愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

「年収の壁」支援強化

2023-09-30 | 日記
パートで働く家族・配偶者などが「扶養家族」の範囲に止まることのできる収入限度額を、「年収の壁」というらしい。パート年収が106万円を超えると自分で健康保険に入ることが求められ、130万円を超えると扶養家族ではなくなるという。限度額が決められ(改定され)てから約30年も経って、その間に時給が上昇している中で、一向にその限度額の見直しないで来てしまっている。
 当然ながら、その30年間にパート労働者は限度額内の労働時間に抑えようとして働く時間を少しずつ切り詰めて(調整して)来たわけだ。限度額を少しでも超えると(たとえ一時的でも)実質収入が20万円近くも減ってしまうというのだから、「無理もない」というより「当然の選択」と言えるだろう。そして今、コロナ後の経済回復に伴う労働力不足・少子化による労働力不足などが共存する中での「自給上昇傾向」が、さらに「働く時間の短縮」に繋がり労働力不足に拍車を掛けようとしているという構図。
 たったら、その「年収の壁」を取り払うか「少しくらいそれを超えても、実質損にならない」ような改訂・改革を行えばよいということになる。そこまでは話が分かり易いのだが、分からなくなるのはその先に何故「企業への補助金」や「良く分からない法的一時的措置のような制度」が入り込んでくるかということだ。
 四の五の言う前に、先ずは30年も変更していない「限度額」を自給上昇や物価上昇に即して引上げれば良いと思うのだが?。それだけで、「時給が上がってもこれまで通りの時間は働ける」ようになる。そこには「制度の新設や改革」は必要無く、単に「数字の変更」で済むのではないか?。その先の議論や「制度の根本的改革」などは、それからにして欲しいものだ。
 すると、きっとこう言われるかも、「小手先の変更を重ねて誤魔化して行くと、結局は根本的な改革が行われないままになる」って。それにはこう答えたい「状況に合わせた金額調節はほぼ自動的に行われるべきもの」で、「根本的な改革」とは別物。「根本的な改革」が出来ないのを「自動的に行われるべき微調節」に原因を求めるのは、全くの筋違い。結局は「根本的な改革」をすることができないままに、弱者に犠牲を強いて「言い訳だけを探している」態度に過ぎないのでは?・・・と。
 機械であれ制度であれ、状況が変化すればそれに合わせた「微調整」は自動的に行われるもの、新たな機械の導入や制度改革というのは、それとは別に微調整範囲や範疇を超えて必要性が議論されるべきもの。「微調整したら、改革が進まない」ような改革なら、それを取り下げて微調整だけで状況に合わせ続けた方が良い。進んだ機械や新たな制度の必要性を認めない集団が、正しい改革や改訂を遂行できるわけが無い。おそらくそれは「船頭多くして船山に上る」しかできない集まりの言い逃れに過ぎないのでは?

