愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

車の故障ランプ

2022-08-31 | 日記

先日、連れ合いの乗ってる車で故障の警告ランプが付き、車自体には特に異常を感じなかったが、用心のために別の車で出直した。次の日に車屋に持って行って点検してもらったが、点検の終わったその車を受取りに送って行った帰り、今度は自分の車に故障ランプが点灯。2日続けて2台の車を次々と点検に出す羽目となった。

 だが問題はそこではなく、2台ともに「何の修理も部品交換も無く」終わったということ。1台は主要バッテリーの劣化かも、と言われたが「当面、故障ランプが付かないようにしましたので、それで乗って下さい」「また、故障ランプが何度も付くようなら検討しましょう」という説明。もう1台は「異常な箇所は確認できず、故障ランプの点灯も再現できないので、何が起きたか分からない」「現在は、健全な状態なのでそのまま乗っていて大丈夫」とのこと。

 いずれも、専門家の点検を受けて乗っても良いという「一応のお墨付き」を貰ったことは一安心、なのだが、そもそも「故障警告ランプ」が付いたのに、何の修理も交換も無くて大丈夫?という不安だけがモヤモヤと残る。昔の車のように「故障したら、そこで動かなくなる」というのが分かりやすいが、確かにそれでは「故障時点で足を失うことになる」ので不便である。故障警告ランプというのが、「故障したことを示している」のか、「このまま行けば故障に繋がる」ことを警告しているのか、素人には良く分からない。

 ランプが故障を予告してくれているのだとすれば、それ自体は有難いのだが、そこで何の修理・交換も無ければそれはそれでモヤモヤと割り切れないものが残る。ましてや、故障ランプ点灯と同時に「直ぐに代理店に連絡して下さい」などという表示まで出ると、「車自体は動くけれど、動かして良いものやらどうやら」との混乱に陥る。近頃の車は「電子制御化」が進み、何とも「理解し難い乗り物」になってしまった。

 この先「自動運転」とやらが実現すれば、「車を動かす」だけでなく「運転の制御システム」まで加わるのだから、もう完全に理解不能となるのだろう。いっそのこと新幹線のように「中央制御室」でも作って、個々の運転手は「行き先と到着希望時間を申請するだけ」とは行かないものか?


キーボード早打ち選手権

2022-08-30 | 日記

「キーボード早打ち選手権」というのがあるそうだ。キーボードと言えば昔はタイプライター。パソコンやワープロが普及してからはパソコンのキーボードを打つことが一般人にも広まって、「あの人はブラインドタッチだから」などとその速さが一般人でも話題になるようになった。

 自然に、「キーボードを打つ」と言えばワードプロセッサーのキーを打つというイメージで、「何かの文章を書く」とか「印刷物や手書きの文字をデジタル化するためにキーボードで入力する」という動作が浮かぶ。キーボードの早打ちと聞いた時も、普通の事務職でのワープロ入力の早さ・正確さを競う様子を思い浮かべた。

 しかし番組で紹介された「キーボードの早打ち」というのは、そんな想像を超えていた。それは、「人が話す言葉を文字に変えて入力する速さを競う」というもの。かつて人の話を文字として記録するには「速記」という技術が使われ、テレビでは国会中継などで、国会の議事内容を記録するために講壇の下に「速記者」の席があったのを見た記憶がある。テレビ番組で紹介された「速記」用の特殊な記号を見たような覚えもある。

 今回目にした「キーボード選手権」は、テレビの生放送に「字幕」を入れるために「音声の字幕化の速さを競うものだった。アナウンサーの読み上げるニュースなどの他に、漫才の掛け合いを字幕化する速さ・適正さを競うものもあった。映画で表示される字幕の様に予め準備できるわけじゃないので、「完璧な同時性」は望めない。しかし、短い言葉なら1秒以内の遅れだし、長い台詞でも話の始まりが1~2秒遅れる程度で、十分映像について行ける。見ていて、最近の放送の多くに「字幕」が付いていることを思い出す。リモコンには「字幕」ボタンがあり、映画やドラマでなくても字幕が付く番組がある。あれはこのような人々が超人的な「早打ちの技」によって実現していたのか、と改めて感心。

 また、最近はかつての「速記」の場面にも、キーボードで打ち込む「デジタル速記?」というスタイルが普及していると耳にしたことがある。何かの「座談会」の企画で「録音して後に文字に起こす」と言ったら、「最近は、話をそのままパソコン入力して文字化する職業もありますよ」と言われた。地方都市でも、民間の会議などで発言をそのまま文字入力で記録する「デジタル速記者」が何人もいるということらしい。

 世の中デジタル化時代、何かと文章もデジタル化される時代には、もはや会議での議論や発言もリアルタイムで文字化され保存できる時代になっていたのだと、少々「浦島太郎的な」気持ちにさせられた。


節電のためスタジオの照明を落として

2022-08-29 | 日記

近頃気になること。夕方のニュースの度に、画面の横に「節電のためスタジオの照明を落として…」という文字。関東での「電力逼迫」による節電要請が出た際には、それも「なるほど、東京では節電してるんだな」と納得していたが、それ以来もう2ヶ月くらい経つが、いまだに毎日「節電のため・・・」という表示が続いている。

