禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

時間は秒速1秒の速度で進む?

2023-02-20 22:22:52 | 哲学
 アインシュタインが特殊相対性理論を発表してからは、時間の速度が一定ではないということが言われだした。高速度で飛ぶロケットの中では、地上よりも時計の進みが遅いということも実際に確認されている。特殊相対性理論の計算上では、光と同じ速度で飛ぶロケットの中では時間が止まってしまうことになる。その事からの延長として、光速を越えれば時間の流れが逆転するのではないかという連想が生まれてくるのは自然だろう。そういうところから、時間の進む速度というものについても言及したくなるのは当然で、「時間の速度は秒速1秒」という表現をして見たくもなる。

 「時間の速度は秒速一秒」というのは、どう考えてみてもナンセンスである。速度は時間を基準とするものだからである。一秒後に一秒が経過しているのは同語反復で、「秒速1秒」がなんら意義のあることを示しているとは考えられないからである。それでもこういう言い方が言葉として成り立つような感覚があるのは、「時間」という言葉を使うことによって、その対象としての時間そのものが存在するかのように思えるからだと思う。

 しかしどのように考えてみても、流れている時間または動いている時間そのものというものは存在しない。どこを見てもそんなものは見当たらないのである。では、「光速ロケットの中の時間は遅れる」というのはどういう事態であるかを考えてみよう。よくよく考えてみれば、「時間が遅れる」という場合の時間そのものは誰も見てはいないのである。どういう事態が生じているかと言うと、ロケットの中で起きていることの全てのプロセスが地上に比べて遅く進むということなのである。つまり、ロケットの中の時計は地上の時計に比べて進み方が遅くなる。つまり、遅くなるのは時計の針の動きである。ここは端的に、「時計の針の動き具合を我々は時間と呼んでいる」と言っても良いと私は考えている。われわれは一般に「時計の動きが時間に同期している」と考える。つまり、「時計の動きとは別に時間そのものがあって、その時間そのものの流れに時計の動きが同期している」と考えがちだが、そのような「流れる時間」そのものを確認した人は誰もいないし、これからも確認できる見込みはない。「時計の針の動き具合を我々は時間と呼んでいる」というのはそういう意味である。
 
 一般に、あらゆるプロセスは時計の針の進行具合と同期する。日の出から次の日の出までに時計の短針は24時間分進む。太陽の運行と時計の針の動きは全く別のものであるはずなのになぜか同期する。まったく相互作用しあわない別個のプロセスが同期する。実に不思議なことだが、明らかにそれらは共通の秩序の支配下にある。その秩序を「時間」と呼ぶのだろうと思う。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする