愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

マラドーナの記憶

2020-11-30 | 日記

先日、かつてのアルゼンチン代表「神の子・マラドーナ」の訃報が流れた。昨日の深夜、メキシコ・ワールドカップの映像が流れていた。今と比較すればいかにも荒れた解像度の悪い映像だが、それでも、マラドーナのプレーを初めて見た興奮を覚えている。今の中継映像の解像度で見たなら、もっと細かな足や体の動き、手を使ってのバランスの取り方や相手の体の押え方などが伝わって来るだろう。

 日本サッカーがまだワールドカップ出場を目指すことすら考えられなかった時代、ワールドカップ中継で突然目にする世界のサッカーはすべての面で衝撃的だった。あの「神の手ゴール」もその一つ。後からの映像で見れば「明らか?」なそれが、マラドーナだから通用したのか、審判の死角で見えてなかったのか、いずれにしても彼が世界的な超一流プレーヤーだということが、ひしひしと伝わって来た。

 その頃の日本プロ野球でも、「王選手が見逃せば、それはボールになる」という話を聞いたことがある。お互い人間同士の選手と審判の関係には、どうしてもそういう所がある。確かに、現在のビデオ判定は正確さと公平さを確保するうえで優れていると思うが、古くからの人々にとってはかつて「伝説」に隠されていた一角が露になってしまう「味気無さ」も多少ある。もちろんプレーヤーにとってみれば、やはり、公正で正確な判定が最も歓迎されるということは、言うまでもないのだろうが・・・そんなことを考えながら、しばしの間、古き「マラドーナのワールドカップ」の映像に見入ることとなった。

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鳥待ちの人々

2020-11-29 | 日記

夕方、久々に東の干拓地を訪れた。かつては猛禽の写真を撮る人々が毎日のように張り込んでいた場所だが、ここ数年は目当ての鳥が姿を見せず、いつ通りかかっても人影もなく寂しい限りだった。

 ところが、行ってみると車が数台、人影が5・6人の人影がある。別な一角にはさらに車が4台、3・4人の人影が。ありゃ、これは久々に例の鳥が現れたのか? と思って脇道を通りかかった。薄暗い中こちらに手を振る人影を見て車を停めると、それは知り合いのご夫妻だった。

 「○○が来てるのか?」と聞くと、「そうそう、数日前に見掛けて、昨日も見た」との返事。それは嬉しい、数年ぶりに例の鳥を見ることができるかもしれない。そして待つこと30分、暗くなり掛った干拓の畑にその鳥が現れた。しかも、まん丸い月をバックにハヤブサと絡んでバトル。

 写真を撮るには暗すぎてあいにく月をバックのシルエット写真になったが、「さすが猛禽!」と思わせるシーンを楽しみながらシャッターを切り続ける。帰ってパソコンで確認すると、やはり暗すぎて鳥の姿は分からない。しかし目にははっきりとその姿が残っている。皆で「随分久しぶりだねぇ!」と言い合う声に嬉しさが表れていた。

 その鳥の姿の懐かしさに加え、かつて冬の日の習慣になっていた午後の干拓での鳥待ちの時間を思い出す。この冬、しばらくはまたその鳥の出現を待つワクワク感を味わえる、という嬉しさを胸に暗い道を帰路に付いた。

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CO2排出0

2020-11-28 | 日記

CO2すなわち炭酸ガスの排出を0にするという。これは結局のところ化石燃料を全く使わない、という目標である。従って、穀物などの発酵によってつくられるエタノールを燃料とするのは良しとしている。天然ガスもそのほとんどは化石燃料とみなされているので、天然ガスも使わないことになる。

 現時点ではその目標に向かって、いわゆる「再生可能エネルギーを増やすことに全力を尽くす」という段階なので、「0」にすることについて世論としての議論はほとんどないように見える。ただ、地震や台風災害の多い国で、「炭酸ガス〇〇割削減」「化石燃料比を○○%まで減らす」というならまだしも、前提も見通しも方法も示さず単に「〇〇までに化石燃料0%に」という目標を掲げるのはどうだろうか? 停電、それも大規模停電になれば一気に光熱水全ての手段が経たれてしまう可能性をどこまで考慮し、どのようにそれを避ける手立てを考えているのか、示して欲しいものだ。

 世間的には「電気自動車」や「オール電化住宅」くらいが思いつく範囲かも知れないが、実現するとすれば災害時の緊急自動車、非常時の自家発電装置、船舶、飛行機などはどうするのか? 未だに「電気だけで走る大型船舶」や「醸造エタノールで飛ぶ飛行機」の試験航海・試験飛行すら耳にしたことは無い。さらに軍事については考慮外だろうか? 電気で走る戦車、エタノール燃料の戦闘機? どれもまだ世界での実用例は無いと思う。「化石燃料の消費を0に」というのは、プロパガンダとしては良いが、本気でその実現を計画しているという実感には欠ける。

 今や世界の潮流は「脱化石燃料」を現実化していく段階なので、「実際上○○年までは何%の化石燃料使用が避けられない」という具体的数字を挙げて、そこまでの削減を目指すという主張で無いと「やる気」が伝わらないと思う。未だに「高速増殖炉」の実現可能性を「信じ?」、核燃料サイクルの実現を政策に掲げる世界でも稀有な国としては、エネルギー転換への本気度を世界に実感してもらえるような「より具体的なプロセス」の策定が必要ではないだろうか。

