愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

大晦日

2022-12-31 | 日記
12月31日、大晦日の過ごし方も雰囲気も随分と変わったものだ。多少なりとも紅白歌合戦のテレビ中継を見て、どんな歌手が出ているのかと興味を持っていたのがたった数年前の事のように思える。記憶している限りでは、昨年・今年と全く紅白歌合戦を見ることなく過ごした。
 というよりも、紅白歌合戦が始まっていることに全く気付かないままで、他局の番組を見て過ごしてしまった。それが終わって、最後の年越しの番組が始まってから「そう言えば、紅白歌合戦が終わっちゃったな」と思い出すくらいに、今や意識の中から消えてしまっている。別に「紅白歌合戦の良し悪し」ではなく、本当に奇麗に意識から消えていることに感慨すら覚える。
 自分としては紅白歌合戦にそれなりに意義を感じているし、最近のいろいろな工夫には(後から聞いて)それなりの新しさをも感じているのに、何故こんなにも興味から外れてしまっているのか不思議ですらある。要するに、今や大晦日のテレビ番組の一つでしか無くなっているということで、それが健全な認識なのだと思う。
 しかし、紅白歌合戦の終盤に家族で「ああだ、こうだ」と言いながら年越しそばを食べ、それぞれに寝る準備を始めるという子供の頃からの記憶すら思い出すことなく年が変わって行くと思うと寂しくもある。年越しそばを食べ、テレビや近所の寺からの除夜の鐘を聞きながら、台所では元旦の雑煮の準備が始まる。12時が近づくにつれ、家の外を初詣に向かう人々の気配が聞こえて来る。いつしか当たり前になっていたはずの大晦日と正月の時間は、またいつの間にか完全に消えていた。今年の最後の瞬間、ふとそのことに気付いてしまった。「一年を振り返るひと時」すら無いままに、時間に流されている自分に。

御用納め

2022-12-28 | 日記
12月28日は「御用納め」の日だ。公的機関はこの日が今年最後の「仕事日」なのだ。商業施設では昔は12月30日が最後だったと記憶するが、今は大晦日の午前中まで影響する店も多いが、他の民間企業ではどうなのだろうか。毎年、御用納めの日には株式市場の「納会」のニュースが流される。
 アメリカに暮らして知ったのだが、アメリカでは年末・正月に休業するという習慣は無いようだ。ヨーロッパの多くの国でもそうだと聞いた。但しアメリカでは、「クリスマス休暇」としてクリスマスから正月明けくらいまでの休暇を取る人々が一定数居た。一年を通じて見れば、その時期が「長期休暇を取る人々が多い時期」ではあるだろう。
 欧米では会社や企業などを休業にしなくとも、必要な人々にはそれなりの長期休暇を取れるようになっているが、日本では「全員の公平?」の為に仕事を「一斉休業」しなければ、人々が休暇を取れない。30年前の「バブル崩壊」を思い出す度に、世界で日本の市場だけがこの数日間が「株価変動に対応できない期間」を今だに維持していることへの疑問と不安を思い出してしまう。

ホワイトクリスマス

2022-12-24 | 日記
クリスマスを前に全国的に寒波が押し寄せ、いわゆる「クリスマス寒波」がやって来た。久しぶりにホワイトクリスマスになるかと期待したが、やはり山陽側の平野部では少し雪がちらつくことはあったものの、白い視界が広がるようなホワイトクリスマスとはならなかった。
 ホワイトクリスマスという言葉がいつ頃に生まれた言葉か知らないが、多分「ホワイトクリスマス」という昔のアメリカ映画に使われた歌が切っ掛けなのだろうと思う。雪が積もらない地方ではその「ホワイトクリスマス」という言葉は想像の中の憧れや幻想でしか無いが、青森に居た時は「いよいよ雪に埋もれる季節が始まる」という予告であり、ある意味では「苦しみの始まり」だった。
 それでも、クリスマスを祝うキリスト教の国々では、クリスマスの楽しみや喜びが長く辛い冬の始まりにおける「希望」や「励まし」となっているように見える。だが、日本でのホワイトクリスマスは単なる「飾り」か「商売のネタ」に繋がる言葉でしかない。少なくとも、クリスマスを楽しむ日本人の多くはその根本的な違いを認識しておくべきだろう。そうでなければ、自分達とキリスト教社会の人々の「クリスマスの楽しみ」に違いがあることを理解しないままとなる。
 多くの人達が「キリスト教の国々でも、別に皆が毎週教会に行くわけじゃない」と反論し、自分達と欧米人の意識の違いを過少に評価しようとする。しかし、正月に「初詣」に出掛ける多くの日本人の姿は、外国から見れば十分に宗教的な行いと映るだろう。「自分だって神道の信仰者と考えているわけでは無い」と説明する日本人の多くも、そこに仮に「初詣を単に楽しみだけの機会」として騒ぐ欧米人の姿があれば、その姿に強い違和感を感じるだろう。鳥居のくぐり方、神社参拝の手の叩き方、お盆や弔いの習慣に宗教的意義を見出す多くの日本人の姿は、宗教の異なる外国人から見れば十分に宗教性の濃い人々と映っている。
 日本の多くの風習に含まれる宗教的意義を尊重して欲しいと考えるなら、日本の人々もキリスト教に限らず外国の様々な習慣に含まれる宗教的意義に関心を払うべきなのだろう。


