愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

胃カメラ体験

2021-01-26 | 日記

胃カメラ検査というものを初体験した。かつての胃カメラがまだ大変だったころ、口からの挿入で嘔吐反射が出て苦しかったという体験談を聞いたことがある。その人は経鼻挿入の胃カメラを体験した時、「軽い麻酔も掛けてくれるし、嘔吐反射は出ないので、全然苦しくない。むしろ気持ち良いくらいだから、あなたも受けて見なさい」と勧めてくれた。それでも何となく胃カメラ検査を敬遠して十数年、「そろそろ一度はカメラで胃の中を覗いてもらっておいた方が良いか」と、渋々胃カメラを飲むことに決めた。

 随分と細くなったから痛くないし、鼻から挿入するので大丈夫とは聞いていたが、事前に鼻や喉に軽く麻酔を掛けられるだけで経験したことの無い違和感で落ち着かない。いざカメラ挿入という時も、喉を通過する際にちょっとだけだが苦しいと感じた。後はスムーズに入ったのだが、食道を管が入っていく感触や胃の中でカメラがあちこち動く感触は、決して「むしろ気持ち良い」などというものではなかった。ただ、今の2倍くらいは太く、しかももっと柔軟性の少なかっただろう管を喉から胃まで挿入していた頃の胃カメラの苦しさを想像し、それに比べれば何ということも無い「ごく普通の検査」となったのだと実感した。もしかすると、初期の胃カメラはフィルム撮影だったのかも知れないなどと想像し、光ファイバー・液晶表示・コンピューター・デジタル映像技術の進歩にあらためて関心しながらの検査となった。

 少々は苦しかったものの、命に係わる病をこれで見つけられるとすれば、確かに大した苦しさではないだろう。昔の報道番組で、バリウムを飲んだ患者の腹部を医師が自らの手で様々に圧迫しながらの胃癌検診の場面を見たことがある。医師の皮膚は度々のX線被爆で硬く変容し、見た目にも医師の健康の方が気掛かりだったことを覚えている。「自分の健康より、患者の命」というような医師の覚悟が伝わる映像だったが、今の胃カメラ検査ではそんな医師への負担も無くなっている。胃カメラの進歩は患者の健康も医師の健康も守ったというわけだ。以前、胃カメラの開発に挑戦した人々の話が紹介するテレビ番組を見たことがある。彼らが試行錯誤の努力の中で夢見ていた「胃の検診」の状況を、今まさに自分が享受できていることに感謝である。


寒中、暖あり

2021-01-25 | 日記

曰く「寒中、暖あり」、そう「忙中閑あり」からのパクリだ。1月中旬に大寒波が来て大雪が降り、ここに住んで初めての雪だるまを作ったというのに、その雪だるまが解けて以来10日以上随分と温かい日が続く。記憶にある限り、大概1月中旬に一度寒波が来た後は2月近くまで寒さが緩むことが多いし、今年も例年通りなのかも知れない。しかしそれにしても、晴れた日にはまるで春を知らせるような陽気となっている。部屋に居ても庭に出ても、その暖かかさや日差しの温もりに、10日前の寒さが嘘のようである。

 ただ、郊外に野鳥を見に出掛けると、確かにそこにはまだ冬鳥たちが群れていて、今が冬だと教えてくれる。この暖かい日差しにも、急いで北帰行の準備を始める気配もなく、悠々として、冬の栄養をここぞとばかりに貪っているようだ。彼らは体の中に季節を告げる時計を装備していて、こんな陽気が少々続いたとしても、祖先から受け継いだその時間のプログラム通りに淡々と過ごしているように見える。一日一日の温度変化や陽射しの変化に一喜一憂し、その行動を変容させる人間達や自分が、どこか落ち着き無く稚拙な愚か者になったかに思えてくる。


新型コロナとワクチン

2021-01-24 | 日記

近頃、新型コロナ感染・第3波のニュースと共にワクチンの話題が賑やかだ。実際いつになれば自分達の身近で具体的な話になるのか分からないが、街頭インタビューの相手に若者や比較的若い人達が多いことが少々気になる。彼らの意見を聞きたくないわけでは無いが、順番的には先に接種が予定されている高齢者にまず聞くべきではないか。ワクチン接種に不安を持つ人達の「少し様子を見る」と返答する場面をよく見るが、彼らより前に多くの医療従事者・高齢者の接種が予定されている。伝えられる順番通りなら、その人々は接種を受ける前に数百万・数千万人の前例を見て考えることができるわけだ。順番が来るまでにそのデータを見て参考にできる世代に現時点での不安を尋ね、「日本人でのデータが少ない」「安全性評価には一千万人を超えるデータが欲しい」との不安要素を聞き出すことに大した意義を感じられない。

 それよりも、予定通りならその先例となるだろう人々が持っている現時点での不安要素を取り上げることが重要ではないか。中でも、職業柄ワクチンへの理解が比較的進んでいると考えられる医療従事者に比べて、一般高齢者はワクチンへ接種に対してより強い不安を抱いているはずである。しかし高齢者に対するインタビューの場面を見ること、その意見を聞くことはあまり無い。そんなインタビューを見ていると、「街を歩く人々に、とにかく話が多く集まればよい」だけという、どこかおざなりのレポートと感じてしまう。ウイルス変異とワクチンの有効性についても、大げさに取り上げる割には、ほとんどの番組は「一般的可能性への推論を繰り返し放送するだけ」という程度でしかない。

