愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

長電話

2022-06-30 | 日記

久しぶりの家族からの電話で、つい長電話をしてまった。同じ家族でも、長電話になり勝ちな相手とそうでもない相手がある。いつもはそれほど長くならない方の相手だったのだが、1時間近くになってしまった。

 話が弾んだわけでもないが、あれこれと聞いたり話したりしているうちに気付いたらかなり長くなっていた。いつもは要件だけで短く終わっていたが、いつもあまり話さないだけに気になっていることを残して置きたくないという気持ちが働いたのかも知れない。

 長電話のせいで、これからやろうとしていた用事が何だったのかはっきりと思い出せず、とりあえずこんな感じだったのかなということで進めることになった。しかし、あまりにも長くなったせいで、結局、一から考え直してやり直すことになった。それが良かったか悪かったかは、両方を比べることが出来ないので分からない。

 確かに、何かを頭に描いて取り掛かろうとしていた矢先の電話は、気もそがれるし、中断されたという嫌な感じも残る。逆に長電話になってしまえば、途中で諦めてしまうので、中断のイライラは無くなって行くのかも知れない。中途半端に長くなったり、長くなっても良いと腹をくくった所で急に終わってしまったりすると、かえってイライラがつのるような気がする。

 長電話はできれば避けたいものだと思いつつ、相手がどういう状況下分からない仕方ないのかも。だから電話は嫌いとか、メールにするとかという考えもあるが、電話で声を聴いたから話したくなるということもあるので、全てをメールにするわけにも行かない。「時間を決めて電話する」というやり方もあると思うが、仕事関係ならばそれで割り切れるのだが、私的な事、特にある種の思いを伝えたいような場合には、時間を決めてそんな気分になるというのも難しい。

 もちろん、明らかに相手が忙しい時間帯や、職場への電話は控えるが、休みの日の比較的自由な時間帯と思われる時に電話をしても相手がたまたま何かをしている最中ということは珍しくない。電話を受ける側になっても、何となく、忙しい時の方が長電話になってしまうような気もして複雑である。特に家族や友人の場合は、電話の用件だけでなく思いが伝わることが多いので、それを目の前の用事のせいで中断したくない気持ちも働く。

 いろいろ考えてみると、長電話もやはり必要なものなのかも知れない。時として、長電話の後で気分が変わって用事がはかどるということもなくもない。不意に掛かって来る電話は時として「迷惑」な存在だが、かと言って、世の中がメールや留守録再生だけになってしまってはやはり味気無い。坦々と過ぎる人生の中で、不意の電話というのは、「自分の人間性を思い出し強調してくれる貴重なアクセント」なのかも知れない。

 


梅雨明け

2022-06-29 | 日記

西日本の一帯が「梅雨明け」となった。次の一週間しばらく晴天が続くということでの「梅雨明け宣言」なのだと思うが、それにしても7月に入らないうちに、そして「梅雨入り」からさほど経たないうちでの早い梅雨明けとなった。つまり、梅雨の期間はほぼ「歴史上最短」に近いのではないかと思うほどに短かった。

 「梅雨明け」が宣言された一方で、「次の週は曇りや雨が続く」という予測。一体、何を持っての梅雨明けなのかと感じるが、それは「梅雨前線」という停滞前線の有無に掛かっているのだろう。単に低気圧の通過で雨や曇天が続くだけでは「梅雨」とは言えないというわけだ。

 梅雨の定義はともかく、こちらとしては「夏の渇水」が気になる。最短期間の梅雨の間、それでも梅雨に見合う雨量があれば良かったが、この辺りでは「思わせぶりの雨」ばかりで、水源地帯のダムの貯水量は心許ない状況だという。「梅雨明け」は気象庁に任せるとして、梅雨が明けた後でも良いから、これから夏本番を迎える前に、単体の低気圧でも何でもいいから、何とか平年並み近くの雨量を何とか届けて欲しいと願うばかりだ。


「サスケ」五輪種目採用か

2022-06-28 | 日記

近代五種から馬場馬術が抜けるということが言われていたが、その代わりに入る種目として日本のテレビ番組「SASUKE~Ninja Warrior~」で行われている通称「サスケ」が採用されるかもしれない、というニュースが入って来た。

 「サスケ」は始まってしばらくしてから「ミスターサスケ」や「サスケ君」などの相性で呼ばれる人々の努力や、その努力への人々の支持・支援の声などに押されて長く続き、近年では海外の数カ国でも行われていると来ていた。五輪種目に選ばれれば、彼らのひたむきな挑戦が新たなステージを開くということに繋がったと言えるのだろう。

