禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ダイバーシティとは掛け声ばかりか?

2023-02-05 06:51:49 | 政治・社会
 性的少数者について「隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ。」と発言した首相秘書官が更迭されるらしい。岸田首相は「内閣の考え方にそぐわない、言語道断の発言だ」と述べたらしい。またかという感じである。政権中枢部の人がなぜこうもたやすく失言してしまうのだろう。正直と言えば正直な人なのだろうが、いわれない差別を公職にあるものが公然と口に出して良いわけはない。なぜそれが差別になるのか? その理由は簡単、性的嗜好(志向)はその人の責任ではないからである。首相秘書官になるほどの人だから頭が良いはずなのにこんな単純なことも分からないのか。
 
 首相は「言語道断の発言」と断じたが、その発言が出たいきさつを聞くとどうも釈然としないものを感じる。岸田首相は2月1日の衆議院予算委で、同性婚の法制化について聞かれ「家族観や価値観、そして社会が変わってしまう課題」 と答弁した。荒井秘書官の「暴言」は、その首相答弁についてオフレコの前提で、記者団の質問に答えている中で飛び出したのである。荒井氏は「秘書官室は(同性婚に)全員反対で、私の身の回りも反対だ」と語ったとされている。この言葉を真に受けるなら彼の言っていることは「言語道断の発言」などではなく、内閣全体の雰囲気を代弁していることになる。

 岸田首相は「同性婚は社会を変えてしまう」と言うが、どのように社会が変わるのか、そして変わることがどうして良くないのかということについて説明しなくてはならないだろう。そもそも自民党はダーウィンの進化論を援用(曲解)して「変化することが大事」であると訴えていたのではなかったか?(参照==>「教えて!もやウィン第一話 進化論」

 自分の主観で政策を決定してはならない。十分考えてきちんと説明すること、それは政治家にとって最も重要な仕事である。
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日本歌謡曲と美空ひばりに関する論考

2023-02-04 14:04:39 | 雑感
 「20世紀の世界三大歌姫はポルトガルのアマリア・ロドリゲス、フランスのエディット・ピアフ、それに日本の美空ひばりである」という説を聞いたことがある。残念ながら、それはたぶん日本だけでしか通用しない噂話でしかない。美空ひばりを知っている欧米人がいたとしたら、その人はおそらく相当の日本通だろうと思う。美空ひばりは日本では傑出した大スターだが世界的にはそれほどポピュラーではない。日本では海外の楽曲がバンバン流れているが、その逆はまれである。中には、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」がロシアで大流行したとか、坂本九の「上を向いて歩こう」が全米ビルボード1位になったとか、三橋美智也の「達者でな」がカンボジアでカバーされたとか、たまにはそういうのもあるが、日本で流れている洋楽の量に比べると微々たるものでしかない。

 なぜ日本の楽曲特に歌曲は海外でははやらないのだろうか。やはり、それは日本語のせいではないかと私は思うのである。「日本語は欧米語に比べて論理的ではない」などといわれると私は猛然と反論したくなるのだが、「日本語は欧米語に比べて音楽的に劣っている」のは認めざるを得ないのではないかと思っている。日本語は五つの母音と九つの子音の組み合わせで発音される。しかも「ん」以外の子音は必ず母音と組み合わされて一つの文字を構成する。母音と子音の種類が少ない上に発音が五十音表できっちり固められているため、発音のバリエーションが極めて乏しいため日本語の歌はどうしても平板に聞こえてしまうのだ。歌だけではなくスピーチや詩の朗読に関しても日本語の響きは冴えない。アメリカの大統領の就任演説はかっこいいが、日本の首相の所信表明演説はなんとなくダサく感じるのは内容のせいだけではないような気がするのである。

 歌曲では通常一音節に一音符が割り当てられるが、日本語だと一文字に対して一音符となるのに対して、英語だと大体一ワードに対して一音符が割り当てられるような感じである。その結果どうなるかと言うと日本の民謡について言えば、母音を思い切り伸ばして高音を豊かな声量できれいに発音することが最も重要となる。民謡の名人であった三橋美智也の歌い方がその典型である。そのほかに工夫する余地と言えば、美空ひばりのようにこぶしをきかせるぐらいしかない。あとは井上陽水のように、ローマ字で書いた日本語を外国人が読んでいるような歌い方をするぐらいだろう。そういえばアメリカでヒットした「上を向いて歩こう」の坂本九も日本語の発声法からはかなり逸脱していたので、作詞家の永六輔が激怒したという逸話もある。
 
 戦後の日本で美空ひばりがあれほど受け入れられたのは、やはりそれまでの日本の歌曲の単調さに大衆が飽きていたということがあったのだろう。彼女のしつこいほどのこぶしをまわし過ぎの歌い方は、当時の高齢者には「子供がひねこびた歌い方をしている」と受け止められて不評だったようだが、若者には斬新な歌唱法として受け止められたようだ。聴きようによってはけれんみのあるその歌唱法は、その後の日本の演歌のあり方を決定づけてしまったようにも思える。その種の歌が好きな人にとっては、美空ひばりの歌は至芸の極致であるが、それに馴染めない人にとってはただの異様な歌い方にしか思えないかもしれない。

 
横浜市磯子区滝頭にある丸山日用品市場。この中ではいまもひばりの縁者が魚屋「魚増」を営業している。
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