「デジタル化」の怪

2023-09-26 | 日記
日本では、内閣改造も終わったし、来年度以降の計画や予算などの議論も始まったし・・・。と思っていた。「積み残された課題」の感が払しょくできない「デジタル化の推進」は、新型コロナ・第5類指定以降あまり喫緊の課題じゃないのか、大きく報道される機会が減って来た。
 もちろん、「保険証紐づけ問題」や何やかやもあり、未だに話題として復活することはありそうなのだが。
 政府にしても、「保険証紐づけ過程でのミス」を槍玉に挙げる野党・マスコミにしても、「果たしてデジタル化とは何なのか?」という本質に立ってミスを検証しようという気はないように思われる。「デジタル化」の声が大きく轟くようになって以来、問題の本質を理解しているのか?と気になっては居たのだが、「紐づけミス」の釈明と糾弾の姿を見ていて、ますます違和感は強くなり、そして確信に変わりつつある。今の日本では、「紐づけ作業をコンピュータプログラムで進めろ」という声は出て来ないらしい、ということ。
 パンデミック感染症への対応で表面化した「デジタル化後進性」の本質は結局議論されないまま、「コンピュータへの入力=デジタル化」と理解して進められているようだ。コンピュータへのデータ入力はとっくに済んでると思ってた。だって、保健も税金も補助金や給付金に至るまで、住所も名前も番号もコンピュータから出力されたとしか思えない書類が郵送されて来ているから。
 人間の手でパソコンに入力したから、デジタルデータファイル同士の紐づけも人間がやるべきだって?。人の手で「データの紐づけ操作を進める」のは、次に来るべきデジタル化なのか?。むしろ、それってアナログ化の継続じゃないの?って、せめて報道・解説者の誰か一人くらいはっきりと口にして欲しいのだ。今のままじゃ、少なくとも作業のデジタル化(コンピュータ化)は望みなし。
 自分としては、「デジタル化」とは、その「紐づけ作業を行うプログラム」の開発・利用の事だと理解していた。それがなんと、「元々の紙データ」を人が読んで、人が判断して、手作業で「デジタルデータベースに紐づけ操作をすること」だったと。デジタル化を進めるとは、既にある2つのデジタルデータベースをコンピュータプログラムで「互いにリンクさせること」だと思っていたのに。
 これまで健康保険やマイナンバー関連のデータをデジタルデータ化(コンピュータに入力)したのは、唯々書類印刷の際にコンピュータを使いたいという目的だったのか?と聞きたい。そう聞いたら、世界の人々はきっと驚くだろう、それでは、世界の歩幅に付いて行けるわけが無い。
 ・・と思うのは自分だけだろうか?。「紐づけ作業のミス」騒動以来、どこのニュース報道も解説も「紐づけ作業自体のデジタル化」に言及しない。何故なのか?。日本のプログラム開発力への見限り?、「そりゃあ、アナログ手作業の方が早いし、確実」なんて思って見ているんじゃあたまらない。

阪神のアレって? 祝・阪神リーグ優勝

2023-09-14 | 日記
しばらく前から、スポーツニュースだけでなくあちこちで「阪神のアレが近づいた」と耳にした。そりゃ、マジックナンバーが順調に減っている阪神の話題で「アレ」と言ったら「優勝」に違いないのだが、一体誰が言ったのかよく知らなかった。
 今晩の対巨人戦で遂にそのアレを掴んだ岡田監督へのインタビューを聞き、やっとそれが分かった。どうやら岡田監督自身が「優勝」を意識させないようにと、その言葉を封印し、代わりに「アレ」と言っていたようだと。
 そのインタビューで「優勝」の言葉を解禁した岡田監督だが、今度は「日本一」を口にしないように代わりの言葉を探すらしい。「アレ」が「リーグ優勝」だったのなら「日本一」は「ソレ」にしたら?と、思わずテレビに向かって言ってしまった。阪神のファンやチーム内ではプレッシャーを避けて「優勝」の言葉を「アレ」と言い換えたそうだが、逆にそれが世間やマスコミの注目を集め、ファンや世間を巻き込んで「アレの解禁を楽しみに待つ」という雰囲気を盛り上げた感さえある。
 阪神よ、18年振りのリーグ優勝おめでとう。次は、18年前掴み損ねた「ソレ」を是非その手中に収めて欲しいものだ。だがその前に、昔は無かった「クライマックスシリーズ」を勝ち抜いて日本シリーズへの挑戦権「コレ」を掴み取らなければならない・・・って、しばらく道頓堀が静かだった間に「日本野球」も変わって居たんだ。

