愚ダメ記、真誤付き、思い津記

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すずめの子

2021-07-31 | 日記

風通しを良くするために窓を開けてパソコンに向かっていると、窓の直ぐ近くから毎日スズメの鳴き声が聞こえて来る。いつも同じ調子で、何度も同じ囀りを繰り返している。いかにも窓の外の庇にとまって鳴いているように声が近いので、ベランダに出て見るが、人影を見て逃げてしまうのか姿を見つけることが出来ないでいた。

 今日も同じように鳴いていたので、そっと別の窓から外を覗いてみた。スズメの幼鳥らしき鳥が、向かいの家の屋根を往復しながら囀り続けていた。チュリッ、チュリッと一定間隔で囀りながら、屋根を上っては下り、下りては上り。もう大きさでは成長と区別できないが、飛び方が危うく、屋根を1つ超えるのがやっとという感じだ。

 もう少し前の時期には、周囲の家の軒や屋根、そして庭木から庭木へと飛ぶ練習をしているようなスズメの幼鳥を何羽も見かけた。時々、道端の庭先から道路を渡ろうとして車の前を横切ることもある。飛ぶ高さが1mにも足らず、あまりにも低くて車にぶつかりそうになって驚く。成長のように車に気付いて咄嗟に上昇することも出来ないようで、同じ高さを維持しながら必死に羽ばたいて道路を渡っていく。

 その様子は、まるで、地面に落ちないよう必死に羽ばたいているようにしか見えず、実際、道路の途中に下りて休んでいるスズメもよく見かけた。数羽が次々に屋根から庭木に、庭木から軒先へと短い距離を追いかけるように飛びまわるのは、おそらく兄弟の幼鳥だろうと思っていた。近頃はスズメも見かけなくなったという話を何処かで聞いたが、この辺りでは毎年、春になると軒先や屋根瓦の隙間を出入りして餌を運ぶスズメのつがいが見られる。

 「スズメの子、そこのけそこのけ お馬が通る」という一茶の句のように、道の真ん中に下りて、餌を啄むわけでもなく、地面に下りてほっとして休んでいるようなスズメの幼鳥を見るのも、だいたいこの時期までだろう。自分が子供の頃に聞いた時は、一茶の句がピンと来なかった、「鳥ならば、人や馬を見ればすぐに飛び立ってしまいそうで、わざわざ追い払うような声を掛ける必要も無いだろう」と。

 だが、梅雨から梅雨明けの時期のスズメの幼鳥を見分けられるようになってやっと悟った。確かに、この時期のスズメの子は、時々、飛びつかれたように道の真ん中で一休みしていて、かなり近づくまで飛ぼうとしないことがある。車で走っていると「引いてしまったかな?」と心配したことすらある。夏を越えれば彼らも、もういっぱしのスズメとして、田んぼや家々の屋根を幾つも飛び越えて自在に飛びまわるようになる。

 人間の子供たちも同じように、幾つもの夏を越えるたびにそうして成長し逞しくなっていった。知り合いのいい歳の「おやじ」が主催する「夏の子供合宿」の様子が、写真や動画で次々にラインに届いてくる。それを見るたび、自分も一緒に遊んで、幾つ目かの夏を越えた成長をまた実感して見たかった、と思う。そんな「子供合宿」で年甲斐もなく子供たちと海ではしゃぎ、夜はごろ寝で蚊と闘うおやじが、何とも羨ましい。


国産ワクチンの重要性

2021-07-30 | 日記

国内でのワクチン開発を取材した番組を見ていたら、日本国内のMERSコロナウイルスに対するワクチン研究・開発が数年前に治験一歩手前まで漕ぎ付けていたことを知った。そのRNAワクチンという新しいタイプのワクチン開発は、MERS感染の終息による国の支援の縮小によって、そこで止まってしまったのだという。その時にもう少し先に進んでいたら、今回の新型コロナ感染拡大に当たって国内のRNAワクチン開発は海外に並行して進んでいたかも知れない。

 「いつものこと」と言えばそれまでだが、やはり日本政府の先見性の欠如を確認した思いだ。RNAワクチンの特徴を科学的に捉え、その実現が従来のワクチンに比べてどのような優れた点を持つのかを理解していれば、それが新規の病原体に対して従来よりも早く開発・生産できる可能性を分かったはず。さらにウイルスの変異に対してもRNAの配列を変異に合わせて変えるだけで対応できることも当然理解できていたはずである。そのような新しいワクチンの製造法を確立するためには、MERS終息後でも他のウイルス、特に変異しやすいウイルスなどを対象に開発援助を続けるべきだったと思う。

