愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

腰痛

2022-05-31 | 日記

久しぶりの旅行の後、数日間も「腰痛」が続いている。筋肉痛ではなく、「神経痛」に近いような気がする。そろそろと歩かないと、何かの拍子に「ギクッ」と鋭い痛みに襲われ倒れそうになる。

最初は、久しぶりに重い荷物を以て乗換駅での階段昇降や、長い距離を歩いたりしたせいかも知れないと思っていた。だが、ふと、「飛行機に乗った時の気圧変化のせいかも」と考え出した。機内で飲んでいたペットボトルが、着陸時には大きく凹んでいたことを思い出したのだ。

飛行機で経験する気圧変化は、思っていたより大きなことかも知れない。もっと若い頃には何ともなかった気圧変化が、自分の神経系に影響を及ぼすようになったのかも。筋力低下・筋肉現象が原因か、あるいは何か別の適応能力の低下が原因か?。

だからといって、もう一度飛行機に乗って確かめるわけにも行かない。悔しいが、これまでに考えてもみなかったことを考えなければいけない年齢になったということか。


感染症対策で新たな庁を

2022-05-30 | 日記

感染症対策に総合的に取り組むために「感染症対策庁?」を新たに作るという構想があるらしい。

新たな庁など作らずとも現在の体制でも厚労省中心に精力的に取り組めば、「合理的で有効な」対処が出来るはずと自分は思う。十分な感染症対策が出来ないのだとすれば、現在の厚労省の「厚生」の部分は何なのか?と。

何か起きるたびに「新しい庁」を作ると言い出す。「専門の庁を作る」と言っておけばそれで何か有効な施策を行ったことになる、という政治家の「やった振り」じゃないの?。いや、それよりも、何かあるたびに「新たな庁」を作り、長官ポストを増やして政治家の肩書きに利用するってこと?。

もしも、危機にあたって合理的・論理的な判断や、有効な方策を打ち出せない人材しか居ないのならば、新しい役所を作ってみても同じことでは?。

現体制では「省庁の縦割り体制の弊害があって、省庁横断的な態勢が組みにくい」とのことらしい。それなら、新しくもう一つの庁を増やして、新たな「縦割り障壁を増やすことの弊害は?」と思う。

結局、省庁間の主導権争いを避けるために厚労省内に作ることになるくらいなら、厚労省内に「○○対策室」を設置すれば良いだけじゃないの?、と。

何となく形ばかり、否、形も無く言葉だけの「やったつもり政策」に終わる気がしてしまう。・・・そうでないことを、祈るしかないのか。


空港レストラン・テーブル上のiPad

2022-05-29 | 日記

久しぶりの羽田で、時間潰しのためにレストランに入った。食事をするほど空腹ではないので、コーヒーとケーキでも頼んでゆっくりと飛行機を眺めようと考えたのだ。コロナ禍からの続で、レストランの席は混雑を避けるように指示がされていて、アクリル板も設置されている。

 席について、これまでの習慣どおりに注文取りにくるウェイター・ウェイトレスを待つ。遠くにいて、なかなか来ないので「取り敢えずメニューを」とテーブルの上を探すが、それらしきものが無い。

 「テーブル上に何かあるはず」と探すと、確かにiPadらしきものが置いてある。しかし、画面は真っ暗で、どのように使うかという指示を書いた表示も無い。仕方なく、それを手に取って画面を恐る恐るタッチするが、真っ暗なままで何の表示も出て来ない。

 横のスイッチらしきボタンを押すと、初期画面のようなものが立ち上がるが、メニューらしきものも、使用法を指示する表示も現れない。途方に暮れていろいろ触れていると、とんでもない画面へと飛んで行ってしまう。

 仕方なく、ウェイターの所まで歩いて行ってiPadの使い方を聞く。ウェイターはテーブルまで来てくれて、メニューを表示させ、口で「これを頼みたい」と言うと、それをタップして注文してくれた。

 「結局、口で言った方が早いじゃないか」、そんな愚痴を小声で言いながら、地方都市に居て都会の「コロナ禍への対応」に乗り遅れている自分を慰めた。そう言えば・・・と、コロナ前でも若い連中と一緒に居酒屋に行くと、若者たちが「何を頼みますか?」と聞きながら電子メニューをタップしていたような記憶が蘇る。

 すでにコロナ禍より前に、地方都市に居てすらも「時代に遅れつつあった自分」を羽田まで来て確かめたという感じ。もっと、時代に挑戦しなければ、本当に「何もできなくなるかも」。届いたコーヒーと共に薄っすらと恐怖を味わいつつ、離着陸する飛行機を眺める時間となった。


ニューヨーク最後の電話ボックス

2022-05-28 | 日記

海外の話題として、「ニューヨーク最後の電話ボックスの撤去」というニュースを見た。重機で吊り上げられ、撤去される電話ボックスの映像だ。

 それを見て、「ああ、ニューヨークにもまだ電話ボックスがあったのか」と感じた人もいるのだろうが、自分としては「ニューヨークでもまだ電話ボックスを必要とする人が居るだろうに、ゼロにしてしまって良いのだろうか?」と心配になる。ニュースではかつて○○箇所に設置されていた公衆電話が、これで全て姿を消す」というような解説が付けられていた。

 日本でも、昔はいたる所にあった電話ボックスが、今は探しても見当たらないほどに減少してしまった。だが、駅や他の施設で時々「公衆電話」や「電話ボックス」を見ると、どこかホッとした気分になる。スマホを自宅に忘れて外出したりすることも、たまにはあるからだ。

 その度に、公衆電話から掛ける先の電話番号が「スマホにしか入っていない」と思い出し、結局「公衆電話」は使えないのか?と失望する。やはり、手帳のどこかに幾つか頼れる人の連絡先を記しておくしかない。公衆電話が消えることを憂える前に、「昔の習慣」を先に消してしまった「憂うべき自分」がいた。


不可解な送金

2022-05-27 | 日記

4630万円で有名になった「誤振込み」の問題で、ネットカジノなるものへの送金を代行している銀行(?)から「町」に3千万何某の送金があったという。送金して来た銀行(?)の名称は伏せられているが、「多少の安堵感」は持てることになり連日の報道もトーンが下がったように思う。

 しかし、いきなり「銀行から町への送金」というのは何とも不可解に感じる。町が「誤振込み」のお金を取り戻そうとしていることは、ニュースその他で先刻承知のはずだが、その「お金の取り戻し」に協力しようというのなら、「実は、未だネットカジノに送金していないお金が、当銀行の口座にこれだけ残っていますよ」と弁護士等を通じて町に報せるのが先、という気がする。その上で、「所定の手続きを取って逮捕された人物にそれを引き出させて町に返金させる」のが筋のように思う。

 それを、いきなり銀行から名義の分からないお金が町に送金されたとすれば、町にしても「はい、ありがとう」と受け取るわけにも行かないだろう。どういうお金が、どういう理由で町に支払われたのか、その経過を詳しく調べる必要がある。おそらくその経過を調べている最中なのだと思うが、銀行側(?)はあまりその経過を明らかにしたくない事情があるのかも知れない。

 町が損害を取り戻せたのは「良かった」と感じる一方で、純粋な「返金」なのか?、何らかの事情による「送金」が行われたのか?、何とも不可解な気分になるニュースだ。