愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

サンショウクイの渡り

2021-08-31 | 日記

8月末から9月初めに掛けては、南へ帰るサンショウクイがこの辺りを通る。先日1回目の観察に出掛けたが、空振り。今日は、一時間くらい早く出掛けて見ることにした。山の駐車場には3・4台の先客があり、聞くと、すでに一つの群れが飛んで行ったという。ということは、今日はサンショウクイの渡りを見られるのじゃないか・・・と期待も湧く。

 駐車場から少し奥の方に上って行くと、僅かにサンショウクイの声がした。開けた草地の周りの木々の中、あちこちから独特の声が聞こえている。カメラを手に、ゆっくりと木の枝々を探していくが、葉の陰に隠れていてその姿が見えない。と、突然、頭の上で沢山のサンショウクイの声。空を仰ぐと、30~50羽のサンショウクイの群れが、あっという間に頭の上を超えて行った。カメラを向ける暇もなく。

 そして、2つ目の群れが遅れて飛び立った。今度は、少し見晴らしの良い場所まで出て、遠い雲の中に消えていくサンショウクイの群れを撮った。本当は、真上を飛ぶ群れを撮りたいのだが、いつもカメラを向ける前に飛び去ってしまう。帰宅してから昨年の記録を見てみると、昨年は9月9日が初めてのサンショウクイ目撃だったらしい。毎日行っているわけじゃないので正確ではないが、少なくとも自分のサンショウクイ初見は、今年は一週間以上早い。

 サンショウクイを探す一方で、山の木々からはしきりにツクツクボウシの声が聞こえて来た。例年サンショウクイを待っている時間に、こんなにツクツクボウシが煩かったかな?と、ふと思う。蝉はまだ煩いが、ともかく、今年の秋は早く来るかもしれない。なにしろ、秋雨前線が8月初めころから現れたくらいなのだから。サンショウクイが渡り始めれば、いよいよ秋の鳥見も本格化することになる。


アフガン撤収

2021-08-30 | 日記

アフガニスタンからアメリカ軍も撤収した。日本から向かった自衛隊輸送機は日本人1人とアメリカに依頼されたという数人をパキスタンに運んだものの、カブール空港からは既に撤収しており、アフガニスタンにはまだ、日本人や日本と関係の深いアフガニスタン人が約500人残ったままだという。

 日本への脱出希望者がバスで脱出しようとした丁度その日に、空港付近でのイスラム国ISによる自爆テロが起きたという巡り合わせは、確かに不幸な偶然だったと言えるのだろう。しかし、自衛隊機がカブールに向かった日がカブール陥落から既に10日近く経っており、既に他の国のアフガン脱出の動きが連日報じられている中だったことを考えると、日本の動きが遅すぎた感も否めない。

 自衛隊機派遣のニュースと同時にタリバン責任者の「8月31日の期限内であれば、脱出は問題ない」というインタビューが流れたことを覚えているが、それを聞いて「今から飛行機を派遣していて間に合うのか?」と思わず呟いてしまったことを思い出す。空港での自爆テロが脱出の日に重なったことは確かに不幸な偶然と捉えられるが、遺された人達には「あと1日早く動いて居れば、その前に脱出できていた」という思いが残るだろう。

 聞けば、カブール陥落直後に国外に日本の大使館員の全員が脱出し、カブールでの情報収集やいろんな手続き・交渉がスムーズに行えなかったという見方もあるらしい。他国ではカブール空港内に大使館機能を移転し、大使館員が最後まで残って業務を継続していたという。一旦は外国に退避した後でも、一部の館員がカブール空港に戻り救出のために動いた国もあったという。

 日本が早期に動き出せなかった理由の中に、日本が脱出を助けたアフガン人達の「難民受入れ」をどうするかという問題があったという推測もある。先進諸国の中でも、日本が「難民認定」を嫌うことはよく知られている。実際にそのことが救出の遅れにどの程度影響したかはともかく、こういう状況が起きてしまえば、再び「日本はなぜ難民を受け入れないのか?」という疑念が再び諸外国の人々の頭に浮かんでも不思議ではない。