 「サスケ」攻略には、各段階によってさまざまな異なる身体的要素が必要となる。いろいろな五輪種目で秀でた結果を残したアスリートの中に、これまでに「サスケ」を完全制覇した者がいない。逆に、過去数人の完全制覇者たちに、「サスケ」以外の競技での日本代表になる選手はいない。そのことは、「サスケ」が現在の五輪種目のいずれにも偏らず、「ある種の総合的身体能力」を要求することを示している。高レベルになるほど「腕の力」が必要となって来るが、それは「投擲力」でもないし、ボルダリングなどが要求する「指の力」や「懸垂力」だけでもない。

 いくつかの競技セットを身体能力と洞察力の組合せでクリア(制覇)していくという競技は、ある意味で「現代の人間の身の回りにある都市環境や自然環境を生き抜く能力」とでも言えるかも知れない。馬場馬術が一時ほどの普遍性を失っている反面で、「サスケ」的能力は「パルクール」や「フリークライミング」そしてある意味「ゲーム」的要素なども含む、より近代的(現代的?)な身体競技なのかも知れない。


マスク外せない

2022-06-27 | 日記

新型コロナ感染も少しずつ下火になって、行動制限やマスク奨励などの対策が次第に解消されて行くような雰囲気になって来た。1年前は公園を散歩する人も、すれ違う市民ランナー達もほぼ全てがマスクをしていたが、最近は人が少ない時間帯にマスクをしないで散歩したりジョギングをする人々を見掛ける。

 考えて見れば、この期間の間に出会い・知り合った人々は、互いにマスクを付けた顔しか知らないということに気が付く。今後も付き合いの続く人は、コロナ終息の後にも出会ってマスク無しの顔全体を確認し合う日が来るのだろうが、この1年・2年の付き合いで終わってしまう人達のことは、おそらく互いの顔を上半分だけしか知らないままで終わるのだろう。

 ある程度親しく付き合った人には、是非「顔をちゃんと見ておきたい」という衝動が少なからずある。しかし、「ちょっと、マスクを外して顔を見せて欲しい」と頼むことが、この「マスク着用」が長引く中で次第に言いづらくなって来た。

 マスク着用が始まった頃、まだ「マスク無しの顔を見せ合うのが当たり前」という気分が続いていた頃には、それほどの抵抗感無く「ちょっとマスクを外して見せて」と言えたし、言われた方もマスクを外すことに抵抗をほとんど感じなかったと思うのだが。実際、目の印象だけで想像していた相手の顔が、マスクを外すと随分違うということもある。マスクをすれば思い出せる顔が、マスクを外していると判らないことも。

 インフルエンザや花粉症、そして新型コロナにしても完全に消滅には至らないのだろうから、一旦始まった「マスク着用」は、結構しつこく残り続けるのかも知れない。考えて見ると、映画などでは西洋の高貴な女性が「目だけを出して顔を半分隠す」というファッションで登場することがあるし、イスラム世界では女性が目だけを見せたり顔自体を隠すという習慣が根付いている。

 「マスク着用」が2年以上続き、そのような社会で「マスクを外す」ということが持つ意味と、それに対する抵抗感も、少しだけ分かるような気がして来た。だがやはり、互いに顔を隠さないで、互いの顔を確かに識別しあう関係で話をする方が、相手への親近感や信頼感は増すように感じるのは確かだと感じる。


Online 集会

2022-06-26 | 日記

昔の部活関係の Online 集会に出た。時間制限があって発言者が限られた集会だが、依然として多人数での対面の集会が抑制されているという環境にいる現役学生達の苦肉の策。遠くに住む者にとっては、交通費と時間の節約とともに、日々忙しい仕事を抱える中では自宅での時間を1時間程度だけ割けば良いというのは有難い。

 新型コロナパンデミックにより急速に拡大下このオンラインでの会議・授業・集会のシステムだが、パンデミックの終息と共に消えてしまうのかどうかが、逆に気掛かりになって来た。当然、対面での会が増える分だけ、オンラインでの会は減って行くのだろうが、日々忙しく働いている人々が懐かしい顔を見て言葉を交わせるオンラインでの集会も、一定程度は残して欲しいものだと感じる。

 いずれ、パンデミックが終わってしばらくした頃、そのような Onlineの会への郷愁?が高まるようなことがあるのかも知れない。