 今回の新型コロナ・パンデミックを受けて、それも1年近く過ぎてから「ワクチンを国の安全保障対策と位置付けて・・・」と言い出すような感覚では、とても科学分野で世界をリードする国には成れるはずもない。明治時代に、戦場での飛行機の有用性を想定して模型飛行機の飛行成功と原理を示して「動力装置を備え人を載せる飛行器の開発」に資金援助を求めた二宮忠八に対し、日本陸軍が「まず、それに成功してから来なさい」と答えたという話がある。もし彼に資金援助をしていれば、ライト兄弟より先に日本で「人を載せた飛行器」が発明されていた可能性は十分にあると思う。

 結局、彼は自力で資金を得る必要を悟り、約十年をかけてその目途を付けた矢先にライト兄弟の成功を知ることになった。英国王立航空協会は自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟より先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介しているという。国産RNAワクチンの必要性についての日本政府の態度も、「成功してから来なさい」という態度に通じるところがあるように感じる。先見性と実現性を論理的に考察し、その研究開発の重要性と一日も早い実現を支援すべきだという理念が完全に欠落しているのは日本政府の「伝統」なのだろうか。「目先の利益にだけ投資する」というよりも、当面の政治課題への目先の非難を避けるためにだけ、研究支援を行っている「ふりをする」という態度が見える。そのように思える例は、ワクチン以外にも耳にしてきた。

 かつて別の政権下で行われた自業種分けの際、スーパーコンピューターの研究開発に対して「一番じゃなきゃダメですか? 二番ではダメですか?」と政府側が訊ねた話は有名だ。だが、それを訊ねる政治家よりも、答える政府事務官の過失が大きいと感じた。かれらは予算の必要性を示すべき責任があるからだ。答える側は政府の事務官僚も「世界で一番なんです」の繰り返ししかできないように思えた。それが如何に重要な技術で、将来の日本の在り方をどのように変える必要不可欠な技術となり得るのか」を説明しようという姿勢は感じられなかったし、「先進技術の研究開発を止めないことの重要性」の認識が欠けていたと感じる。必然的に「世界一になれるんです」「一番じゃないとダメなんですか?」という水掛け論になったのだ。莫大な予算を請求しておきながら、科学技術省としてその計画を進める「重要な意義」を十分に理解できていないと感じられた。

 今や当時よりも数十倍以上の性能を持ったスーパーコンピューターは気象の解析や予報、感染症拡大の予測、様々な情報解析に不可欠なものとなっており、その有用性は明らかだ。その有用性を説明できなかった時点で、科学技術省の官僚は「コンピューターの性能に関する順位付けにしか興味が無いのだ」と感じた。官僚が科学技術の有用性を説明する時に、「自分は科学者・専門家じゃないから」という言い逃れは効かない。彼らの役割は科学技術の原理を説明することではなく、「その機器の性能や技術の必要性と、実際的に何ができるようしたいのか」を説明するなのだ。日本の国の進むべき方向を考える点において、彼らは間違いなく最高レベルの責任を担う「専門家集団」であり、専門家として受け答えする責任を負っている。

 何か起きた時にいつも、彼らは「科学技術の世界的順位付け」「ノーベル賞の授賞者が何人」「金メダルが何人」などの表面的な所だけが関心事であり、科学や教育の実質的でより重大なところについては理解もせず責任も担おうとしない人々だと感じられてしまう。感染症へのワクチン政策も、世論が沸騰して止む無く「態度」を示したということだろうか。それでは「同じことの繰り返し」なのだが・・・。


さるすべりの花

2021-07-29 | 日記

暑さが一段と増してきた中、如何にも焼け付きそうな真昼の道路を眺めていて、ふとその脇の庭にピンクの花が今を盛りと咲き誇っているのに気付いた。さるすべり、つまり百日紅の花だ。いつの間にか、一気に花開き、青空の下にピンクが奇麗に映えていた。

 他の植物の葉が萎れ、花壇にも花が無くなりそうな季節になると、いつも百日紅の花が咲き始め、そこにサルスベリの木があったことを思い出させる。夏の暑い盛りにだけ存在感を示す百日紅の花、風の無い猛暑の昼を思い出させる花だ。