 日本大使館や日本の諸活動に協力してくれたアフガン人数百人を「いち早く難民認定する」という覚悟があれば、救出活動への取り掛かりも活動自体もスムーズに進んだのではないか?という疑念が今後も長く残るだろう。悪くすると「日本に協力しても、いざという時には置き去りにされてしまう」という疑念を、政情不安定な多くの国の人々に植え付け兼ねない出来事になってしまった。こうなった以上、「外国の軍隊がアフガニスタンを去った」とタリバンと交渉を進め、軍隊・軍用機を使わないやり方での「救出・脱出支援」を粘り強く続けるしかない。あとは「軍隊を持たない日本」が、その分野においては力を発揮できると期待するしかない。


若者向けワクチン接種

2021-08-29 | 日記

東京で若者向けのワクチン接種が始まった。会場が渋谷だということで、「若者を狙った」という意図は感じられなくもない。しかし、「事業目的」はワクチン接種である。「若者向けなら渋谷でという発想からなのだろう」と推測すると、状況に応じて判断できない「融通の利かない安易な発想」と言う印象の方が強く浮かんでしまう。どこまで、その「若者=渋谷」の固定観念にとらわれているのかと、ガッカリ。

 何となく感じられるのは、「渋谷にはコロナ禍でも出歩いている若者がいるから、そこに接種会場を作れば、中には看板を見て打ってみようかという気になる若者もいるのではないか」というような考えが底にあるのでは、という事。そこには、「早期のワクチン接種を希望する」若者達が多くいるという認識が抜け落ちていたのだろう。案の定、始まってみると「ワクチン接種の機会を待っていた若者達」が遠くからも詰め掛け、朝の8時頃には一日の接種分を上回る人数が列をなしているという状況になった。

 しかも、予定の一日の接種分は200人とか300人という少なさである。その準備数の少なさからも、「渋谷に出歩く若者達の中に、ワクチンを打つ気になってくれる者が出て来るかもしれない」という事前想定が伺われてしまう。思いは単に「渋谷に集まる若者の中にも・・・」だったのかも知れないが、「渋谷に千人以上の若者を集めて並ばせる」という結果になった。慌てて「若い世代にもワクチン接種を望む声が意外に多いことが分かった」などとコメントしたが、若い世代にワクチン接種希望査が少なくとも1割から2割程度いることは、既に世論調査で明らかだったはず。今更、そこに気付かなかった素振りをしても印象を悪くするだけだろう。早々に「やり方の間違い」を認めて改めるべき。

 首都圏の対象年齢の人数を考えれば、200・300という数が希望者の1パーセントにも足りないことが分かっていたはず。仮にその計算ができなかったとすれば、そんな行政官に生活を委ねるわけには行かない。対象年齢は20歳から39歳というから、東京都だけでも対象人数は数百万人になるので?。既にワクチン接種を終えた人が居ることを考えても、少なくとも百万人を超える対象人数に一日200人分とは少なすぎ。「若者専用の接種会場を作る」と宣伝するなら、少なくとも一日2・3千人分は用意して欲しい。もしも人員などの理由で接種能力が小さいなら、それを公表しておくべき。

 暑い夏の最中にわざわざ渋谷まで来て何時間も並ばせるのも、また如何なものか。専用ホームページを作り、そこで申し込みも抽選も済ませてしまえば接種会場前での「密」を避けることもできる。無駄な「運賃も並ぶ時間も」必要無くなる。実情は、接種開始から数日たってもまだ、毎日並ばせて整理券を配るというシステムという。さらに「スマホにコードを読み込ませての抽選、結果はスマホで見る」と聞くと、行政側のどこに「抽選のエントリー権確保だけのために渋谷まで出かけ何時間も並ばせることの必要性」があるのか分からなくなる。若者接種専用ホームページで時間限定で受付けを行い、申込者に「整理番号」を割振った上で抽選結果もホームぺージに表示すれば良いではないか。多くの若者たちは、それで時間と運賃を無駄に使わなくて済む。

 不要・不急の外出で都会を出歩く若者達が多くいると嘆く一方で、政府・行政当局は「ワクチン接種を希望しながら、未だその機会に出会いない」という若者が数多くいることを正確に認識すべきである。その認識が無いままでは、効果的なワクチン政策など立てられようも無い。全国自治体のデジタル化の先頭に立って当然の都庁がこの現状。さらに「この場に至って、この言い訳・・・」と天を仰ぎたくなるようなコメントには、ただ項垂れるしかない。


