禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

Jアラートって、なんだかちょっと恥ずかしい

2022-10-05 18:16:28 | 雑感
 昨日Jアラートが5年ぶりに発信されたが、最初に北海道と東京都の島しょ部に発信されたのが午前7時27分のことだという。私の記憶では、かなり長い間テレビのアナウンサーが何度も「北朝鮮からミサイルが発射されたものとみられます。建物の中、または地下に避難してください」 とアナウンスを繰り返していた。ところが、実際には7時29分には青森県上空を通過していたのだという。私たちはその後も無意味な警報音と同じ文言のアナウンスを繰り返し聴かされ続けていたわけだ。

 なんともおかしい話ではないか。日本にはアメリカから購入したミサイル迎撃システムがあるのではなかったか? 飛んでくるミサイルを打ち落とすというほど精密なシステムなのだから、瞬時に日本に着弾するおそれがあるかどうかぐらいは判断できるくらいでなければ用をなさないのではないか。もし日本の領土内に着弾するおそれがあるのであれば迎撃すれば良いし、その可能性がないのなら警報は必要ない。いずれにしろ何十分間もテレビの全チャンネルを占有して大騒ぎするのは行き過ぎというものではないか。

 おそらく2017年当時、政府には国民に安全保障問題に関して、国民に危機意識を植え付ける必要があったのだろう。多分アメリカの要請に応じて防衛費を増額する必要に駆られていたのだろう。それで、まるで戦時下でもあるかのような警報音を響かせたわけだ。しかし、北朝鮮がミサイルをロシアや中国の方に打てるわけはないので、どうしても東の方向に打つしかない。大陸間弾道弾なら必ず日本上空を超えることになる。これからも北朝鮮がミサイル実験をするたびに、大仰に警報音を鳴らして戦争ごっこをするのだろうか。うんざりを通り越してなんだか恥ずかしい。


吉野家の牛丼並盛 + 肉だく
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仏教と呪術

2022-10-03 14:08:54 | 哲学
 呪術というのは「超自然的な方法によって意図する現象を起こそうとする行為,信仰,観念の体系の総称。 (コトバンクより)」である。宗教と呪術の位置はとても近い。それは前回記事でも述べたが、この世界の根源的な問題が理屈では割り切れないということにあるのだろうと思う。それで宗教にはどうしても呪術的要素が入り込みやすいのである。

 そのことについては仏教も例外ではない。地獄・極楽だとか六道輪廻だとか、誰も見たことのないはずのものが仏教的説話にはいくらでもある。かつては鎮護国家というような考え方もあった。私は子どもの頃「蒙古襲来」(インターネットで確認したところ、正確には「日蓮と蒙古大襲来」が正しいらしい)という映画のポスターを見かけたことを覚えている。日蓮が「南無妙法蓮華経」を唱えて、モンゴル軍を撃退したというお話しである。日蓮にはこのような超自然的な逸話が多い。

 問題は、このような超自然的要素を含んでいる宗教の方がそうでない方よりバイタリティがあるのではないかということだ。というのは、明治以降に日本に生まれた新興宗教には日蓮系のものが多い。創価学会、霊友会とそれから枝分かれした立正佼成会や仏所護念会等々、いずれも伝統的な仏教諸派より活動的な気がする。新興宗教に共通していることは、先祖供養とか前世の罪業について言及することが多い。つまり、呪術的要素が多いということだろう。そちらの方が無とか空だとかいう話より分かりやすいということがあるのだろう。

 しかし、仏教は本来呪術的なものを一切含まない極めて知的な宗教、もっと言えば普遍的な思想と言ってしまってもよいと私は考えている。その根拠は無記ということである。釈尊は超自然的なことには一切言及しなかったのである。無記は仏教においてはもっとも重要な要素の一つであるはずである。そういう意味において、日蓮系や密教系の諸派は釈尊の提唱した仏教からはかなり外れているように思う。もっとも、そんなことは御坊の個人的見解で、世間では「仏教」という言葉はもっと広く使用されている、と言われればそれまでであるが、私としてはあくまで釈尊は呪術というものを否定していたと考えたいのである。

 先祖の御霊の安寧を願って供養するというのは良いことだと思う。それはおのれを空しくして祈ることに通じ、釈尊の教えにもかなっている。しかし、高額の壺を買って祖先の霊に手向けるとなると、それはもう呪術の範囲である。自分の財力によって霊的な世界に影響を及ぼそうとする、そういう行為を親鸞は「自力作善」と言うのである。ある種の思い上がりである。そもそも先祖の御霊は金品を必要としていない、必要なのは敬虔な祈りだけである。

 そう、神仏の世界に金品は必要ないはずである。金品を必要とするのは生きている人間だけである。お布施にしてもそれが神仏の手に渡るわけではない。坊さんだって霞を食って生きていけるわけないので、結局お布施は坊さんの生活費や教団の運営費となるわけである。だからお布施はするべきである、もしその宗教があなたにとって必要ならばであるが‥‥。
 それにしても統一教会のように、豪勢な施設を韓国に造るために信者の生活が破壊されかねないほどの法外な額の献金を集める、というのはどう考えてもおかしい。信者の為に教団は在るべきであって、教団の為に信者があるのではないはず。信者に高額な献金額をほのめかした時点で、その人物は宗教者などではなくて詐欺師であると即断しても良いというか、そのように即断すべきだと思う。重ねて言うが、神仏の世界に金品は必要ないのである。

 ちなみに、呪術を英語では magic というが、magic には奇術という意味もある。日本語では超自然的かそうでないかで呪術と奇術を区別するが、英語ではどちらも magic と言う。しかし、普通に考えれば超自然的なことと云うのはあり得ないことなのだから、人の目をくらますことをすべて magic と呼ぶのは理に適っているという見方もできる。統一教会のやっていることも心理学を悪用した magic すなわち「奇術」にちがいない。

 
東海道線根府川駅のホームからは相模湾が一望できる。
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