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新型コロナ感染症と統計

2020-11-27 | 日記

ニュースを見ていて意外なデータを聞いた。日本における最近の新型コロナ感染による死亡者を追跡したところ、「重傷者」を経て死亡した数よりも「重症者」とならないままで亡くなった数の方が数倍も多いというのだ。自分はこれまで、何となく?、新型コロナによる死亡者というのは、発症した後に軽症・中等症から重症化し、重傷者用ベッドの上で亡くなった人々なのだと考えていたが、現実はそうではないという。軽症で療養していた後に重症化し、そのまま重傷者として入院・治療を受けないままで亡くなるケースが多くなっているのだという。

 ICUに移ったり人工呼吸器を付けたりという「重傷者としての治療」を受ける為に重傷者用ベッドに移らなければ、統計的には重傷者として扱われていないということである。高齢の新型コロナ患者が増える中で、重症化した患者の家族が人工呼吸器の装着などを望まない場合が少なくないらしい。言い換えれば、高齢者では新型コロナ感染の重症化がそのまま「看取り」に繋がることが少なくない、ということらしい。ある意味では「重症化よりもっと痛ましいケース」が増えているにもかかわらず、それが反映されない集計方法で「見掛け上の重傷者数」だけが発表されるなら、社会に大きな誤解を生むことになる。

 しかし、死につながったケースにも拘わらず、その患者が「重症者」に数えられないままというのは、統計的には問題なのではないか。今回の新型コロナ感染に関しては、県による基準の違いとか、検査数の中に民間機関による検査が集計されていないなど、統計の取り方に関するいろいろな問題が議論されてきたが、重症者の死亡率よりも軽・中等症の死亡率が高くなるような統計になるのだとすれば、データの取り方・重症者数の集計方法を考え直す必要がある。

 重傷者用ベッドに移らなくても、人工呼吸器を付けなくても、突然の重症化から死亡に至った場合には、例えその1日だけでも重傷者として集計するべきではないだろうか。そして、そうなると、現在の全国の重症者数がどれくらいに増えるのだろうか? 重傷者用ベッドの占有率については実際にベッドを使っている人数で計算するというので問題無いと思うが、重傷用ベッドに移ることなく亡くなった場合にも「重症という段階を通過し死亡に至った」と考えるべきで、当然その人数は重傷者数として統計に載せるべきと考える。

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コロナ新規感染、軒並み最高

2020-11-26 | 日記

新型コロナの新規感染者数が次々に過去最高を記録している中、未だに「経済を取るか、感染抑制を取るか」という議論が続けられている。逆に、中高年の感染者が増える中で社会全体としてこのまま感染者が増えて行くと「経済は持つのか?」、ということを真剣に考えなければならない状況にあると考えている。現在の世の中の実情、人々の感染拡大防止の行動・外出自粛の状況下でこのまま「経済維持」を図った時、どの程度の感染拡大率が予想されるのか、シミュレーション一つ提出されない。おそらく、それを出すと「かなり酷い数字になる?」のではないか。

 つまり、影響が大きすぎて「出せない」のではないかと想像している。だから、「精一杯の感染防止行動を実施する中で‥」という「仮定に基づく願望」のみが大きく伝えられている状況である。政府・自治体は本気で「そのお願い・要請だけで、感染拡大が抑えられる」と考えているのだろうか? もっと科学的な・現実的な予測を発表するべきではないのか? たとえ、それが少しくらいはずれたとしても、十分に考えられる根拠に基づく予測ならば、もっと正確な予測のための反省はあったとしても、予測すること自体が非難されることは無いと考える。

 最大の懸念は重症患者の増加が数十人単位になって来たこと、1日30人の増加が一週間続けば200人。新規感染者数が毎日のように増加する中では、重症者数も毎日同じでは無ないだろう。一週間の間に一日当たり重傷者増加数が50人・60人へと増えれば、一週間の増加数は300人を超えるかも知れない。次の週は何百人? その時、病床数に余裕はあるのか? 用意したベッド数を看る医療スタッフは充足しているか? 答えはおそらく「否」だろう。

 患者の増加率が毎日拡大する中でベッド利用率が100%に近づく時、当然、1日か2日後には100%を超えることになる。当然ながら、ベッド数の確保は追い付かないだろう。今でさえ「救急搬送を断るのか・・・、どちらを取るか・・」という救急病院からの "悲鳴" が聞こえている。新型コロナ重傷者で病院のベッドが埋まった時、医療スタッフ全てが新型コロナの治療のために使われる状況が来た時、その時の社会はどうなるのか? そのシミュレーションをするとすれば、それは今、この時しかないだろうと思うが、マスコミも政府も全くそこに言及しない。

 もし、その時が来てしまったら、当たり前だが、もはやシミュレーションは必要ない。つまり、今シミュレーションを行わないなら「事前のシミュレーションをすることの意義」自体を否定していることになる。なぜこの国では、いつもそうなってしまうのか? 何もない時には「シミュレーションを行い、危機感を皆で共有して・・・」というが、いざその必要性が最大に近づくときにはいつも「今それを行えばパニックになるかも」という理由でためらい、結局「ただ呆然と」成り行きを待つ。そして、いつもの言い訳は「あの時はどうしようもなかった」である。

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