政治資金不記載と政治家の共犯性否定

2022-12-22 | 日記
政治資金報告書における政治資金収入の不記載が明らかになり、書類を作成した秘書の責任と政治家の責任が話題となっている。政治家は不記載の事実は認めるものの共犯性は否定したそうだ。ちょっとまて、それは一体誰の政治活動に関する資金報告書なのだろうか?。
 秘書がそれを作ったとしても、それは政治家本人の政治資金を報告する報告書であるはず。最大の責任を負うべきはその報告書の「本人」の人物では無いのか?。しかも、その政治家は問題となった「収入」の報告書への不記載について事前に報告を受けていたと認めているらしい。不記載とすると知らされた上で良しとしたのならば、その政治家は「むしろ主犯」ということではないか。自分自身の政治資金に関する報告書を作成・提出することの、最終的で最大の責任は政治家本人であるはず。
 そのような意味不明の「逃げ口上」を取上げ、「政治家はのらりくらりと」「秘書に責任を被せて」と受け止めているマスコミの姿勢も如何なものか。誰が作成したにしろ、その政治資金報告書を提出した主体は政治家本人である。自分の政治家としての報告書の内容に「主体的関り」を認めないような発言には、マスコミももっと明確に「認識の間違い」を指摘して欲しいものである。


サッカーW杯終了

2022-12-20 | 日記
カタールでのサッカーW杯は、アルゼンチンの優勝で幕を閉じた。試合は延長戦を終えても同点、ペナルティキック合戦の末にアルゼンチンが優勝を手にした。終わって見れば大接戦の決勝だが、アルゼンチンが前半に2点を先制し後半も半分以上までアルゼンチン優位のままで終わるかに見えた試合。だがフランスにペナルティキックで1点を与えると、俄然フランスの勢いが増し瞬く間に同点に追いつかれ、試合の行方は分からなくなってしまった。
 印象深かったのは、後半の半ば頃からほんの少しずつアルゼンチン守備にスキ見えるように感じていたこと。とは言え、はっきりとミスや緩みと言えるようなものでは無い。アルゼンチン守備がフランス攻撃陣の圧力に押され気味に感じられたという程度のことだ。そんな状況の中、小さな機会でもあれば一気にゴール前までボールを運び相手ゴールを脅かすというフランスの攻撃力が、ただ一度だけ発揮されたということだ。それが最初の1点に繋がると、相手の気持ちが落ち着かないうちに、続けざまの攻撃を2点目に繋げた。
 2点を取る経過が前半のフランスも同じパターンだったのが印象深かった。
あるいは日本の対ドイツ戦逆転の経過も同様。それまで堅くこじ開けられなかった守備が1失点後に少しだけ不安定になり、そこを狙って2点目の攻撃に繋げられるという展開。強豪チーム同士で力が均衡している中で、それが出来るだけの攻撃展開力と、それをゴールに繋げられる得点能力の高い武器(選手)を持つことが、最後に勝敗を決めることになると知らされた。
 もう一つ印象的だったのは、アルゼンチンもフランスもパスとパストラップが驚くほどに正確だったこと。守備からの攻撃への転換や、攻撃における様々な場面展開において、バスケットボールで手でパスをしているような印象でパス回しが行われていたように感じた。パストラップで足元にピッタリ治まるのは、おそらくパスの質(速さ・強さとボールの回転)が正しいからだろう。
 守備陣がパスを読んでカットする場面はあったが、トラップが大きすぎてボールを失うという場面がほとんど無かったという印象。日本チームのパス回しがここに到達するには、まだ相当の時間が掛かるだろうと思って見ていた。正確なパスによる組立てと此処という時のスピード、その両方が揃わないと決勝まで進むチームには成れない、と。
 とにもかくにもアルゼンチンが優勝。メッシの喜びを隠さない姿が印象的で、見ていて「遂にメッシがW杯を手に入れた」という思いが湧いて来た。アルゼンチン国民以外でも、「メッシにW杯優勝を」と願っていたサッカーファンは多いだろう。最後の表彰式の瞬間、世界中の多くのサッカーファンが納得と幸せを感じることが出来た、カタールW杯はそんなW杯になったと思った。