冬の太陽の恩恵を全身に浴び、公園などに出掛けなくとも屋外で体を動かせる手軽さを楽しむことができた。だがしかし、まだまだ簡単にできると思っていた「二重跳び」が、今の自分にはもはやできなくなっていることを確認する結果になってしまって、結構の「残念さ」と「失望感」をも味わった。たった数年前まではまだ「できたような」気がしていたが、もしかするとそれは十年以上も前の記憶だったのかも知れない。いずれにしろ、当分の間は二重跳びへの挑戦を控え、地味に僅かな減量と体幹筋肉の補強を目指して跳ぶしかないことを悟った。


2020年最後の日曜日

2020-12-27 | 日記

今日は2020年最後の日曜日、新型コロナに始まった年がそこから抜け出せないままに、一年を終えようとしている。先週末は東京で一日の新規感染者が900人を超え、考えたくはないが、年末年始を挟む今週には一日千人超えが危惧される。3月にニューヨークでの一日千人の陽性者増加数を「嘘みたいな数、どうしてそんなに増えるのか?」と受け取っていたこの国の人々も、その年の終わりにはそれが十分身近に起こり得ることと肌で感じることになった。しかし日本ではそんな状況になるまでには半年以上時間があった。当然、3月のニューヨークよりはずっと周到な準備が出来ているはずだ?である。

 しかしこの半年以上の間、本当にこの状況を予測し、あるいはそれ以上の状況をも仮定して準備が整えられて来たのだろうか? そこに一抹の、いやそこそこ大きな疑問を持ちながらの年越しが、もうそこまで来てしまった。2020年に残されたあと4日間で今後の局面がどう変化するのかしないのか、それを目撃することになる。政府の、マスコミの、それぞれの2020年の最後の言葉が何なのか? それは2020年がどういう年だったのかを象徴するものになると思われる。是非それは、2021年に向けての安易な希望じゃなく、地に足を付けた勇気ある決断と前進への証しであって欲しいと願う。