西洋には論理と言葉に依ってすべて解明しうるという考えがある。それがロゴス中心主義である。「はじめにことばありき」の言葉とは「神の言葉」の意味であり、この世界の摂理・論理である。つまり、この世界はすみずみまで神の意志によって合目的的に構成されている。したがって、この世界は思惟によって合理的に把握でき、言葉に依って表現できるはずであると考えられるのである。
もしかしたら上記のことのどこが西洋思想かと疑問に思う人がいるかもしれない。「この世界は思惟によって合理的に把握でき、言葉に依って表現できる」というのは実に当たり前の話であって西洋がどうのこうのという話ではないのではないか、と言いたくなる人が多いのではないかと思う。それはもはや西洋思想というよりも、すでに現代の日本人の中にも相当浸透していると見た方が良い。
仏教には「すべてを陽炎のように看よ」という言葉がある。いわゆる空思想である。この言葉は決して神秘的なことについて言及しているわけではない。陽炎は形としては見えるがそこに陽炎というものの実体があるわけではない、あらゆるものはそれと同じであるというのである。鴨長明は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 」と述べている。私たちは水の流れを「川」と呼んでいるが、その水は同じ水が流れているわけではない。しかも水量が増えれば流れる川筋も変化したりする。いったい私たちは何に対して「川」と呼んでいるのか? 川と呼ばれるものの実体というものはどこにも存在しない。では人間はどうか? 私たち人間は食べ物を食べ血肉とし、老廃物や吸収しないものは排泄する。人間の体は常に新陳代謝して骨でさえ約3年~4年のサイクルで入れ替わっていると言われている。つまり、同じ人間でも何年か経てば全く別の物質に置き換わっている訳である。人間は個物として独立しているように見えても、実は世界の物質の流れの中に出現する有機的で複雑な「うず」のようなパターンに過ぎない。そういう意味で陽炎に似ているのである。
晴れた日には私の家から富士山が見える。冬の晴天の日にはいつも私たちはその神々しい姿を眺めている。さて、その偉大な富士山の土砂をスコップで掬ってそれを駿河湾に捨てるとする。それを一万回や二万回繰り返したところで、富士山全体にはほとんどの影響はないだろう。富士山は厳然としてそこにあるはずだ。しかし、それを兆の千倍回も繰り返すと明らかに富士の姿は変容し、さらに続けていくといずれ富士山は跡形もなくなってしまうだろう。そうなると、富士山は一体いつまでそこにあったと言えるのだろうか? 私たちは何に対して「富士山」と呼んでいるのであろうか?
以上は物としての川、人間、山について述べてきたわけであるが、それらに関わる抽象概念についても考えてみたい。例えば「人間」という概念について考えてみよう。個物としての人間は、無常の世界の中に出現した物質の複雑な流れの中に出現した、比較的安定したパターンのようなものであるということは先に指摘したとおりである。そのようにして出現した人間は個物として見立てたとしても、どれをとってもまったく同じものは一つもない。一卵性双生児を見比べても必ずどこかが違っている。なのに誰を見てもそれが人間であると分かるのはなぜだろう? プラトンによれば「それは人間のイデアがあるからだ」となる。人間のイデアとはどの個別の人間でもない人間そのもの、人間の範型のことである。人間の定義と言ってもいいかもしれない。その人間のイデアが形而上の領域に存在していて、我々は暗黙の裡にそのことを知っている。だからどの個別の人間を見てもその範型と比較して、それが人間であると分かるのだ、とプラトンは言うのである。
人間のイデアが何に由来するものであるかはともかく、創造神を信じる西洋世界では人間も神の設計によるものであるから、その設計図としての人間のイデアという考えは受け入れやすいと考えられる。しかし、世界は無常であるとする仏教側から見ればそのような考え方は到底受け入れがたい。無常とはあらかじめなんの約束事や必然性のないこと、すべては偶然であるからである。進化論によれば人類は猿と共通の祖先をもつと考えられている。つまり、もともと人間は地球に居なかったわけである。だとすれば最初の人間というものが存在したはずである。そしてその最初の人間の親は人間ではなかったということになる。もし人間のイデアというものが存在するのなら、最初の人間とその親との間に客観的な境界があるのが誰の目にも分かるはずである。が、私にはそんなことは信じられない。そこに境界を設けようとすれば、どうしても恣意的にならざるを得ないはずである。現に生物種の定義は研究が進めば進むほど増え続けており、未だに厳密な定義というものは存在しないし、決定的な定義というのは不可能であると考えられている。
さてここまで長々と述べてきたが、なにを言いたいかと言うと「仏教的世界観ではいかなる固定的なものも存在し得ない」ということである。ということは、厳密なことを言えば個物も概念も存在しないことになってしまう。仏教でいう「空」とは概念の否定である。であれば、それらを指し示す言葉もあり得ないことになる。不立文字と言う思想もそういう所から出てくるのである。しかし、私たちは現実には言葉を使用しているし、概念や記号を使って思考もしている。現実には言葉や思考がなければ科学文明の進歩もなかっただろうし、それらの事を前提としている私たち人間は生きてはいけない。
しかし、仏教においては言葉も思考もすべて方便なのである。思考には固定された概念や記号が必要となる。しかし、現前する世界には現実として固定されたものなど無いのであるから、どれだけ思考しても我々は真理に到達することは出来ないし、また言葉も現前するものに的中することは出来ない、と仏教は説く。
固定化された概念を使用する限りにおいて、私たちの思考は二項対立を避ける事が出来ない。思考は概念に対し等しいか違っているかと命題に対し真か偽であるかの判断を繰り返すものだからである。だから、思考の結果としての思想をあまり信用しすぎてはならない。仏教において中庸がことのほか強調されるのはそのような理由によるのである。
横須賀市 立石公園の夕景 この美しさを言葉で厳密に表現することは出来ない。