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高校サッカー決勝

2021-01-11 | 日記

高校サッカー(男子)決勝を見た。スポーツにおける ”強さ” を何で計るかには、いろいろな考え方があると思うが、試合を見ている中では青森山田高校の方が明らかに強かった。各選手のポジション取りや攻守の切り替えもバランスを崩さず、落ち着いてそれを維持できる各選手の個人的能力の上でも、山梨学院より上だと感じた。ボール支配の上でも青森山田が上回ったはず。

 しかし、試合ではやはり「結果的には、勝った方が強い」のだ。おそらく山梨学院には、青森山田を上回る意思の一致と強さがあったのだろう。1点の先制点で勝てるとは思っていなかっただろうが、まず1点先取したことで試合の半分以上を山梨学院のペースで進めることができた。後半に追い付かれ逆転されるが、それも十分に予測した展開だっただろう。後半最後、試合終了1・2分前に青森山田・勝利の決定的場面がやって来た時には、負けたと思ったに違いない。結果、青森山田のシュートミスで延長戦となり、延長でも両者得点無く、PK戦では経験で優る山梨学院の勝利となった。あるいみ、山梨学院の思惑通りに試合が進み、望み通りの結果となった気がした。

 結局、青森山田のシュートミスと山梨学院の2回のPK勝利経験が試合を決めた結果となった。ゴール前5mでの完全フリーの状況でのシュートミスは、確かに選手として見れば明らかなミスで悔やみ切れない記憶として残るだろう。しかも高校生活最後の全国大会の優勝を決めるシュートだったのだから、彼の悔しさは計り知れない。しかしワールドカップや世界的大会での一流プロサッカー選手達でも、ゴール前フリーでのシュートをミスすることがある。青森山田のシュートミスには、選手の技術力や集中力の不足などというものより、まさに「サッカーの神様」の力が働いたような気がした。確かに「これで優勝!」と一瞬思ったに違いないし、その気持ちが足元を狂わせたと憶測することもできる。ただ、同じ場面で同じ気持ちを抱いた選手の多くが、そのまま歓喜の瞬間を迎えて来たことだろう。「チャンスを喜んではいけない」などということは無いし、幾度も試合を重ねて来た青森山田の選手に試合の最終場面で気が緩むとか、集中が切れるとかいう状態だったはずもない。

 スポーツでは、よくこのような ”不可解な” 展開による勝敗の場面に出くわす。ずっと後で当事者たちの回想などを聞く機会が在ると、買った方は「運が良かった」「神様が味方してくれた」と言い、負けた方は「どこかに気の緩みがあったのだと思う」と言う。負けた方は、やはりその悔しい結果が「何らかのミス」「自分たちの不完全さ」によるものだと考えたいのだろう。またそれが次の努力・進歩に結び付いてきたことも確かで、大切な事実ではある。

 だが見る側の立場からは、どうしてもそこに何かの「見えない力」のようなものが働いていると感じてしまう。青森と言えば、数十年前の夏の高校野球・決勝戦の三沢 vs 松山商業の延長18回の試合が思い起こされる。延長15回裏・16回裏と二回の1死満塁を迎え、そのひとつは3ボール0ストライクのカウントから1点を採れなかった。ピッチャーがストライクしか投げられない状況でも、フォアボールを狙ってカウントを悪くしてしまう。決して剛腕の速球投手ではなくコントロールが命というタイプの投手を相手に、フォアボールを待ち続けて・・。

 かつて青森で数年間を暮らした自分には、青森人に(あるいは東北人全般に)いろいろな場面で貪欲さが少ない気がしてならない。つまり、遠慮深いのだ。それが青森人の良さでもあるが、スポーツで決勝戦の土壇場に立った時、それが何となく裏目に出て頂点に立てないでいるような気がしてしまう。そして彼らは、「否、それでも相手を圧倒できる実力を持てば良かっただけだ」とまた努力する。決定的シュートを外してしまった青森山田の選手がサッカーを続け、いつの日か日本で世界で活躍するプレーヤーになることを願わずにいられない。