愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

早朝の寒さ

2020-10-31 | 日記

久しぶりに早朝の公園を散歩した。太陽は登っていても空気はかなり冷たく、直接に陽の光を浴びていない限りしんしんと体が冷えた。公園を半分くらい歩いたところで、太陽が差し込むあずまやのベンチで、持って行ったパンを食べて朝食に代えた。空気は清々しく、若干の湿度を感じられる気持ち良い雰囲気に、毎朝ここで朝食にしたら良いだろうな(早起きがかなり辛いけれど)などと思いつつ、背中に陽の光を浴びてしばしテーブルにもたれて暖まる。もう長らくそんなことをやったことが無かったが、背中から体が暖まって来る感触に懐かしい思いがした。

 そう、おそらく小学校高学年から中学生の頃の思い出なのだろう。授業中、窓際の席になった時には、冬の太陽の光を背中に感じて暖まりながら、机に伏して授業の話を聞いていることがあった。反対に北の廊下側の席になった時の床や壁の冷たさ、足元に吹き込む隙間風の寒さをも思い出した。そんな時は、全身縮こまってピクリとも動かさず、手は脇や脚に挟んで、ひたすら授業の終わりを待つ修行僧のような気分がした。何の冷暖房設備も無い我が学校の状況を思うと、ニュースなどで紹介される北の地方の教室の暖房の話題を羨ましく思ったものだ。

 北国まで行かずとも、東京あたりでも、登校風景に生徒がマフラーや手袋をしているのを見せられると、それだけで自分たちの境遇が嘆かわしかった。何しろ、氷が張る朝でも雪が舞い5~10 cmの雪が積もっていても、自分が中高生だった頃は、登校時の手袋もマフラーも禁止されていた。セーターも袖や襟に見えるようなものは禁止。男子学生はまだ、詰襟の学生服で首が多少隠れるし、ズボンをはくので脚の冷たさは軽減されていたが、女子学生はかなり悲惨である。襟元の開きが大きいセーラー服でもマフラーは許されず、襟元に見えるという理由でセーターも禁止。脚は短いソックスのみで、膝下までのハイソックスもストッキングも禁止。彼女たちから木枯らしの吹く朝に登校する寒さを聞かされるたびに、その我慢強さに敬服したものである。

 教室に冷暖房設備が有り服装の自由な大学生になってみると、分厚いコートを着てマフラーを撒いた大学生の隣を、隣接する中学校や高校の生徒がひたすら寒さに耐えて登校している。なまじ滅多に雪の降らない地方に生まれたばかりに、なぜこんな目に合わないと行けないのか?と、心の底から思ったものである。何故、中学生・高校生が靴下やマフラー・手袋で寒さから身を守ることを教育委員会や学校の大人たちが禁じているのか?と。「それを許すと風紀が乱れる」というのが、彼らの言い分だった。

 公園で陽の光を背中に受けながら、「つまり、それが許されている大人たちの風紀が乱れているから、子供たちに真似をさせたくないのだ」と、心の中で皮肉を言いつつ我慢していた頃のことを、ふと思い出した。セーターにハイソックス、手袋やマフラーをして登校する私立学校の生徒の姿は、同じ町に住みながら別世界の人に見えていた。まるで、かつてのテレビで見た東ベルリンの町を歩く西側観光客への羨み、その東側の人々の眼差しは、かつての自分達の眼差しに通じていたのだろう。

 もちろん?、現在は自分の育った地域でも生徒の服装制限の状況は変わっている。男子生徒全員の坊主頭も見ることは、かなり昔に無くなった。教室の暖房についてはよく知らないが、夏の暑さの中で校庭に30分近く立たされた「朝礼」や、200名が冷房のない真夏の体育館に閉じ込められ汗の滴る中での「夏休みの補習授業」、さらに昼間の太陽の下で数十分に及ぶ「体育大会の入退場の行進練習」などは、無くなったらしい。考えてみれば、かつての小・中・高校生はよくそれを耐えたものである。

 それが自分達を鍛えた、ということはあるかも知れない。ただ、それを「教育効果」と呼ぶとすれば、何と貧しい教育しかこの国には無かったのだろうか。そんな昔に感慨?を覚えつつ、清々しい早朝の公園でしばしの暖を味わった。

 