4千食の廃棄

2021-07-28 | 日記

五輪開会式の日、スタッフやボランティア向けに用意した弁当の約4千色分が消費期限の前に廃棄されたと問題になっている。組織委員会側はそのことを謝罪した上で、「今後は発注量の適正化を図っていく」と答えたという。しかし、結局どこに問題点があったのかははっきりしないまま。「ボランティアの多くが食べなかった」とも言うが、それは何故なのか?。食べる時間が取れなかったのだとすれば、それ自体も問題だと思う。また、「不足する事態をおそれて過剰に発注してしまった」という説明も、どの程度過剰に見積もったのかなどの説明が無ければ分からない。

 組織委員会側が具体的に説明しなかったのか、報道側が確認しなかったのか、どちらの理由かは分からない。だが、具体的な説明なく「過剰に発注してしまったことが大量の廃棄につながった、今後は適切な量の発注を心掛ける」と言われると、「では開会式の日は発注量は、どこが適正でなかったのか?」と尋ねるしかない。そうでなければ、「多めに見積もった」ところを「少なめに見積もる」という程度の調整しか出来ないはず。きちんとした見積もりができているのかどうか、そこが最も疑わしいのだから。

 また「消費期限前に廃棄処分」という点も、弁当などの余剰が出ることを見越した「処分計画・方針」がなかったことを表している。動物の飼料に利用したような情報も耳にしたが、都内で「生活困窮者のための食糧配布」があることを知らなかったはずはなく、なぜその団体との連携が出来なかったのかの説明も無いようだ。「SDGs」を掲げた五輪開催としては何ともお粗末と言われても仕方ないだろう。他にも「ボランティアへのPCR検査の不備」なども指摘されているが、本当にこの五輪運営は大丈夫なのだろうか?

 どうも、日本という国や人々は、描いた通りの手順に沿ってシステマティックに物事を進めることが下手らしい。それも、かなりの重症と見える。いろいろと目標を掲げて言葉にはするが、実際にそれを適正に守った運営ができないことが多すぎる。多くの事が「絵に描いた餅」となってしまうのは「そもそも、政府が先頭に立ってその手本を示しているからだ」と皮肉を言いたくなってしまう。だが、同時に「まあまあ、堅い事を言わずに少しくらい融通を聞かせろよ」と言いたがる国民性にも原因はあるのだろう。

 この五輪開催は、「理屈に従い論理的に考え行動する」よりも「情緒的な心地よさを良しとする」という国民性を世界に知ってもらう良い機会になるのかも知れないと。形が出来て上手く行っている方法を「真似て」「より良く改良していく」には長けた日本だが、このパンデミック下の状況を「新しい方法」や「新しい考え方」で切り開いていく場面は、あまり「日本に任せない方が良かった」と言われる結果になり兼ねない気がして来る。この状態で、今後の多くの重大問題を議論するうえで日本のリーダーシップを信じる国があるだろうか?と。


空蝉

2021-07-27 | 日記

庭の木の根元の地面に直径2cm弱の穴が幾つか開いている。セミのサナギが這い出した跡。大きさからみてアブラゼミだろうか。サナギが出た穴があるという事は、セミが抜け出た殻がどこかにあるという事。それが見当たらないので探していたが、庭の草花に水をやる時に一つ見つけた。ふと見ると、何とアサガオの葉にかじりつくようにセミの抜け殻がぶら下がっていた。

 空蝉(セミの抜け殻)というと、昔読んだ忍者漫画が思い出される。「空蝉の術」というのがあって、姿を見つけて手裏剣を投げるが、そこには忍者の身体が抜け出た後の服だけが手裏剣に突き刺されて残っているというシーンだ。「おとり」とは違い、確かにその服を着た忍者そのものがそこに居たことを示している。

 アサガオの葉にぶら下がる空蝉、それも確かにサナギの背中を開いて出て来た蝉そのものがそこに居て、羽根が伸びて硬くなるのをじっと待っていたことを示している。「こんな細いアサガオの蔓を上り、何とか安定を求めて葉に噛り付いたのだろう。庭木の根元からはかなり離れた所まで地面を這ってやって来たセミは、何とか高さのある場所まで辿り着いてほっとしたことだろう・・・」とふと思った。

 「空蝉の蔓に朝顔の花一輪」「空蝉や朝顔の葉に噛り付く」。最近は朝からクマゼミがうるさいが、この空蝉の主がクマゼミなのかアブラゼミなのか見てみたかった。