愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

藪に潜む忍者鳥

2022-01-30 | 日記

この冬、干拓地の外れにある藪に、フクロウの仲間のトラフズクという鳥が渡って来て居付いている。誰がどうやって見つけたのか知らないが、そんな情報が巡り巡ってやって来て、どんな鳥なのか?と出掛けて見た。もう数日間、2日に一度はその藪を尋ねてトラフズクが止まっていることを確認しているが、とにかく昼間はほとんど動かず、じっと止まったままだ。

 時折り止まる位置を変えられると、こちらはもう見つけることが難しくて、「もう居なくなった」と思ったこともある。その後、丹念に探すと昨日までとは異なる場所で、やはりじっと止まったままで居る。身体の模様が枯葉や枯れ枝に上手く紛れ込み、見た人達も「居ると分かってるから見つけられる」けれど「居ると知らないで一通り観察したんじゃ見つからない」、「居ると思わなければこんな藪を丁寧に探す人は居ないんじゃないか」との感想。

 確かにそのとおり、たまたま見つけた人が居て今年の騒ぎになったが、もしかすると毎年ここに来て藪に隠れていたのかも知れない。この変哲もない藪を通り掛かり、その奥を「トラフズクが居るかも知れない」と真剣に探した人はおそらく居なかっただろう。何事も、目の前の何かのほんの小さな違いに目を止めることが思っても無い発見に繋がる、そんな思いを新たにさせた「藪に潜むトラフズク」である。


ワクチン接種予約

2022-01-29 | 日記

ワクチンのブースト接種、いわゆる3回目接種を予約した。モデルナ製になるそうだ。オミクロン株の感染が拡大しているのでもっと予約が混み合い2月終わり頃になるかと思っていたが、意外に空いていて再来週には打てることになった。なぜ3回目がそんなに空いているのか、という理由には、おそらくは今の予約では接種されるワクチンがモデルナ製だからということなのだろう。これまでファイザー製を打って来た人達には「副反応が不安」と考える人が多いようだ。

 そもそもファイザー製にしろモデルナ製にしろ、副反応の原因もその機序も明確ではないし、両者のワクチン成分の違いが副反応の違いであると確定できるかどうかも分からないように見える。モデルナ製のブースト接種では、接種ワクチン量を半分にするということで、少なくとも、注射した成分の量が副反応の強さに関わるような反応は、その強度が減少するものと考えられる。

 仮に以前の量が副反応の閾値を僅かに超えていたという場合は、注射量が半減することで注射量が閾値を下回って副反応が起きなくなるはず。しかし、注射量が半減してもなお閾値を超えているような人には、ワクチン接種料の半減は意味を持たなくなる。副反応の有無や反応がおきるかどうかの閾値には個人差があるだろうから、ワクチン接種量の半減が全ての人に対して「副反応の大幅減」をもたらすものでも無い。

 しかし注射量が半減することで、大きな人数が対象となる統計データでは、一定程度の副反応鎮静化効果が期待できるのではないか。また、1・2回目におけるモデルナ製での副反応においても軽症例が多く、現時点のような感染急拡大の最中で行われるワクチン接種に際して接種を躊躇させる要因とは思えない。実際に接種した後になって自分の身体がどの程度の副反応を起こすかどうか、いずれにしてもそれは分からない事だ。

 だが、他に打てるワクチンが無い状況では、副反応の可能性よりも「時間的制約」を優先すべきと考えた。あとは、自分の身に起きる副反応が出来るだけ「軽く済む」ことを願うのみ、ということだ。


「あしたのジョー」ラストシーン

2022-01-28 | 日記

連載マンガ「あしたのジョー」を取上げた番組があった。主人公のジョーに思いを重ねた学生運動家たち、「全共闘」のリーダーが「あしたのジョー」の名前を叫んだという話。ジョーのライバルだった力石徹の「隠れたモデル」と言われる人物が、まさに当時の学生運動を抑える側に立たされた学生でもあったという話。フィクションであったはずのジョーが人々の意識の中で独り立ちし、やがて実際社会の動きの中で多くの人々の心の中に強烈な存在となって行ったことが分かる