秋の店じまい

2020-10-30 | 日記

10月もあと一日を残すのみとなった。9月から10月にかけて秋の訪れを告げ知らせたものが、次々と消えて行く。虫の音、ヒガンバナ、金木犀の香り。秋の鰯雲・ウロコ雲も見なくなった。コスモスはまだ咲いているが数は減りつつある。すすきの穂がひらいてパラパラと綿毛のような種が風に散らされている。秋の最後を告げるように、セイタカアワダチソウがあちこちの荒地で元気を見せている。栗や梨が終わり、柿やミカンが実を付けている。店にはリンゴも並び始めた。秋が店じまいを始め、冬が少しずつ顔を覗かせて来た。

 鳥もそろそろ冬の鳥に代わりつつある。秋の渡り鳥ももうすぐ通り過ぎ、冬鳥が次々と姿を見せている。この辺りで冬を越すカモは、既に大体の種類が出そろった。次月に入って晩秋を告げる大型のシギが通り過ぎれば、真冬の鳥たちがほぼ出揃うのだろう。野山に出ると当たる風が強くなって来た。木枯らしに襟を立てて双眼鏡を構え、指先に凍える痛みを感じながらシャッターチャンスを待つ日々がまたやって来る。年ごとに鳥の種類や数が減って来る気がしているが、毎年、なにかしら珍しい鳥も姿を見せてくれる。今年はどんな鳥が来てくれるだろうかと考えると、どこか冬の寒さも待ち遠しい気がするのだ。

 


ホテイアオイの繁殖

2020-10-29 | 日記

今年の夏は暑かったせいか、ホテイアオイの大繁殖があちこちで問題化しているという。熱い地域の植物であるホテイアオイには、夏が熱いほど繁殖力が増すのかも知れない。さらに、雨が少なく川の水量が少なかったせいで、川に浮かぶホテイアオイが海まで流下しなかったのだとか。川や池の水面を被いつくすホテイアオイが、冬には枯れて異臭を放つのが問題に拍車をかけるらしい。でも、ホテイアオイは川や池の水質浄化に有効と言う話を、聞いたことがある。

 水の富栄養化が起きた時は、成長の早いホテイアオイが水中の窒素分などを大量に吸収し水の浄化に役立つというわけだ。もっとも、それを水中に放置し腐敗させては、固定した窒素をまた水中に返すことになり水の浄化にならない。繁殖力旺盛なホテイアオイを増える端から取り除いてこそ、水質浄化になるわけだから。ホテイアオイの除去の費用と、別の方法での水質浄化費用との比較の話になるのだろう。ただ、何もしないで富栄養化を放置し毒性の強いアオコ発生など招けば、水中生物の大量死にもつながることもすでに経験済みだ。もし、ホテイアオイを水質浄化目的で池や川に投入したケースがあり、それを定期的に除去せず(水質浄化の実質努力なくして)放置したのだとすれば、それも大きな原因ということになる。

 アフリカかのどこかでは湖のホテイアオイを採集して家畜に与える、というニュース画像を見たことがある。ネット検索をすれば、国内の研究でもホテイアオイを家畜飼料にも利用できるという報告がいくつも見つかる。中には政府が科学研究費を投じた研究報告も含まれる。何故、未だにそのような利用が拡がらないのか? ホテイアオイを家畜肥育用の飼料産業として利用するには、広い水面が必要となり費用が掛かるのかも知れない。しかし、水面から回収したホテイアオイをどこかの空き地にただ積み上げて腐らせ、近隣住民を悪臭で苦しめるよりは、どうせなら家畜飼料に加工した方が、エネルギー再利用にも沿っていると思うのだが。化学肥料で生態系への窒素・リンの大量供給を続ける現代農業では、それらの流出によって富栄養化する川や池からの窒素・リンの回収が不可欠なのだから。

 少なくとも、このホテイアオイ大繁殖のニュースの中で、繁殖力旺盛な単なる危険外来植物という面しか扱わないマスコミの論調には、少々首をひねる。もし個人的な鑑賞用だけでなく、水質浄化に利用しようとした例なども調べて発現しても良いのでは?と。失礼な推測となってしまうかもしれないが、実際、ホテイアオイの飼料活用の研究など知る由もないのではと感じている。だとしたら、今の報道各社の情報収集能力というか、情報収集意欲というものに一抹の不安を持つ。マスコミに携わる人々が、よく多様性、多面的という言葉を口にするが、一方で、彼らは本当に多面的に物事を見る意欲を持っているのか、情報源や意見の多様性を彼ら自身が包含するだけの能力をもっているのか? とふと疑いたくなる。