西武百貨店売却

2023-09-01 | 日記
池袋の西武百貨店でのストライキが話題になったが、その百貨店が遂に外資系資本に売却されたという。池袋駅の西武百貨店ビルの一画には、今後大手家電量販店が入るということが取り沙汰されていて、街角インタビューでは、家電量販店の看板が大々的に掲げられると池袋のイメージが変わってしまうのでは、と言う声もあった。
 だが、ちょっと引いて考えると、百貨店と言いながら荷電フロアがほとんどない、少なくともワンフロア全て家電関係という階を持った「百貨店」は見たことが無いのが不思議である。女性衣類で2フロア、男性衣類で1フロア、靴やバッグ類を含めると服装品フロアが3つも4つもあるのに、である。あとは、季節性のお中元・お歳暮や、化粧品、文具・書籍がちょっと。地下に潜ると、やっと庶民生活に近づいた食品フロアがあるというのが、この数十年間の百貨店の内容。
 「百貨店の苦難」と言われてきた過去数十年間、この内容が大きく変わることはほとんど無かったと言えるのでは。50年前の百貨店と今は数少なくなった百貨店で、売られている物やフロアの雰囲気はほぼ同じと言って良いのかも知れない。その50年の間に人々の生活や、身の回りの必需品の内容、買い物のやり方がどれだけ変わったかを考えれば、百貨店が如何に時代の歩みから外れた道を選んで来たかが分かるというもの。
 「百貨店」が何を誇りにして来たのか、どのようなイメージを誇って来たのか、守りたかったのかはよく分からない。だが、百貨店の「百貨」は、「百個の商品が並んでいる」でも「百種類の商品が並んでいる」でもなく、もともとその「百」で表しているのは「何でもあります」では無かったのだろうか。高級イメージを守りたいのなら、それぞれの商品ジャンルにおいて「確かな品物」「質の良い品物」を選んで売れば良かったのだ。
 だが、生活家電が普及して行った時代に何故に家電・電化製品が「百貨」から落ちて行ったのだろうか。パソコン普及からデジタル化が進んで行く時代にパソコンもパソコン周辺機器も「百貨」には取り上げられていない。書籍もCD/DVDも、スマートフォンもカメラも、車用品も、それらを探しに百貨店に行って見ようと思う人はほぼ居ないという状況を作ってしまっている。これでは、「百貨店」は「百貨」ではなく、ほぼ「ブランド衣類・服装品」と「総菜・副食製品」の店であり、言い過ぎかもしれないがせいぜい「十貨店」程度でしかないのでは。
 どんな時代にも「百貨店」を名乗りながら、実質は「十貨店」という商売は成り立つはずがない。「百貨店」が抱えてきた問題は、「客が高級感を求めなくなった」などということでは無く、単純に「百貨店」が人々の暮らしに必要な「百貨」を集められなくなったという問題ではなかろうか。にも拘らず、「百貨店の危機」を取上げて来た報道も評論家も、その問題の本質を語ろうとはしていない。「要するに、現在の百貨店とはコストコ」のようなところなのだ」と言ってしまえば良いのに、である。
 あらゆる業種において「目的・製品別に特化した量販店」が増える中で、駅ビルや商業一等地のビルに「百貨店」を収められる時代ではなくなったということ。それなら、そのようなビル型店舗は早々に「百貨店」を「十貨店」に鞍替えし、立地ごとにもっと専門店化していくしか道は無かったのではなかろうか。文具・事務用品だけで一つのビルを構えている東急ハンズのように、それぞれの製品ごとに多様化・高級化の実態を一目で楽しめる店を作るべきではなかったか。そして、それらの複数の店舗全体で「百貨」を維持できれば、会社としては「百貨店」を守れたのかも。
 そして郊外には広い駐車場を持つ郊外型・コストコ式百貨店を展開する、という発想に何故転換できなかった?、と残念だ。おそらく、それぞれの分野ではしっかりした商品調達ルートを築き上げた会社だったろうと思うと、いかにも残念。百年近く築き上げたバックグランドをたった一時代の「一等商用地に立つ一際目立つビル」のイメージだけに結び付けておこうとしたところに、「百貨店の失策」があったのだろう。別に「西部家電量販ビル」や「三越デジタル館」を作っても、それぞれのブランドイメージが大きくダウンすることは無かっただろうに。・・などなど、昔懐かしい店舗が消えるという寂しさよりも、「とかく偏狭なプライドに凝り固まる日本人」という反面教師的教訓だけを感じてしまうニュースだった。