 番組では、マンガの中の登場人物「力石徹」の葬儀を行った劇団「天井桟敷」主催者・寺山修司の思いと、葬式に多くのファンが実際に参列したことも取り上げられた。寺山修司を知る人物の一人が「それは寺山修司にとって、それまでの時代への決別だった」と語った。「力石が死んだ!」という言葉が、当時の漫画ファンの子供たちの間でも大きな衝撃を拡げた。「なぜ力石は死ななければならなかったのか?」、子供たちは理由など考えることもせずに、ただ予想も付かないストーリー展開にショックを受けていた。

 だが、今になって作り手側の思いがどうだったのかを聞き、「ストーリーの中での必然性」を納得できたような気がする。「人気連載マンガ」以上の空前の作品となった「あしたのジョー」が背負っていた「もの」を、あらためて大人の目で振り返った気持ちだ。寺山修司による現実世界での「力石徹の葬儀」の意味も、寺山修司という人物がその時代に放っていたオーラも、やっと分かったような気がする。そして、同時に、その「力石徹の死」は、「あしたのジョー」の中での前半での出来事に過ぎなかったことが思い出された。その後のジョーはどうしていたのか?、はっきりとした記憶がないのだ。

 マラソン選手の有森裕子が「あしたのジョー」の熱心な読者だったということを知った。年代から見て連載マンガでのリアルタイムの読者ではないと思うが、それでも彼女の競技人生や人生観に影響を与えたようだ。番組では「あしたのジョー」のラストシーンについて語っていた。バルセロナ五輪でのマラソンで銀メダルを取った時、あのラストシーンに「ジョーは死んだ」と感じていたそうだ。「すべてが燃え尽きた」というのは「もう生きる必要が無い」ということに思えたのだろう。彼女も銀メダルを取った後、死んだように感じていたと思い返していた。しかし、アトランタ五輪のマラソンで銅メダルを取った時には、同じラストシーンのジョーに「ちゃんと生きていて、これから何かを始めるのだろう」と感じていたという。最後に「燃え尽きたら、生きていなきゃ。」と締めくくった。

 自分はあのラストシーンをリアルタイムで読んだ。ホセとの試合は最後は毎週1ラウンド分しか進まず、試合終了まで数か月間、マガジンの発売日を心待ちにして行きつけの喫茶店に入り、長い間の順番待ちの末に「あしたのジョー」を読んでいた。その試合が終わった時、どちらが勝つかも興味大ありだが、最終的に「あしたのジョー」を終わらせるのか、まだ続けるのか、終わるとすればどう終わるのか、に関心があった。あのラストシーンのジョーを見て、その台詞を見て、自分も決して「ジョーが死んだ」とは感じなかった。ただ、そこまで闘い続けて来たものに納得し、自分が全てを尽くして闘うことが出来たという満足、というか安堵を噛締めているのだと。有森裕子が語ったように、「生きていて」、いや「生き抜いて」、「きっと、何かをまた始めるのかも知れない」という期待を感じたラストシーンだと思って来た。

 随分長い時間を経て、またそのことを思い出す日があるとは思わなかったが、同時に、ジョーの生き方や「あしたのジョー」の物語がずっと生き続けているということに、感動させられたひと時だった。


共通テストの不正

2022-01-27 | 日記

大学入試共通テストで、試験中の問題漏洩事件が起きた。問題漏洩が発覚に至る状況も異例なら、それが「試験時間中に問題漏洩が起きた」ということも異例な事件。不正の本人が出頭して来たので不正の方々が明らかとなったが、当初はスマホではなく高度なマイクロカメラなどが使われたのではないかという推測も多かった。逆に言えば、現在のスマホの操作に熟練すれば一般に想像されているよりも高度な「不正行為」が可能だと教えられたことになる。

 IT機器の簡便さに加え、画像撮影や送受信の装置が日々小型化していく現在に、今まで通りに人が見廻って見つけるという試験監督・不正防止の方法だけでは、完全に不正を防止することが難しいことを教えてくれた事件でもある。今回は気付かないうちに不正の片棒を担がされそうになった大学生が通報するという形で発覚したが、裏返せば、漏洩問題に解答を送る役割を承知で関わっていたとすれば「通報」は無かったということになる。

