新生児の顔を覗き込むと、「ニカッ」と笑うことがある。その笑顔を見せられると、どんな人も心和ませられるものがある。おそらく、赤ちゃんの笑顔に抵抗できる人などいないだろう。しかし、学者に言わせると、あれは反射なのだそうだ。赤ちゃんは面白くて笑っているわけではなく、大人が顔を覗き込むと反射的に笑うことになっているというのである。
「『自分が笑うことで周囲が易しくしてくれる』という、赤ちゃんなりの自己防衛手段だと考えられています。」
このような説明の仕方をされると、まるで自分が赤ちゃんにだまされているようである。「反射」と言う言葉には意思を伴わない「機械的」な反応というニュアンスがあるからだろう。進化論的見地から言えば学者は言うことは当たっているのだろうが、私に言わせれば、この「反射」こそが人間の根源ではないかと思うのである。「そういうふうにできている」とでも言えばよいだろうか。赤ちゃんの生理的微笑に対して沸き上がる感情は、決して勘違いなどではない言いたいのである。それが勘違いだというならば、男女の性愛などというのも大いなる勘違いであるということになってしまう。ただお互いに勘違いしあっているので、勘違いしているということに気がつかないだけだという説明もできる。赤ちゃんの微笑は一方的な勘違い、恋愛はインタラクティブな勘違い、ということになるだろうか。
人間を超越した視点から見下ろせば、どのような人間的行為もニヒルなものに見えてしまう。赤ちゃんの微笑も男女の性愛も、すべては生存のため種族繁栄のためという話になってしまい、そこには唯物的な現象が繰り広げられているだけのことになってしまう。
しかし、私達はあくまで人間である。すでに価値観を持った人間として生きていることを忘れてはならない。人間でありながら人間以外を生きることなどできないのである。赤ちゃんの微笑は我々にとってとても重要な価値がある。そこに価値が見いだせないなら、人生そのものにも価値はないのである。
神代桜(山梨県 北杜市)