 ワクチンと言っても、今のところ接種が予測されるのは3社が製造するもので、それぞれにワクチンの内容も仕組みも異なる。誰がどのワクチンを受けるか?すら分かってない時点で、漠然とした一般的可能性を論じられても大きな関心を持てない。それくらいなら、まだ、「誰にどのワクチンを接種するか」を、いつ・誰が・どのように決めるのか?ということの方が知りたい。例えば自分に接種されるのがB社のワクチンであれば、先行して数百万人に接種されるA社ワクチンのデータがあろうとも、それは自分にとって有意義なデータと言えないのだから。報道関係者は、報道のテーマ・内容をもう少し吟味して欲しいものだ。

 


難民キャラバン

2021-01-23 | 日記

米国の新大統領就任が近づいてから、中米諸国でメキシコを経由して米国へと向かおうとする多くの人々の移動が起きているという。その中には少年少女、そして幼い子供連れの若い人々が多いのだと報じられている。もともとキャラバンという言葉はもっと違う意味で使われていたが、最近はキャラバンというと中米各国を通過して北上・米国境を目指す大規模な "難民集団" のことを意味する言葉に変わってしまいつつある。米国の大統領が変わったからといって、米国への入国(密入国)が容易になったり難民認定の基準が緩和されるかどうかは分からない。前大統領の就任の時には「越境の監視が厳重になる前に」といってキャラバンが起こり、今度は緩和されることを期待してキャラバンが発生している。

 中南米諸国の貧困や政治的不安定は、もともと半植民地のようにこの地域を支配して来た米国の責任が大きいと誰もが感じているだろう。独裁的支配者を通じて米国の大資本が大きな利益を得る一方で、それらの国が独自で経済的自立を果たすことを阻んで来た国が、結局は大きな矛盾にさらされている。密入国にしても、彼らの労働力に頼る産業が国内には存在していて、入国すれば働く場所があり一定の稼ぎがあるという現実がさらなる密入国者を生んでいることは、大統領選の度に多くの報道番組でも示唆されて来た。

 現在世界では様々な格差が拡大していると問題視されているが、貧富の格差は住環境や富の所有の差だけでなく、教育格差、医療格差、住環境の衛生的格差、犯罪に晒される危険性に関する格差、情報の格差を次々に生み出し、それぞれが互いに相乗的に作用して全ての格差を拡大し続けていると感じられる。そんな世界において、米国の国境は世に存在する様々な格差を隔てる障壁の象徴となってしまった感がある。報道映像でキャラバンの人々を見ていると、これといって武器も装備も持たない人々の群れが時には軍や警察とも揉み合いながら、いくつもの国境をものともせずに(非合法的に)越えていく。ある程度の人数を逮捕して自国に送り返すことは可能だろうが、その数がさらに膨らんで行った時にはどうやってその越境を移動を制止できるのだろうか。

 少しくらいの暴力や、誘拐・人身売買に出会う危険、飢えや病気への怖れを凌駕して北上を続けさせるだけの動機が、キャラバンを形成する人々自身の故郷・出身地・国々に存在している。今後世界での様々な格差が拡がれば拡がるだけ、その動機はさらに大きくなる一方だろう。米国境に象徴される「格差を維持し、格差の異なる世界を隔離するための壁」は、いつか崩壊する日を迎えるのだろうか? それとも、一気にカタストロフィーを迎える崩壊ではなく、ゆるやかに障壁を取り除く努力が始まるのだろうか。フランス革命やロシア革命を引き起こして来た歴史の成り行きを見ても、格差で優位に立つ者達は結局、格差の是正より格差を守り維持することに勤しむものらしい。思想的背景やプロパガンダの文句こそ違えども、いずれ一気に格差崩壊へと向かう混乱を招く日まで、それでもなお人は格差を隔てる恒久的な「壁」の補強が可能だと考えがちなのだろう。

 

 

 


核兵器禁止条約発効

2021-01-22 | 日記

22日、核兵器禁止条約発効のニュースが流れた。被爆者や多くの条約批准国の願いにも拘らず、唯一の戦争被爆体験を持つ日本の政府はこの条約に関心を寄せようとしない。「核保有国、さらに非核保有国の多くが参加していないこの条約には実効性に課題がある」ということらしいが、この条約を批准すれば即・実質的非核保有国(使用も使用の仄めかすことも禁止されているので)となるのだから、この条約に核保有国が参加しているという実質的状況は有り得ない。結局、この条約への参加国が何処まで増えようとも、参加国に「核保有国が含まれない」という状況は続く。だからこそこの条約は有効であり、核を持たない国が次々に参加していくことが重要なのだと思う。

 つまり、核と持たない国が次々と「核兵器禁止条約」に参加することで、核を持ち続けようとする国に圧力を掛けるのがこの条約の狙いだと考える。もちろん核を持つ国が「核の廃棄」を決めれば、すぐにでも「核無き世界」が実現できるわけだが、それらの国々のこれまでの行動や冷戦の状況を見る限り可能性は非常に低いと言わざるを得ない。現在、核保有国が増えたといってもまだ少ない。その国々がこの条約を批准した国々に向かって「核を使うぞ」と脅しを掛けた時、その国が世界でどんな立場に置かれるだろうか?という事である。少なくとも、「尊敬される国」では居られないだろう。無論それを平然と行う国だって出て来得る、というより、今の核保有国が結局は「そんな国々」なのだという事実を炙り出すことに、この条約の意義があるのだと思う。

 一方で、日本の政府が言う「実効性のある条約」の成立に向けて日本政府がどのような努力を行っているのか、まったく見えては来ない。既にいくつかの「核の傘の下にある」国々の核兵器禁止条約への関心が伝えられている中で、「周囲の状況を見て遅れて参加」の日和見的行動を取る結果になれば、とても「核兵器廃絶という難題に挑戦してきた」などとお世辞にも言えないことになる。