 ホテイアオイをインターネットで少し調べれば引っかかって来る情報である。ウィキペディアには、日本への導入が19世紀末で、浮世絵に出てくるともあり、吸着剤・水質浄化での利用や家畜飼料・バイオ燃料への利用の研究についても紹介されている。「鑑賞目的で買った個人が不用意に水系に捨てた」という話だけで済ませるべきだろうか? 導入や拡散の歴史に一言も触れず、「外来生物」「生態系の破壊」という近頃流行りの言葉が並ぶだけの批評は、いかにも浅く感じられる。「在来種」を、時間をどこまでさかのぼって定義するのかもはっきりしない。人参・トマトも外来種、コスモス・セイタカアワダチソウや西洋タンポポ、海岸で見かけるムラサキイガイはホテイアオイより後に入って来た外来種だ。

 「なにしろ、我々が栽培している野菜・果物の半分以上が外来植物・人工的に作り出した非自然な植物である」。在来種の保護、外来種の駆除、従来の自然・生態系の保存を口にする時、一方で好意的に取り上げたりもするそれら外来植物や人工的植物の野生化や野生種との交配を、実際にどこまでの覚悟と方法を考えてのことだろうか、というぐあいに思いが巡ってしまう。「どこまでの排除が必要で、また可能なのか」、それらを丁寧に考える機会が無いまま一時の「流行り」で終わり、やがて忘れ去られてしまうのでは困る。

 


歯周病とアルツハイマー型認知症

2020-10-28 | 日記

歯周病とアルツハイマー型認知症との相関性はこれまでにも指摘されていたそうだが、歯周病からアルツハイマー型認知症の発症に至るまでの機序が解明されたことで、あらためて認知症予防における歯のケアの重要性が注目されている。歯周病に限らず、腸内細菌や、体表や体の各部に棲息する細菌と健康との重要な関係が指摘されて来たが、ついに認知症にも細菌の存在との関係が見つかったのかという感慨がある。

 何かの病気と、その病変部に存在する細菌との関係性は誰にでも想像のつくところだが、腸内細菌と免疫システムの関係であったり、歯周病菌と脳内のアルツハイマー型変性との関係というのは、なかなか想像のつきにくい処だと思う。ただ、近年は体の様々な生理機能と "常在細菌 " の影響を受けることや、それらの影響を通して細菌がヒトとの "共生関係" にある例も知られてきている。

 認知症における歯周病菌の関与は、口腔内の細菌が有害に働く例だが、歯周病菌の発生・増殖が口腔内の細菌叢によって制御されているとしたら、いわゆる"善玉菌" とヒトの関係は "共生関係" と言えるかも知れない。歯周病の防止については歯磨きの励行が勧められているが、一方で、口腔内の殺菌やうがい薬などで細菌叢に過度な影響を与えることが、かえって歯周病菌など "悪玉菌" の増殖を招く可能性も指摘される。つまり我々がより良い人生を送るためには、 腸や口腔の "善玉菌" とうまく共生・協力し合い、様々な "悪玉菌" と闘わなければいけないということなのだ。


脱炭素化宣言

2020-10-27 | 日記

日本政府は30年以内の(2050までに)脱炭素化を目指すことになったようだ。石油・石炭をエネルギー源とする今のシステムを転換し、化石燃料を使わないでエネルギーを作り出す(取り出す)というわけだ。そこで気になるのが、原子力。石油・石炭の分をそのまま原子力で置き換えることでも「脱炭素化」は実現したことになるからだ。原発事故によって、その怖さを思い知らされたはずの原子力発電からの脱却は目標に入っていない。

 今回の「脱炭素化宣言」の中で、いわゆる再生可能エネルギーの活用がどこまで進められるのか、目標はそれほど明確になっていない気がする。「できるだけ、・・開発を進めつつ・・」と言っても、どの再生可能エネルギーに重点を置くのか? 具体的な発電量の目標をどのように設定しているのか? そこがまだ曖昧なままで、期限付きの脱炭素化だけが迫ってくれば、結局のところ原子力発電しかないというストーリーに持って行かれそうで、かえって不安になった。脱原発と脱炭素化の同時実現を目指す方法が早く見いだされることを、心から願うしかない。