本棚の整理

2021-08-28 | 日記

若者に手伝ってもらって本棚の片づけをした。家の本棚に新しい資料や本を並べるスペースが無くなり、昔の定期購読していた本が読まれないまま並んでいた場所を、開けることに決断したのだ。一時期定期購読していたナショナルジオグラフィックは、最初の頃はいくつかの記事を読んでいたが、忙しくなると届いたまま読まずに並べるだけになっていた。少しくらい古くても雑誌の売りでもある写真は綺麗なままだし、記事にしても別に最新情報である必要も少ない。そのうちに時間が出来たら読めば良いと思っていたわけだ。

 もう一つの雑誌は所属団体のもので、会員となって会費を払っていれば定期的に届く。ある意味、その団体に所属していることの証しのようなもので、すべての巻号に興味深い記事があるわけでは無いが、時々は会員仲間の書いたものが載っていたりする。仕事上ではメインの団体ではなくなった後も、半分は付き合いと自分の出所を忘れないためにと言うような意味で残していたが、さすがに本棚の一段を提供しつづけるには無理が生じていることを認めざるを得なくなった。

 そんなわけで、5年くらい前の本棚整理の際には生き残っていた雑誌類を数十冊ずつ処分して場所を開けた。手に取ったナショジオをパラパラとめくって見ると、紙も未だ変質しておらず写真もまだ元のまま。「ナショジオはさすがだな」と惜しい気持ちになる。だが写真はともかく、既に10年以上も経った記事の内容については現在の社会や文化を表しているというより少々歴史的な記録となりつつあるだろう。もし今から読むのなら、定期購読を再開した方が良いと思い、廃棄処分を納得。

 本棚の整理は、やり始めるとそのまま続きそうで、この際、必要性の薄いものをすべて処分したくなるが、取り敢えず2か所で段を開けたところまで。そして、これまで整理できずにいた本や資料を空いたところに並べると、もはや空スペースは半分以上埋まってしまった。その中には、未整理の写真やアルバムなどもあり、これらの整理は定期購読所を纏めて捨てるような具合には行かないのだ。せっかくの空きスペースも、さらに整理の厄介な物に占領されて行き、「これは誰がいつ整理するのだろうか?」などと他人事のように思えて来る。

 年を経るごとに身体には贅肉が、身の回りには「整理の付かない品物」が増えていくものらしい。「人生の三分の一は寝ている時間」と言うが、さらに「人生の三分の一を整理し捨てることに費やす」ことに、もっと早く気付くべきだったかもしれない。それを知らずに過ごしたせいで「残りの人生の半分以上を整理と処分に費やす」か、「整理できない人生の残り物をそのままにして積み上げる」のかという見っとも無い選択に迫られてしまいそうだ。でも「何に価値があるかは、直ぐにその場では分からないことが多い」ので、その決断がどうしても数年後になってしまう・・・というのが言い訳である。


久々の星空

2021-08-27 | 日記

寝る前に窓を閉めようとしたら、東の方がやけに明るい。空に星も見えたので、一時ベランダに出て星を眺めてみた。長雨の間にも雲間に見える星や雲間からの月明かりは見られたが、ほとんど雲の無い星空が見れるのは何日振りだろう。ベランダに出ると、東の空には上弦の半月が昇っていた。

 頭上を見上げると、白鳥が西に傾き始めている。長雨の前にはまだ頭上に昇ろうとしていたところだったような気がして、夏の星座がその定位置に付く前に雨で隠されてしまったように思われてくる。蠍も南西の町灯りに搔き消され、夏の夜空をしのぶものはもう白鳥のみ。

 その白鳥もどこか物悲しく弱々しく光っていたが、代わって頭上にはベガサスの大方形が掛かって来て、季節の交替をせっついているようだ。やけに明るい上弦の月も、いずれ月の出が遅くなりつつ新月を迎えるだろう。そして下弦の三日月から次の満月を迎える夜は、おそらく庭中の虫の声が賑やかになっていることだろう。久々の明るい星空は、また一つ夏が通り過ぎて行ったことを告げているようだった。