 今回は、たまたま発覚してしまったから不正を防ぐことができたのだが、もしかすると過去に、似たような方法での不正が行われていたのかも知れないとも考えられる。今回、漏洩が発覚し犯人が自首したことで、「不正をしても最後にはバレるのだ」と溜飲を下げるような発言もあるが、試験中に外部との通信が行われ問題が漏洩したということが重要で、外で受け取る物が漏洩問題と承知の上で加担していた場合には、解答が送信され不正受験が秘密裏に成功した可能性が十分にあるという事実を見なければならないだろう。

 そのように考えれば、少なくとも試験会場の内と外での電波通信を不可能にする「妨害電波・ジャミング」の設置が必要になるのではないかと思われてならない。試験監督者の人数を増やして巡回回数を増やしても、巧妙に仕込まれたカメラや通信装置を「巡回観察だけ」で発見できるだろうか?。また、全ての持ち物を提出させて身体検査でもしなければ、巧妙な「盗撮装置」の持ち込みを防ぐのは難しい。盗撮や通信の技術が進む中で試験の不正を監督者の目だけで防ごうとするなら、不正防止に当たる監督者たちの精神的ストレスがかなりの大きさになるのは「火を見るよりも明らか」だ。

 もちろん不本意な事だが、今はもう、受験生の持ち物検査やボディーチェックを行い、さらに電波妨害を施した試験会場を準備しなければ、本当の意味で不正の無い共通テストなど実施不可能な時代になってしまったのかも知れない。


カワセミ

2022-01-26 | 日記

近頃よく訪れる干拓地で、冬の猛禽の登場を待っていると、予期せぬ鳥がふと姿を見せてくれることがある。カワセミもその一つで、隅っこの水路の脇に止まっているのを見つけてから、猛禽を待ちくたびれた時にカワセミの様子を撮影したりする。ただ、結構離れた所から、それも車の中からでないと撮影出来ず、少し角度を変えたいと思って車から出ると人影に敏感に反応して飛び去ってしまう。

 たまたま同じ場所を通り掛かったバーダーと情報交換をしていて、一昨年までどこかの公園の池に非常に人馴れしたカワセミのつがいが現れていたというのを聞いた。人が座っていると、すぐ横に止まることがあったり、居並ぶカメラマンの前で雄が獲った獲物を雌に渡す求愛の行動まで見せていたそうだ。そんなに馴れたカワセミなら一度撮影したいと思って今の様子を尋ねたら、残念ながらつがいの一方が「お亡くなりになって」昨年は一度も姿を見せなかったという。

 「飛ぶ宝石」とか「水辺の宝石」と呼ばれるカワセミを、ゆっくりと近くから撮影したかったという気持ちもあったのでいかにも残念なことだが、野生で生きている生き物が寿命や猛禽に襲われたりして落命するのは良くあることだろう。カワセミのような用心深い鳥が人馴れしてくれる環境がある場所ならば、そのうちまた新しく同じように人を警戒しないで近づいてくれる鳥が現れてくれるだろうと期待することにした。

 人馴れしたカワセミということで思い出したのが、随分前に、海外協力でバングラデシュに滞在していた知り合いの若い大学生からもらったメール。バングラデシュでは、用水路や川の岸辺で頻繁にカワセミを見掛けるというのだ。人がいてもそれほど逃げることも無く、結構近くから軽い望遠レンズで撮影できるとのこと、おそらく150mmくらいで撮影したカワセミの写真を送ってくれた。水田地帯の濁った水路の岸にとまって、じっと水面を見つめているようだった。カワセミは山奥の清流でないと住めないと聞いていたのに、何故こんなに濁った水路しかない水田地帯にたくさんのカワセミがいるのだろう?とメールは尋ねていた。

 大事なのは水が澄んでいることではなく、生きて行くための餌となる魚がどれくらい居るかということなのだと考えて、「日本では山奥の清流にしか魚がいなくなったけど、バングラデシュでは濁った水路にもたくさんの魚が居て狩りができるからだろう」と返した。確かに、最近は日本でも干拓地や住宅地の人気の少ない水路、山が近い公園の池などでもカワセミを見ることができるようになった。おそらく日本の農村でも、カワセミやヤマセミのような水面近くを泳ぐ魚を飛び込んで狩る鳥たちが、昔はもっと身近に普通に見られたのだろう。人が彼らを大事に思って、彼らの生活を邪魔しないように心掛ければ、一度は幻になってしまった野鳥たちも現代の人間が住む環境の中に少しずつ戻ってくれるのかも。是非そうなって欲しいものだ。