 一応、「電力逼迫」は緩和されている現在でも「節電する」のなら、今後は電力事情がどうなると予想して「一時的な処置」という「ことわり」を表示し続けるのだろうか?。実際、「節電照明下」の放送が見ずらいとか、アナウンサーの顔が暗すぎる印象があるとは感じない。むしろ「節電照明下」の方が、アナウンサーの顔も妙に白くなり過ぎず、自然な感じに見えるような気がするのは自分だけなのだろうか。

 「電力逼迫」という状況でなくとも「節電する」というのであれば何ら異論は無いし、むしろ「歓迎」である。しかし、それならばどこかの時点ではっきりと「今後、○○放送局では節電の為にニューススタジオの照明を〇割減らします」と表明して、いちいちニュースの度に字幕を出すのは止めて欲しいと感じる。「字幕によってニュースが見えない」などということは無いが、無い方がすっきりするし「少々邪魔くさい」とは感じる。

 テレビニュースの「字幕」には「緊急の内容」や「重要な要約」を特に「文字で確実」に伝達したいという意図を感じる。したがって字幕が出れば、やはり目がそこに行く。毎日見る人には「周知のこと」で気にならないかもしれないが、たまにニュースを見る自分には「正直、邪魔くさい」。常態化しているのなら、もう消しても良いんじゃないかと感じる。「照明を落としている」と言っても、別に読み手の顔が分からないほど暗いというわけでもないし、そろそろ根本的に「明るい照明」の必要性を見直し、「節電照明」の方を「本来の明るさ」とした方が良いのではないか?、と思えてくる。


サンショウクイを待つ

2022-08-28 | 日記

9月が近づくと、毎年、サンショウクイはもう来たのかが気になってしまう。ウィキペディアによると夏は本州の山地で暮らす「夏鳥」で、9月上旬くらいに南へと渡って行く小鳥だ。「ヒリヒリ」という鳴き声が結構目立つ鳥だが、最初に出会った時「山椒を食べて辛くてヒリヒリする」ってことだと名前の由来を教えられた。

 海岸近くの山から瀬戸内海へと飛び出していく群れが見れると聞いて、朝早く教えられた山の上まで車で行って見た。海へ飛び出す群れは声が聞こえるとすぐに遠くに飛び去ってしまって、ゆっくりその姿を見ることが出来ない。だが、山頂下の林を探索すると時折り「ヒリヒリ」と鳴き交わしながら木から木へと移って行く10話前後の小さな群れに出会えると分かった。見ていると、嘴で緑色のバッタを咥えていることもある。山椒の実ではなく、虫を食べているのだ。

 今年も、9月になる前からサンショウクイの渡りを見ようと、しばらく前から海際の山を訪ねて出会いを待つ。大きな群れにはまだ出会えないが、それでも一羽・二羽と見かけたり、10羽前後の群れに出会ったりする。9月に入れば本格的な群れを見られると思うので、少々勇み足気味。それほどサンショウクイを気にするのは、それが、少なくともこの辺りでは、渡り鳥観察のシーズン幕開けとなっているからだろうか。

 夏鳥が南へと変える動きや一部のシギなどの渡りは既に8月中から始まっているのだが、大きな群れを作って移動する小鳥としては、この辺りではサンショウクイが最も確実に出会える鳥だ。秋の始まりを連想させる9月という区切りも、「いよいよ、秋の渡りシーズン到来」として分かりやすい。さて、今シーズンにはどんな鳥たちに出会えるだろうか?、と期待を膨らませながらの「サンショウクイ待ち」でもある。

 


早起きは・・・眠い

2022-08-27 | 日記

昨日・今日と鳥を見に行くために朝早く起きた。特に今日は5時に起きて、6時には鳥を探すために山の麓に着いていた。鳥見の仲間には普段から4時・5時に起きて朝飯前に一仕事しているという人もいるが、自分はどちらかというと夜中に目が冴えて夜長する性質、とても毎朝5時起きなどという芸当はできない。

 朝、夜明け前に目覚めて、起きてごそごそ動いているうちに夜が白々と明けて来るというのは、確かに気分が良いと感じはする。それが日課になれば良いと、その時は思うのだが、それでも夜は夜で、夜中近くに小さな雑用を見つけては夜更かしをしてしまう。結局、早起きはせいぜい2日くらいが限界で、それ以上続けると昼間に眠くて仕方ない。それどころか、昼頃になると身体で刻んでいる時刻と時計の時刻とのズレに悩まされ、頭がボーっとして、仕事の手順もいつも通りには進まなくなる。

 何度かは、早起きのリズムを身に付けようと1カ月以上頑張って見たこともある。しばらく続けると、何となく、「もう大丈夫」という感覚になっては来るが、そう思って気を抜いて一週間過ごすと、「きちんと」早起きのできない以前の身体に戻っている。こうなるともう節電を極め、電気を使わずに「日の出と共に起き、日の出と共に寝る」生活に入るしかないだろう。

 若い頃、山に行ってた時も、山でのテント生活の間だけそれが出来たが、下界に下りると次の日には夜中に友だちの家で朝方まで飲み続けたりする。「人間界にいる」という証が「夜更かし」なのだ。だが、野鳥に会いたければもっと「鳥のリズムに合わせて、自然界で生きる」という感覚が必要なのだ。野鳥は夜明けとともに起き、餌を求めて動き出す。朝早く出掛ければ、おそらく10倍の鳥に出会えるだろう。まだまだ「鳥よりは人が恋しい」という自分には、所詮無理なのかも知れない。